らんだむ書籍館 |
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表紙 簡素な「くるみ製本」の表紙であるが、 印刷デザインで 和本仕立てに見せている。 ここに何が表現されているのか(文意) に ついては、下記目次の[絵画]の最後にある 「自画自賛」に関する解説を参照されたい。 |
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目 次
[口絵色刷](オフセット多色刷) オックスフォード大学(水彩) 達磨(水彩) 柳陰人馬(水彩) スケッチ(水彩) [写 真] 夏目漱石肖影 祖父母(画像) 父 夏目小兵衛直克 母 夏目ちゑ 異母姉さわ 長兄 大助 中兄 栄之助 三男 直矩 少年時代 夏目家跡 夏目家累代之墓 予備門時代 漱石と米山天然居士 漱石と友人 大学時代 親友米山保三郎 上野不忍池畔にて 見合の写真 松山の宿 同家裏二階外観 貴族院書記官長官舎 岳父中根重一 大学時代の正岡子規 松山市二番町の宿 同家階下 坊つちやんの間 当時の松山中学校 松山時代の漱石 熊本第五高等学校 光琳寺町の家 松山中学校卒業記念写真 第五高等学校卒業記念写真 第五高等学校卒業記念写真 小天漱石館全景 前田案山子居室 合羽町の家 漱石肖影 漱石館内部 大江村の家 内坪井町の家 北千反畑の家 教授朊の漱石 英国留学前の記念撮影 漱石辞令書類 千駄木町の書斎にて 千駄木町の家 一高文科卒業記念撮影 文科大学英文科卒業記念撮影 文科大学英文科卒業記念撮影 本郷西片町の家 漱石肖影 漱石肖影 一高の玄関に立つ漱石 早稲田南町の家の玄関 漱石・行徳俊則・長女筆子 漱石肖影 猫の死亡通知 猫の供養塔 森成麟造別宴記念撮影 同写真裏漱石自筆説明書 同氏に贈つた銀のシガレツト・ケース 漱石肖影 早稲田南町漱石山房書斎 漱石山房外観 同南縁にて 修善寺温泉菊屋本店二階客室 修善寺日記の一節 漱石・純一・伸六 漱石・中村是公・犬塚信太郎 義妹豊子結婚記念撮影 令息令嬢記念撮影 漱石山房書斎にて 臨終数刻前 デス・マスク(津田青楓 筆) デス・マスク 執筆用の机 霊前 青山斎場の葬儀 旧墓地 石標銘 一周忌法要 現墓地 現在の漱石山房内部 [絵 画] 山上有山図 閑来放鶴図 山下隠栖図 東家西屋図 青竹図 竹石図 墨竹図 漁夫図 盆栽と甕 芭蕉図 脩竹屋図 椿図 煙波縹渺図 一路万松図 柳図 花開水自流図 竹石図 蘭図 牡丹図 石に椿 水仙図 竹林煮茶図 あかざと黒猫 松下道士図 自画像 自画自賛 [墨 蹟] 帖 芳菲看漸饒 酒渇愛江清詩軸 夜色幽扉外 帰去来辞の一部 題自画 客路青山外詩軸 仰臥人如唖 閑居偶成 短冊 人閑桂花落 四季の句 一草亭中人 雲山碧層々 独座幽篁裏 題自画 高岫多残照 短冊(3点) 書簡(鏡子夫人宛) 書簡(林原耕三宛) 客中憶家 扇面 「明暗」原稿の一部 「明暗」初版本表紙 「鶉籠」初版本表紙 [落丁] 「道草」初版本表紙 [落丁] [印 譜] 津田青楓宛漱石消息 [落丁] [本 文](文章) 父漱石を語る 夏目 伸六 漱石の拙 津田 青楓 |
本文の一部紹介 |
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4点の水彩画が 「口絵色刷」に選ばれている。 「口絵色刷」以外の部分は すべて白黒の頁であるから、これら4点は 特別扱いである。
「オックスフォード大学」 と 「スケッチ」 の2点は、稚拙な習作で色刷に値しないが、「達磨」 と 「柳蔭人馬」 には 表現上の工夫があり、何らかの思想性も感じられるので、それらをここに掲げる。 (「柳蔭人馬」 は、馬の姿態がやや不自然であるが。)
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柳蔭人馬 達磨
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[写真] の部分では、家族や友人の写真がよく残されていたことに 感心させられる。
ここには 長男・純一(右側。学生朊姿で椅子に腰かけている。)、次男・伸六(左側。着物に袴姿で、漱石に手を掛けられている。)と 漱石との集合写真(大正3年)を掲げる。
漱石は、男児と女児とで接し方が異なり、男児に対しては異常な厳格さを示したとされるが(そのことについては、[本文]の項で説明を加える。)、この写真では ごく普通の父親としての、穏やかな表情を見せている。
漱石が生涯の各時期を過した住居の写真も、ていねいに取り上げられている。
ここには、漱石が明治36年3月から39年末まで 4年近く住んだ 「千駄木町の家」を掲げよう。
この家は、漱石がここで『我輩は猫である』を執筆したので 「猫の家」と呼ばれ、また漱石より10年以上も先立って 森鴎外が住んだことがあり、「二文豪の家」とも称された。 これらの事実については既に、「文芸春秋」 第十三年 第四号 で 斎藤阿具「二文豪其他の名士と私の家」という文を紹介した。 斉藤は、その文に「千駄木の町内でも、まづまづ旧時の面影を保てる代表的なものといひ得る… 」と記しているが、確かに明治の文豪にふさわしい品格のある住居である。
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[絵画]は、いわゆる「文人画」スタイルの山水や花卉が主体で、かなり時間をかけて制作されたと思われれる作品が多い。
ここには、折りにふれて当意即妙に描いた作品2点(右の目次における「自画像」と「自画自賛」)を掲げる。
まずは、 「自画像」と題されている作品であるが、これは明治38年(1905年)2月、 土井晩翠(つちい・ばんすい、明治4(1871)~昭和27(1952)、本名:林吉)に、絵葉書として送ったものである。
絵の上下に書きこまれた文面については、岩波版漱石全集における読解を付しておく。 (改行は 一致させていない。)
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<上段の文面>
君は僕の気焔に驚くと云ふが
僕は君の健筆に驚いて居る。
此頃の文芸の雑誌に君の詩が
載つて居ない事は無い。
何しろ 大にやり玉へ。
筆硯万歳 可賀(がすべく)可賀候。
昨夜は雪。僕の前の家から火事が
出て 夜の間に焼けて仕舞つた。
今朝起きて始めて知つた。雪中の
火事は詩題になると思ふ。それを
知らずに寝て居るのも詩になると思ふ。
<下段の文面>
自分の肖像をかいたら、こんなものが
出来た。何だか影が薄い肺病患者の
様だ。君が僕を鼓舞してくれるから
今に もっと肥つた所をかいて御目に
かける。 現在の顔は此位だ。
次に、表紙にも用いられている「自画自賛」(色紙)を示す。
句にも画にも 存分のゆとりを持たせ、閑雅な境地を表現している。
(画は、書籍を脇息がわりにしているところが みそである。)
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居眠るや
黄雀(うぐいす ?)
堂に入る
小春
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[墨蹟]としては、まず 明治43年(1910年)10月に執筆した 鏡子夫人宛の「書簡」を掲げる。
この年6月 漱石は胃潰瘊で東京・内幸町の「長与胃腸病院」に入院、快方に向かったため、8月には 伊豆・修善寺温泉に転地療養したのであるが、療養中 大吐血し、一時 危篤に陥った (いわゆる「修善寺の大患」)。 このため、東京に戻って再入院となったが、医師らの努力で小康を得、翌年2月には退院することができた。
書簡は、この再入院中の出来事に関している。 鏡子夫人は頻繁に(ほぼ毎日か?)夫の許に通っていたと思われるが、ある日(10月4日)来院したとき、漱石にとって極めて不愉快な話(「御医者の礼の事」とあるのみで内容は分らぬが、愚痴っぽい感情的な話だったのであろう)をした。 漱石は 多少の注意を与えたようであるが、その場では抑制し、翌日この書簡を執筆して 自宅の夫人宛に送付したのである。 夫人の興奮が少しでも収まるように 時間を置いたうえで、諄々と諭したわけである。 文は、巻紙に毛筆で書した やや長文のものであるが、下の画像では冒頭部分(全体の 1/4 程度)のみを示し、全文は読解文(これも岩波版漱石全集)で示すこととする。 原書の写真でも判読しづらいので、その画像ではなおさらであるが、落着いた筆致で丁寧に書かれていることは 認識できるであろう。
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<読解文>
きのふ御前( から御医者の礼の事に関し 不得要領の事を聞かされたので 今朝迄)
不愉快だつた。 御前も忙しい、坂元も忙しい、池辺も忙しい、
渋川は病気だから 寐てゐるおれの考通り着々進行する事は六づかしいが、病人の
方から云ふ(と)あんな事は 万事知らずにゐるか、さうでなければ 一日も早く
医者にも病人にも其他の関係者にも満足の行く様に てきぱきと片付く方が心持が
よろしい。 どうか今度 其話をする時はもつと要領を得る様に願ひたい。
(ここまでが、上掲画像。)
今のおれに一番薬になるのは からだの安静、心の安静である。 必ずしも薬を
飲んでゐる許( や 寐てゐる許が養生ぢや ない。 いやな事を聞かされたり、思ふ様)
に事が運ばなかつたり、不愉快な目に逢はせられたりするのは、薬の時間を間違
へたり 菓子を一つぬすんで食ふよりも悪いかも知れない。 昨夕も云ふ通り 今の
おれは 今迄の費用のかた(処理)がはつきり就いて、病室の出入がざわざわしな
いで、朝から晩迄 閑静に暮す事が出来て(自分の随意に一人で時間を使ふ事)、
さうして日々 身体が回復して食慾が増しさへすれば 目前はまあ幸福なのである。
病人だから勝手な事をいふが、実際さうだよ。
一 渋川に返す本の事を忘れてはいけない。
一 野上に謡の本をどうする積( だと きく事を忘れてはいけない。)
世の中は 煩はしい事ばかりである。 一寸首を出しても すぐ又 首をちゞめたく
なる。 おれは金がないから 病気が癒りさへすれば 厭でも応でも煩はしい中にこ
せついて神経を傷めたり胃を傷めたりしなければならない。 しばらく休息が出来
るのは病気中である。 其病気中にいらいらする程 いやな事はない。
おれに取つて難有い大切な病気だ。 どうか楽にさせてくれ 穴賢( )
十月三十一日 金之助
鏡子 殿
次に、「望月楼高太清」と書した「帖」(書幅)を掲げる。
大正5年(1916年、漱石の没年)10月、神戸の禅寺から、鬼村( 元成と富沢敬道という二人の青年僧が、東京・牛込区早稲田南町の漱石宅を訪れた。 鬼村が漱石と文通していて、二人で訪問したい旨を伝え、漱石の承諾を得たのである。 二人は 10月31日まで(すなわち9日間)漱石宅に滞在し、款待を受けた。)
この書幅は、二人が滞在を終えて帰郷する時、漱石が特に書して富沢敬道(「珪堂」と号していたらしい)に贈ったものである。 (鬼村元成にも、当然 同様のものが贈られたであろう。)
書かれているのは、唐・王昌齢の六言詩(作例の少ない六言絶句)中の起句である。 ただし、原詩とは一字が異なるので(「望月楼」→ 本来は「聴月楼」。 漱石は 修正を加えた揮毫用参考書に拠ったのかも知れない。)、単なる六字句として訓んでみた。
書は、気が引き締まるような 清澄感に満ちている。
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月を望むに
楼 高くして
大( だ 清し)
珪堂禅客清鑑
(禅僧の珪堂さんに お見せする =差し上げる)
(文章)
最後の[本文](文章)としては、夏目伸六 と 津田青楓(画家、漱石の友人)の 二人の文が掲載されているが、夏目伸六の文 (「父 漱石を語る」と題されている)の方を奇貨とすべきであろう。
漱石の子女は、出生順に名を挙げると、筆子(長女)、恒子(次女)、栄子(三女)、愛子(四女)、純一(長男)、伸六(次男)、ひな子(五女、夭折)の7人である。 出生順序の遅い男児二人は、成育の差から父親との交流が少なく、遠慮するような感情が働いていたようである。 そして、その遠慮が漱石の気に入らず、激昂をもたらすことがあった。 伸六のこの文章は、漱石が激昂した一つの事件を中心に構成されている。
伸六が小学校に入る前のことである。 ある夕方、漱石は 純一と伸六の二人を連れて散歩に出た。 神社の境内に射的場があり、兄弟が射的をしたいとせがんだので、漱石はそれを許したのであるが、いざとなると兄の方は「はずかしいから いやだあ」と止めてしまい、続いて勧められた弟も「はずかしい…僕も…」と尻込みして、父親の袖の下に隠れようとした。 このとき漱石は烈火の如く怒り、伸六に一撃を加えて地面に押し倒したうえ、「下駄ばきの儘で、踏む蹴る、頭といはず足といはず、手に持つたステッキを滅茶苦茶に振回して 私の全身へ打ちおろす…」という激しい打擲を加えた という。
兄・純一の方は打擲されなかったわけであるが、おそらく一緒に打たれていると同様の 恐怖と理不尽さを感じたことであろう。 和辻哲郎『埋もれた日本』の「漱石の人物」の章には、和辻がベルリンで この夏目純一に再会したとき、純一は 父親を「癇癪持の気ちがひじみた男としてしか 記憶してゐなかつた」 と回想されている。 すなわち、兄弟二人の 父・漱石に対するイメージは、ほぼ共通していたわけである。
伸六の文に戻ると、文は その後半に至って急展開し、父への理解、自身の内省へと進んでいく。
まず、伸六が 父の全集の中に 模倣および模倣者を激しく攻撃する文章を見い出したことの記述がある。 その文章の主旨は、例の事件における漱石の怒りの理由を解説するかのような内容であるので、父を理解する契機となったものと思われれる。 そして、伸六が文の終りに置いたのは、また小学生時代に遡って、父・漱石の最期の日のことである。
「(学校から帰った兄弟が) 父の枕辺に坐つた時、今迄 眼を閉じて居た父が、ふと眼を開けて、私等の顔を見ながら笑つたけれど、その笑顔も、私にとつては忘れられぬ笑顔である。 … 最期の笑顔を見せた父は、きつとこの子も自分の為に泣いて居ると思つて居たのではないかと考へると、その時 涙一つ浮べなかつた私自身が、今 思ひ返されて来るのである。」
〔追記〕 その後 夏目純一自身が執筆した「父のことなど」という文章(『図書』532号(1993-10),漱石特輯号)を見出したが、上記・和辻の印象に基づく記述を修正する必要は無さそうなので、このままとしておく。
終
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