らんだむ書籍館


表紙

目 次


  董作賓氏を悼む     貝塚 茂樹

   ・其肈        加藤 常賢

  帝舜考         林 巳奈夫

  卜辞に見えた「衆」と「衆人」について
               M.B.クリュコフ
               松丸道雄 訳


  衆攷          石田 千秋

  殷墟卜辞の帚について  大嶋  隆

  殷代にける祈年の祭祀形態の復元(中)
              赤塚  忠

  出土資料による西周史再構成の試ろみ
              伊藤 道治

  先秦時代の関と関税   佐藤 武敏

  金文札記(四)―距末―  内藤 戊申

  殷墟書契後篇釈文(六) 池田 末利

  日本散見甲骨文字蒐彙(四) 松丸 道雄

  書道博物館蔵甲骨文字(五) 青木木莵哉

    創刊号 ~ 十号 総目録

日本甲骨学会 「甲骨学 ・第十号


 昭和39(1964)年 7月。
 縦:246 mm、横:175 mm。 本文 248頁。
 日本甲骨学会(東京大学 中国哲学研究室内)。 
 編集 兼 発行者 : 赤塚 忠。

 当書籍館においては、明治期までの木版印刷、明治期以降の初期活版印刷や銅板(エッチング)印刷 など 印刷技術の変化・発達にも注意を払いつつ、各種書籍を紹介してきた。
 印刷技術の変化・発達には、必ずしも 品質の高度化や印刷効率の向上をもたらすもの のみではなく、書籍制作技術の簡便化という 応用面の拡大をもたらすものもあった。 明治後期に実用化された 謄写版印刷(孔版印刷、ガリ版印刷とも言う)は、その簡便な書籍制作技術の代表例とも言うべきもので、制作例も多い。



 この「甲骨学」は、日本甲骨学会という学会が発行していた 機関誌(論文誌)である。 ここで 「甲骨学」という語そのものは、亀甲や獣骨に刻まれた中国の古代文字について研究する 人文科学系の学問領域を表わしている。 まず その亀甲や獣骨に刻まれた中国の古代文字なるものを、本誌中の図版で 左に示しておく。 目次中の「日本散見甲骨文字蒐彙(四)」(松丸道雄)の図版の一つで、獣骨に刻まれた文字である。
このように、字形を正確・明瞭に図示できるのが、謄写版印刷の特色である。

 右に掲げる目次中の 「創刊号 ~ 十号 総目録」 によれば、本誌の第1号は 昭和26年(1951年)10月に刊行されているから、学会としての活動は 少なくとも13年に及んでいる。 巻末の奥付には、「東京都文京区森川町・本郷プリント」という 当時 東京大学の近くに存在したらしい印刷工房の名が記されているから、こうした工房の職人の技術で、学術活動が支えられていたわけである。

 本号には 先ず、貝塚茂樹(1904~1987、当時 京都大学人文科学研究所教授)の「董作賓氏を悼む」という文章が掲げられている。 董作賓(1895~1963)は 中国の考古学者で、甲骨文字研究の先駆者の一人でもあるが、ちょうどその訃報に接して、我が国学界の年功者である貝塚が 代表して追悼文を執筆したのであろう。
 貝塚は、この学会におけるリーダ的存在であったと考えられる。   



参考

 目次の11番目にある 池田末利「殷墟書契後篇釈文(六)」 は、この「甲骨学」 誌の第4・5合併号(昭和34年発行)から連載されている論文である。
 「殷墟書契(前編)」(1913年刊)および「殷墟書契後編」(1916年刊)は、甲骨文字研究の先覚者・羅振玉(1865~1940)が編集・刊行した甲骨文資料集である。 その前編については 後輩の学者・葉玉森(1880~1933)の注釈書が出ているが、後編については注釈がなされていないので、池田がそれを「殷墟書契後篇釈文」として論述すべく、ここに連載していたのである。
 本誌に連載後、池田はそれを一本にまとめ、「殷墟書契後篇釈文稿」 として昭和39年(1964年)に刊行した。 (全200頁。 発行者は、「広島大学文学部 中国哲学研究室」となっている。)

 この書もまた謄写版印刷によるもので、広島市の「有限会社創元社」という工房が その印刷を担当した。 謄写版印刷は まず製版のための筆耕に手間がかかるが、さらに著者による校正に対して時間と神経を費やしたことであろう。 著者・池田の序文において、特に工房の三名の担当者および社主の氏名を挙げて謝辞を述べているところに、その事情を窺うことができる。






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