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目 次
序 (安倍 能成) 志筑忠雄の星気説 安藤昌益 天津教古文書の批判 歴史の概念 記憶すべき関流の数学家 科学的方法に拠る書画の鑑定と登録 漱石 修善寺漱石詩碑碑陰に記せる文 漱石と自分 年譜 |
本文の一部紹介 |
序
狩野亨吉先生が 昭和十七年十二月二十二に逝去されて、先考 良知先生、長兄 元吉氏の葬られた多磨墓地に埋められてから、はやくも十六年を過ぎたが、戦中のこととて 先生の木の墓標は、誰とも知らず持ち去られたやうな始末で、いかに唯物論者の先生にしても、我々には堪へ難く思はれたので、後嗣 狩野英君の了解を得、先生 校長時代の一高卒業生を衷心として醵金を仰いだところ、その高が三十六万円余に及び、先生の墓石は 先考の墓を中心として、長兄 元吉氏と同じ高さ 同じ小松石の質素なものとした為、費用も約十五万円ですむことになつた。 色々考へた末、先生の世に発表された僅少の文章で 残つて居るもの、「安藤昌益」「天津教古文書の批判」「歴史の概念」に加へて、碑文「修善寺漱石詩碑碑陰に記せる文」及び 先生の講演・談話筆記で先生の目を通された「科学的方法に拠る書画の鑑定と登録」「漱石と自分」二篇に、後述する遺稿二篇をも加へた小冊子を、一高で先生を知り、生前 先生を敬慕して居た 岩波茂雄の残したる岩波書店の厚意によつて、印刷してもらひ、約四百冊を寄付者に贈呈することにした。 先生は 自分自身 文章を発表されることを嫌ひ、又 著述を好まれなかつたが、先生の生涯で最も多く精力を傾けられたのが、他人の著述であつたことは 面白い。
先生の遺文中 「安藤昌益」は、昭和三年五月 岩波講座「世界思潮」第三冊の為に執筆されたものであるが、年譜にある如く、明治三十二年に昌益の 「自然真営道」百巻九十二冊の筆書文を購入して居られる。 戦後 カナダ大使として来た 故ハーバート・ノーマンは、先生の文章によつて昌益を知り、昌益について「岩波新書」中に 「忘れられた思想家」二冊を公にした。
「天津教古文書の批判」(雑誌「思想」昭和十一年六月)は、天津教の神代文字なるものの無稽虚誕を 剔抉したものである。 天津教は 竹内巨麿と称する茨城県磯原の文字も書けぬ無学者を中心として、海軍の将官級の者等が周囲に居て画策したと伝へられるが、当人は「神宮及び神祠に対する不敬」の廉で、昭和十二年九月に起訴され、先生逝去の年には 東京に控訴中で、法廷にも証人として出席されたといふ八田さんの記憶もあるが、裁判の結末は見られなかつたといふことである。 この文章は 実に三ケ月に亙る夜間の苦心執筆の結果だと、久野収君の話であり、又 先生は この事を思つて数夜 眠をなされなかつたさうである。
「歴史の概念」は、昭和十六年八月に 河合栄治郎 編の「学生と歴史」に載せられたものを、八田さんが 昭和二十一年七・八月合併号の「丁酉倫理」に再録した。
「科学的方法に拠る書画の鑑定と登録」は 昭和五年十一月より二回に亙り 「学士会月報」に 講演筆記として出たものである。 外に 漱石に関する談話を採録したが、先生は漱石の作品をもらつても読まず、漱石の作品よりは講談の方が面白いといつて居られた。 しかし 漱石は先生を尊敬し、先生も漱石を軽蔑はされなかつたであらう。
なほ 先生の文章に添へて年譜を付した。 これは 先生の四高時代の受教生、八十五翁 八田三喜さんの苦心に成つたものを、私がいくらか取捨したり、付記にまはしたりして 整へたものである。 八田さんは 万事私に任せられたが、その本意に反きはしなかつたかと 恐れて居る。
なほ 先生について書かれたものには、私の知る限りでは、八田さんの「狩野亨吉先生」(昭和十八年六月「科学史研究」)、久野収君の「狩野亨吉、人と思想」(昭和二十二年四月「中央公論」)、小林勇君の「めぐりあわせ ― 鴎外夫人の死と狩野亨吉博士の死」「編集者の回想録」中の「狩野亨吉」(共に小林勇『遠いあし音』に収録)、拙稿「狩野亨吉先生を弔ふ」(昭和十七年十二月二十五日)、「狩野先生のこと」(昭和十八年一月十七日、二篇共に拙著『戦中戦後』に収録)があるけれども、筆者の主観によつて先生を歪めることを恐れ、先生自身をして おのづから先生を語らしめるよすがとして、先生の乏しい遺文と談話とを採録する外には、客観的事実の記載なる年譜を付するに止めた。 年譜の理解を助ける為に私のした付記が、この趣旨を傷けないことを願つて居る。 なほ 先生には、京都帝国大学文学部でされた講義がある。 その下書や筆記も残つて居るが、これは更に精到な検討をも必要とするので、先生に親しく接して先生の教を受けた久野君の意見にも従ひ、ここには収録しなかつた。 なほ 久野君の前記評論によると、先生の予備門時代に「情象論」といふ小品があり、後の先生の思想の萌芽を見ることができるさうである。 この稿の写しを久野君が持つて居るはづだが、今の間に合はぬのは 残念至極である。 又 同君の説に従へば、先生は 安藤昌益の外に 合理主義経世家なる本多利明、ラプラスの星雲説に類する「混沌分判図説」を、カントやラプラスと独立に考案した長崎の通詞 志筑忠雄を尊重し、彼等の遺著は「狩野文庫」中に存するさうだが、この「志筑忠雄の星気説」及び「記憶すべき関流の数学家」の二稿が、八田、森井(健介)両君の注意で、後から本集中に採録され得たのは 幸福であつた。 なほ私は この外に集に洩れた先生の遺稿が出るのを 恐れ 且 楽しんで居る。
私自身は 先生の校長時代 一高に在学して居たし、又 その後偶然 先生の何代か後を受けて 先生が三十四歳から四十二歳まで務められた一高の校長を、五十七歳から六十二歳まで務めたといふ縁故を持つに過ぎない。 たゞ 先生の墓石を建てようと願ひつゝ 老を歎いて居られる八田さんに励まされて、この挙を思ひ立つたのである。 今度のことについて 厚意を寄せられた諸君に感謝すると共に、一々相談を重ねる煩労を厭つて、万事殆ど独断専行したことを お許し願ひたい。 なほ 岩波書店の松本作雄君は 終始煩雑な事務をやつてくれ、茂雄の次男で社長の岩波雄二郎、専務の小林勇の二君は、この集の出版その他に就いて色々心配してくれた。 合せてその厚意を感謝する。
なほ この遺文集は 先生を慕ふ人々で読みたいと思ふ人もあらうかと思ひ、折角の好機会だから、余計に幾らかを刷つて 岩波書店から市販することに計らつた。 この書によつて 先生の追憶を新たにしてもらへれば、編者は満足である。
昭和三十三年十月 安倍能成
科学的方法に拠る書画の鑑定と登録
昔し 静御前が「昔を今にするよしもがな」と舞 歌つた話があるが、これは彼女が切ない想を語つたもので、気の毒であるが、望んでも出来ない相談である。 しかし 昔を見るだけのことならば 或は出来はしまいかと考へたのは 英吉利の物理学者 ストーン である。 もう六七十年前の人であるが、過去を現在に於て見ることの可能性を考へたのである。 其訳を 光線よりも早い速度を持つものががあると仮定し、さうした速度を持つ飛行機の如きものに乗つて 光線を追つかける。 さうすると 遂に追付くと云ふのである。 成程 当時に在つては 是は合理的の想像であつた。 近年に成つて アインシュタインの相対性原理が唱道せられてから、光線より早い速度を持つものは存在し得ないといふことになつたから、今日では一応 陳腐な考として葬るべきであらう。 併しながら 機械的装置に由て過去を知る工夫が 何時出来上がらないとも限らない。 霊的作用では今でも出来るといふから、物理学者は一憤発せざればなるまい。 一体 空間を充満すると思はれてゐる我宇宙系統は、実際は有限であるのでは無からうか。 もし この想像が当つてゐるとすると、極限に達した光線は 或る形の反響を与へずには済むまい。 もし 原形のまゝ反射し来るとしたならば、歴史は何処かで繰返されて見られることに成るであらう。 極限が球状であつたら、其影像は肉眼を以て見ることが出来るほど 明瞭なものであるであらう。 こんな想像に頼つて 気休をしてゐることが出来ないなら、どうしても過去を見る装置を工夫せねばならない。 さうした装置に於ては 近き過去が 自然 初めに現はれ来るであらうから、其装置が出来上つたら 過去逆視鏡とでも名づけられるであらう。 そこで 仮に逆視鏡が出来上る時代に先走つて 我輩の問題を取扱つて見る。 最早 あらゆることが機械によつて解決が着くのであるから 何の面倒もない。 唯 逆視鏡を問題の文晁の画の上に向けて 凝視すれば 足りる。 逆視鏡に掛けると 歴史は逆に展開されることは 申迄もない。 そこで 霊魂が肉体に化け、敗戦が必ず盛返されて 互角の取組となるなど、とても珍妙不可解な現象があつて、到頭 文晁が眼の前で画を書き初める。 盛に筆を揮つてゐるが、画は段々と消え、遂に白紙ばかり残つたと思ふと、文晁自身も いつしか姿が失(う)せて仕舞ふのである。 扨(さ)て 文晁は失せたが、併し 文晁が此画を書いてゐるところを 慥(たしか)に見届けた。 であるから 証拠を握つたと取つて差引はない。 果してこれが 完全なる証拠であらうか、否 尚ほ疑ふ余地がある、更に進んで 文晁が替玉で無かつた証拠を 見付ける必要があるからである。
終