らんだむ書籍館


表 紙
〔口絵写真〕 鷲津毅堂
〔口絵写真〕 鷲津夫人 美代子 ・ 孫 壮吉
           (明治四十五年撮影)


目 次


  自 序

  下谷叢話

  葷齋漫筆

  大田南畝年譜



冨山房百科文庫
永井荷風 改訂・下谷叢話」


 冨山房。 昭和14(1939)年11月。
 縦 17 cm、横 11 cm。 紙装。 本文 302頁。

 「冨山房百科文庫」に属する書としては、既に 幸田露伴・校訂 「芭蕉翁絵詞伝」(昭和13年刊) を紹介した。
 この「改訂・下谷叢話」 (以下「本書」という) は、そのちょうど1年後の刊行であるが、この百科文庫の連続番号 ”94” が付されており、「絵詞伝」の ”36” のあと 58冊が継続刊行されたことを示している。 ただし、上中下3冊からなるような書においては、それぞれの冊に番号が付されているので、書目の数としては、48点である。
 なお 本書にも、本来は 「芭蕉翁絵詞伝」と同じく、富士山を大きく描いたカバーが付されていたはずであるが、それは失われている。

 右下の目次には 「下谷叢話」・「葷齋漫筆」・「大田南畝年譜」の 3篇が並んでいるが、本書の主体をなすものは、表題となっている「下谷叢話」である。
 「下谷叢話」は、 永井荷風(明治12(1879)~昭和34(1959)、本名:壮吉)が、母方の祖父で漢学者の鷲津毅堂(文政8(1825)~明治15(1882))の生涯を 周辺の人々との交流の中に描いた、一種の伝記である。 ただし、家系を遡って 毅堂の曾祖父・鷲津幽林から記述が始まっており、幽林の長子・竹渓が大沼家に入り、その子の大沼枕山が漢学者として大成し、毅堂との関係を深めることとなるので、鷲津・大沼の両家に跨る やや複雑な記述となっている。
 初刊は大正15(1926)年、春陽堂の発行であるが、発行後 知友からの種々の教示を受けて 改訂版を作成しておいたところ、この文庫へ収載されることとなって 刊行することを得たと、荷風は 新たな序文を付して その喜びを述べている。  この改訂版は、「第一」から「第四十三」までの見出しを付した 43章から構成されている。 単調な記事の連続であるのを、読みやすくするための工夫であろうか。

 「本文の一部紹介」としては、  ① 「第四十」の章の 前後の二部分。  ② 「第四十一」の章の、やはり前後の二部分。 を、摘録する。
 「第四十」には、維新後、毅堂が司法省に出仕して栄達を遂げたこと、その結果 官職の傍ら、自らの詩文稿を整理して 刊行の準備を進めるなど、悠々と晩年の生活を送り、明治15年に病没したことが述べられている。 (なお、文中に引用されている毅堂の文(漢文)は、片仮名による訓読文のため 読みにくいので 平仮名に換え、漢字の多くに訓みを施した。)
 「第四十一」には、旧知の人々が 栄達により傲慢になった毅堂を 辛辣な目で見ていたことが、中根香亭の戯文の引用などで 述べられている。 毅堂の人となりを、可能な限り客観的に示そうとした結果であろう。



本文の一部紹介



第四十



 明治四年辛未の春 毅堂は司法省出仕を命ぜられ 宣教判官に任ぜられた。 以後 毅堂は 明治十五年の秋 病んで没するの時まで 司法省の官吏となつてゐたのである。 其の官名は 官制の改定せらるゝ毎に変つてゐる。 碑文(後半に記されている三島中洲の碑文)辛未、宣教判官に拝す。 既にして又 権大法官、五等判事に歴任す。 官 廃せられて罷む。 又 起つて司法少書記官と為る。 としている。

 

 明治十年 丁丑の年 毅堂は 慶応以後十余年の詩文稿を編して 梓刻(木版印刷のための版木の制作)に取りかゝらせた。 自叙の日附には 明治丁丑除夕としてある。 叙に曰く、秦漢以上 文藻をとうとばず。 故に 子(「経・史・子・集」という漢籍分類における「子」部の書。 主張や独自の説を述べた書で、諸子の類。)有つて 集(前記分類における「集」部の書で、詩文の書。)なし。 之れ有るは 六朝より始る。 然れども 唐宋大賢の文を観るに 直に胸臆を抒し 通暢明白にして 切に事理に当る。 の彫虫篆刻する(細部の表現に苦心する)者とは 背馳せり。 名は集なりといへども 実は子なり。 凡そ事は 名実相副ふを貴ぶ。 惟 集はすなはち 然らず。 むしろ 名に反して実に従ふ者なり。 然りといへども 余 之を能くすとふにらず。 願はくは 学ばんかな
 明治十年丁丑七月十日に 毅堂の女(むすめ)恒が 十七歳にして 永井禾原に嫁した。 禾原は わたくしが(の)先考(父・永井久一郎、1852~1913)の雅号である。 先考は 此時 年廿六で、数年前米国より帰朝し、東京女子師範学校の訓導に 任ぜられてゐた。
 明治十四年の夏 毅堂は学士会の会員に列せられた。 翌年 壬午の秋 毅堂は胃癌を患ひ、枕に伏すこと三旬あまり、その年の十月五日に簀を易へた。 享年 五十八である。 碑文(後出・三島中洲の撰文)十五年壬午の秋 病んで家に臥す。 就ち司法権大書記官を拝し、勲五等に叙し 雙光旭日章を賜ふ。 十月五日 特旨従五位に叙す。 是の日 卒す。年 五十八。 谷中天王寺に葬る。 儀衛兵を賜はりて之を送る。 故旧門人 会する者 車馬道に属す。 観る者 歎息して 儒者未だ曾て有らざるの栄と謂ふ。 としてある。
 葬儀は 神式を以て行はれた。 墓誌は 門人・村上函峯がつくり、墓石の書は 門人・神波即山が筆をふるつた。
 明治十六年十月 毅堂の門人等が 先師の名を不朽ならしむるため、石碑を 向島 白鬚神社の境内に建てた。 碑の篆題は 三条実美が書し、文と銘とは 三島中洲が撰した。 然し 「明治碑文集」及び「中洲文稿」に載録せられた撰文と石面の文とを対照するに 稊 異同のあることを わたくしは発見した。 石刻の文を以て定稿となすべきものであらう。
 毅堂の亡後 其家は嫡男・精一郎が継いだ。 精一郎は 字(あざな)を文豹といふ。 一時 官吏となつて岩手県に赴任したが 須臾にして致仕した。 以後 今日にいたるまで幾十年、文豹は世の交を避け 閒適の生涯を送つてゐる。 近年 其角堂の社中に遊び 楊柳庵と号して俳諧を娯しみとしてゐる。




第四十一



 中根香亭の著「天王寺大懺悔」なるものに 毅堂のことが書いてある。 「天王寺大懺悔」は 谷中天王寺墓地に埋葬せられた名士文人が 夜半 墓より顕れ出で、毘沙門天の質問に応へて 各 生前の事を語るといふ 諷刺の作である。 明治十九年 金港堂から刊行せられた。 こゝに 毅堂に係はる一節を摘載する。
  跡につゞいて六十歳ばかりの少し小造りなれど眉毛濃くはつきりとした官員体の人 進み出で厚紙の名札を差し出しければ 毘沙門天受取つて見たまふに従五位鷲津宣光とぞ記したる。 其の人申しけるやう 拙者は別号を毅堂と申す漢学者でござる。 昔も下谷辺をあちらこちら住居いたして居りましたが、何を隠さう其のころは至つて貧窮で 雨天のせつは家の中で引越しをするくらゐなこと。 しかし其時分は返つて風流で枕山蘆洲雪江などゝ、ソレ直きそこの教育博物館の向角にあつた真覚院の詩会などには必ず出掛けたものでござつた。 そのうち御成道の黒田石川等に聘せられて藩政の相談にあづかり 後には本国の名古屋藩となり、維新のころ頻に盡力いたしたゆゑ、司法省へ召出され判事となつたが病み付きでわる気でもないが、(略)夫より身分の進むに従ひ居は気を移すといふでもないが何だかやたらに高ぶりたくなりましたゆゑ、昔の友人が尋ねて来ても しびれの切れるほど待たせて置き やがて襖を左右へ開かせて静にねり出しなどしました。 後では もうよそうとも思ひましたれど 謂はゆる騎虎の勢で 俄に改めるわけにもゆかず、其のまゝに推し通しましたが 今となつて考へて見ると、権大書記官ぐらひで あんな容体(もったいぶること)をいたさねばよかつたとぞんじます。云々。



参 考


 上掲 「第四十」 の記述は、毅堂の 胃癌発症から病没に至る経過が 簡略に過ぎるようである。 この間にも、執筆や知友の来訪などがあったはずで、その記述が無いのは、荷風に資料が不足していたためであろう。
 すなわち、上記における発症時期「十五年壬午の秋」に相当する 「明治壬午之歳九月」に執筆されたとする、「雲煙供養碑」が存在する。
 この碑については、中村作次郎『好古堂一家言』(大正8年刊)なる書に、次のように記されている。
〇 田沢静雲は 越中富山の生れで、もとは売薬の行商をして諸国を廻つた人ですが、東京へ来て、古筆了仲の家僕に入込んで鑑定を学び、後 遂に書画商になりました。 中々の勉強家でして、文人墨客の交際も広かつたから、故人になつた文墨諸名家を始め華客同業者等一百余人の雅霊を弔はんが為めに、雲煙供養の碑を谷中天王寺の五重塔の側へ建てました。 雲煙供養四字の篆額(題字)が三条公(三条実美)、鷲津毅堂先生の撰文を巌谷一六先生が書いたものです。 (以下3行 略)
 この記事は やや不正確で、毅堂の碑文によれば、田沢静雲は まず上野・不忍池の「生地院」で、百余名の文人の書画を陳列して 追善供養を行ない、その事実を後世に残すため、谷中の墓地内にその旨を記した碑を建てたのである。 それにしても、百余名の追善供養というのは不自然であり、少なくとも 書画陳列会という商売がらみの意図があったものと思われる。
 毅堂はしかし、あくまでも善意に解釈し、中国(清)の宋漫堂という文人が はるか宋代の蘇東坡の誕生日を祝った故事に結びつけ、彼は東坡一人を対象にしたに過ぎないが、此方はこのような多人数に対して 盛大に行ない、五果を献ずる代わりに書画を以てしたのであると 意義付けている。 全文405文字中 20字以上の判読不能文字があるので、全文を掲げるのは差し控え、その特徴を述べると、通常の碑文には「銘に曰く」として四言句や五言句を整然と並べた頌徳の韻文が置かれるが、ここには「招魂の辞として石に書さん」と、『楚辞』の「招魂」に倣って 句末助詞「兮」を用いた長短句からなる 荘重な韻文が置かれている。 その部分のみを (原文と試訳を対比して) 示せば、次のとおりである。 (□は 判読不能文字で、この部分は訳を省略。)

  龍飛兮 鳳挙雲天兮               龍は飛べり おおとりは雲天にあがれり
  煙吐是神兮                   エンを吐くは 是れ神なり
  所依何必匰兮 盛其主如入兮           依る所は 何ぞ必ずしもうつわならんや そなえものは 其の主の入るるが如し
  琳郎之苑女登兮 図書之府            琳郎き 苑女は登る 図書の府
  霊魂帰来兮                   霊魂よ 帰り来たれ
  湖之渚 芙渠出水兮               湖のなぎさに 芙渠(はすの花)は 水を出たり
  集濬々楽出兮                  集うこと濬々(きわめて親密) 楽しみ出ず
  彼□□□首他處□容与兮
  忘□□銘以鳴者珩璜□瑀



 なお、この「雲煙供養碑」は、谷中墓地のメインストリートとも言うべき桜並木通りの、五重塔跡 近く、交番(駐在所)の向かい側(甲9号2側)に 現存している。 (右の写真) 題字は「雲煙供養」、梨堂(三条実美の号)と署す。
 ほど遠からぬ 乙8号10 の区画には、鷲津毅堂の墓があり、荷風も しばしば訪れていたはずであるが、「下谷叢話」に この「雲煙供養碑」の記述が無いのは、この碑の存在に気付かなかったためであろうか。




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