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(書名の下に「乾」とあるのは、この「皇朝篇」の
 別名(乾篇)で、これに続く「漢土篇」を(坤篇)
 として 対置させている。)           

目 次



五言絶句      18首
  「遣興吟」    伊達 正宗

七言絶句      212首
  「冬夜讀書」   菅 晉帥
  「萬里藤房」   阪谷 素
  「西伯利車中作」 重野 安繹
  「謝細川十洲被惠梅花」岡松 辰
  「金州城下作」  乃木 希典
  「庚午元旦書感」 渋沢 栄一
  「中秋」     若槻禮次郎

五言律詩       7首

五言排律       1首

七言律       14首

五言古詩       6首

七言古詩      47首
  「泊天草洋」   頼 㐮
  「諾曼頓歌」   中村 正直

      (総計 305首)

作者索引

鹽谷 温 「興国詩選・皇朝篇」


 昭和6(1931)年 9月 、弘道館
 縦:190 mm、横:110 mm、背皮クロス装、本文 555頁。
 (かなり豪華な装丁なので、函が付属していたと思われる。)

 鹽谷 温(しおのや・おん、明治11(1878)~昭和37(1962)、号:節山)は、漢学者。 幕末三大家の一人(他の二人は安井息軒と芳野金陵)とされる鹽谷宕陰(1809~1867、名は 世弘)の縁故の人である。 すなわち、宕陰の弟・簀山 → その子・青山 と続いて、青山の子が この節山( 温) である。 … 「儒胤成業の人」という語がふさわしいが、この語は必ずしも 褒め言葉ではない。

 本書は我が国における古今の名詩を集め、詩体別に配列したもので、右の目次に見られるように 総計305首に及んでいる。
 この 305首中に、自身を含む上記鹽谷一族の詩を、23首も掲載していて、唖然とさせられる。 本書が 我が国の漢詩の選集として言及されることがないのは、このためであろう。 やはり「儒胤成業」たる所以か。

 俗臭を伴う書ではあるが、収録詩数が多く、意外な作者・作品との出会いも ありそうなので、取り上げてみた。
 例えば、中村正直「諾曼頓歌」(七言古詩)は、今や ほとんど忘却された国恥の史実について、当時の国民の義憤を伝える貴重な証言である。

 古今の名詩は、詩体別に配列され、同一詩体の作品は時代順に配列されている。
以下には、それらの中から10首ほど取り上げて、原文と読み下し文を対比して掲げ、これに 鹽谷が付した「通釈」(または「叙説」や「参考」の一部)を加えて 示すこととする。



一部紹介





   遣興吟  (遣興ノ吟)    伊達 正宗 (1567(永禄10)~1636(寛永13)、 武将)

  馬上靑年過   馬上 靑年 過ぐ
  時平白髪多    時 平らかにして 白髪多し
  殘軀天所許   殘軀(残年) 天の許す所
  不樂復如何   楽しまずんば 復 如何また いかん

《通釈》 青年時代は 馬にまたがって、千軍万馬の間を往来した我が身も、今や太平の世となって、我が頭上に白髪が沢山 見えることになった。 百戦 場裡じょうり、九死に一生を得て、なお 生き長らえて居るのは、けだし天から許された運命に相違ないから、此の好機を いつせず、我が余生を楽しみ暮らさないで どうしようぞ。


   冬夜讀書        菅 晉帥 (1748~1827、漢詩人、号:茶山)

  雪擁山堂樹影深   雪は 山堂を擁して 樹影 深し
  檐鈴不動夜沈沈    檐鈴 動かず 夜沈沈
  閑収亂帙思疑義   カンに乱帙を収めて 疑義を思う
  一穗靑燈萬古心   一穂の青燈 万古の心

《通釈》 樹影深い雪は山中の我が家を閉じこめて、樹木 遮いかぶさり、檐先のきさきつるした鈴も微動だにしないので、四辺あたりはしんしんとして 夜が更けてゆくばかりである。 心閑こころしずかに 取り乱した書物を整理かたづけて、平生の疑義ふしんを考えて居ると、ほのかに照らす灯の青い光が 古人の心を照らし、古人の心と自分の心とが ぴたりと合って よくその意味が解せられる。


   訣別       梅田 定明 (1816~1859、京都の儒者、号:雲浜)

  妻臥病床児泣飢   妻は病床に臥し 児は飢に泣く
  挺身直欲當戎夷   身を挺して直に戎夷に当らんと欲す
  今朝死別興生別   今朝 死別与(と)生別と
  唯有皇天后土知   唯だ 皇天后土の知る有り。

《通釈》 今 我れ 住み慣れた此の家を出ることになつたが、折柄おりから 妻は病に臥し、児は飢に泣き叫んでゐる。 自分は これより一身を投げ捨てゝ戎夷えびすはらはうと思つてゐる。 思へば 今 妻子に別れると、死別になるか生別になるか、それは唯 天地神明が知るのみ、一身の生死など問題でない。


   萬里藤房 万里小路藤房までのこうじ・ふじふさ    阪谷 素 (1822~1881、漢学者、号:朗盧)

  誰使中興爲亂麻   誰か中興をして 乱麻とらしむ
  雲林豈肯忘天家    雲林 あに あえて天家を忘れんや
  君王若問臣踪跡   君王 し臣の踪跡を問はば
  為奏松蔭泣露華   為に もうせよ 松蔭 露華に泣く と。

《通釈》 折角 出来上った建武中興の業が、再び乱れて 新田足利の争覇となり、世は乱麻の如くに乱るゝことになったのは、そも誰がしたのであらうか。 身は雲林に逃れ 遊行の僧となったが、心は朝廷を忘れる様なことは致さない。 君王きみわたくしの踪迹をお尋ねになったならば、不相変あいかわらず 松の蔭で 露に濡れて泣いて居りますと もうしあげてもらいたい。


   西伯利 車中作 西伯利シベリヤ 車中ノ作)      重野 安繹 (1827~1910、漢学者、号:成斎)

  無邊豐草飽羊牛  無辺の豊草 羊牛を飽かしむ。
  日没平原餘景脩  日は平原に没して 余景 なが
  說是蘇卿牧羝處  う 是れ蘇卿牧羝の処と
  雁聲獨帶漢時秋  雁声 ひとり 帯ぶ 漢時の秋

《通釈》 車窓より見渡す限り 西伯利の野原は茫々として はてしなく、牧草が豊かに生い繁って、放たれた羊や牛が腹一杯に草を食べて居る。 落日を遮る山もないから、平原の上に日が没して 夕景が容易に暮れない。 この辺は その昔(前漢・武帝の時) 匈奴の北境で 蘓武がひつじって居たところであるというが、今は尋ぬる処もなく、唯 鳴き渡る雁の声のみが 何となく漢代の声色を帯びて聞こえる。


   謝 細川十洲被惠梅花 (細川十洲の梅花を恵せらるを謝す)   岡松 辰 (1820~1895、漢学者・漢詩人、号:甕谷)

  詩朋贈我一瓶春  詩朋(詩友) 我に贈る 一瓶の春
  數朶瓊英映壁新  数朶の瓊英(玉のように美しいもの) 壁に映じてあらたなり
  自咲衰殘瀕死日  みずかわらう 衰殘 瀕死の日
  得爲溪上看梅人  溪上 看梅の人とるを得たるを

《通釈》 詩文のまじわり深き君が、病床見舞にと一枝の梅を贈つて 春の訪れを知らして下された。 早速に瓶中にせば、玉をあざむく真白な梅花五六輪、壁に照りえて、室内に新たなるおもむきを添えた。 老衰して余命 幾許いくばくも無い今日、御蔭で溪上看梅の風流人になり得たのは、まことに望外のさいわいぞと思うにつけ、一入ひとしお 君が厚情の程を喜ばしく感ずる次第である。


   金州城下作 (金州城下ノ作)        乃木 希典 (1849~1912、軍人(陸軍大将))

  山川草木轉荒涼   山川草木 うたた 荒涼
  十里風腥新戰場   十里 風 なまぐさし 新戦場
  征馬不前人不語   征馬 すすまず 人 語らず
  金州城外立斜陽   金州城外 斜陽に立つ

《叙説》 大将の次子・保典やすすけ大尉は 金州で戦死した。(下略)
《通釈》 金州城外の山川草木は 忽ちの間に砲煙弾雨に打ち砕かれて 凄まじき景色と変じて、砲声止んだばかりの此の新戦場十里一帯に吹く風も 猶 血の香をただよわして なまぐさい。 此の惨状に打たれてか 我が馬も足掻あがきを止め 馬上の我も亦 黙々として之を促す元気もなく、金州城外、夕陽斜なる処 駒をとどめて 茫然たるのみである。



   庚午元旦書感 (庚午元旦 感を書す)        澁澤 榮一 (1840~1931、実業家、号:靑淵)

  瓦全徒擬古精忠   瓦全ガゼン(なすことなく生きながらえて)いたずらに擬す 古精忠(古来の忠臣)
  自愧經綸未奏功   みずかず 経綸 未だ功を奏せざるを
  山海殊恩何日報   山海の殊恩 いずれの 日にか報いん
  空迎九十一春風   むなしく迎う 九十一春風

《通釈》 生き甲斐もなき瓦全の身で、心ばかりは徒らに 古来の忠臣を真似ようとして居るが、自分ながら 一向政治経済上に何の役にも立ち得ないことを愧ずるのみである。 君恩は 山よりも高く海よりも深く、殊に旧臘 御陪食を仰せ付けられた御恩は 何日になつたら報い奉ることが出来ようか。 空しく九十一歳の春を迎えて 嬉しくも又 愧ずかしくもある。


   中 秋        若槻 禮次郎 (1866~1949、明治から昭和にかけての官僚・政治家で、総理大臣に至る。 号:克堂)

  只合涓埃答聖明   只 合ただ まさに 涓埃(微小なつまらぬもの。自らをいう) 聖明に答ふべし
  敢求竹帛記功名   敢て竹帛に 功名を記すを求めんや
  中秋偶見故郷月   中秋 たまたま見る故郷の月
  卌載曾無今夜情   卌載しじゅうさい かつて 今夜の情 無し

《叙説》 昭和五年四月、倫敦ロンドンで開かれた海軍軍縮小会議に 首席全権として 樽俎折衝の大任に当つた。(下略)
《通釈》 忠良なる臣子として 微力を尽して 陛下の御恩に報い奉らんと欲するのであつて、功名を歴史に残そうなどとは思わない。 平生 唯々報国の赤心あるのみで、売名的野心は少しもない。 久振りで故郷に帰り、偶々たまたま 中秋に逢い、故人(知己・友人)と相会して月見の宴を催したが、四十年来、今夜のように懐かしく清いことはない。



   泊 天草洋 天草洋あまくさなだ に泊す)      頼 襄 (1780~1832、歴史家・漢学舎・漢詩人、号:山陽) 

  雲耶山耶呉耶越   雲か 山か 呉か 越か
  水天髣髴靑一髪   水天 髣髴ホウフツ 青一髪
  萬里泊舟天草洋   万里 舟を泊す 天草のなだ
  煙横蓬窗日漸沒   けむり蓬窗ホウソウに横たわりて 日 漸く没す
  瞥見大魚波間跳   瞥見す 大魚の波間におどるを
  太白當舟明似月   太白(金星)舟に当りて 月りも明らかなり

《通釈》 れは 雲か山か、はては 支那大陸の呉か越か。 空や水とも分かぬ彼方は、只 一筋 黒髪のやうに見えるだけである。 思へば 我も亦 遠く来つる者かな。 今宵 船のもやいするは 天草洋あまくさなだで、長き旅寝の今日も暮れるか、夕靄は船窓を掠めて棚引き、日は次第に沈んでゆく。 ふと見れば ちらりと大きな魚が跳つて 姿を波間に隠して、後には 我が船の真向うに 太白星が月よりも明るく輝き、金波が遠く流れて、実に壮絶奇絶の景である。
《余論》 余も曾て島原より汽船に乗つて三角港に渡り、所謂いわゆる 天草洋を横断したのであるが、実際は 天草の島々が点在し、雲仙岳高く聳え 阿蘇山も望むべく、決して「雲耶山耶呉耶越」と疑う余地はない。 しかも 萬里泊舟といつても 大洋中に夜泊も出来ない。 そこで この篇につきても兎角の論がある。 (中略) しかし 詩は常識を以て論ずべきではない。一読壮快雄大の気が胸に満ちて、如何にも茫茫たる大海に舟をうかべた気分になるのが 本詩の妙味であり、この人を圧する意気が 山陽の 独壇場どくだんじょう * である。(下略)
* ふつう この語は「独擅場(どくせんじょう)」の誤りとされているが、著者は意識的に使用しているようである。別著の漢和辞書『新字鑑』においては、見出し語「独擅場」に対して「ひとりぶたい。俗に独壇場(ドクダンジョウ)ともいふ」との説明を与えている。



   諾曼頓歌 諾曼頓ノルマントン の歌)      中村 正直 (1740~1831、思想家・漢学者、 号:敬宇) 

  南紀之山汝應紀   南紀の山 汝 応なんじ まさ(記)すべし
  節惟霜降日丁巳   節はれ霜降 日は丁巳
  咄咄怪事諾曼頓   咄咄怪事 諾曼頓ノルマントン  《参考》「咄咄」は 驚き怪しむ声、「チェ」といふ如し。「咄咄怪事」とは 怪しからんことをいふ。
  死者惟日本人耳   死者は ただ 日本人のみ
  人心或可有氷炭   人心 あるいは 氷炭(愛憎)有るべきも
  風伯豈有所偏庇   風伯(風の神) 偏庇へんぴ(不公平)する所 有らんや
  若使一船之人同遭難  し一船の人をして ともに難にわしめば
  吾儕遺恨猶可已   吾儕(われわれ)の遺恨 猶 已なお やむべし
  南紀之海汝應知   南紀の海 汝 応なんじ まさに知るべし
  惡風濁浪英國旗   悪風濁浪英国旗
  咄咄怪事諾曼頓   咄咄怪事諾曼頓
  日本人無一脱災   日本人はひとりも災を脱する無し
  人心或可有氷炭   人心 或は氷炭有るべきも
  天公豈可有偏私   天公 豈に偏私(不公平)有るべけんや
  若使篙工柁師同遭難  若し篙工柁師(船頭・かじとり)をして ともに難に遭わしめなば
  吾儕有所殺悲哀   吾儕 悲哀をぐ所有り
  南紀之島汝應哭   南紀の島 汝 応に哭すべし
  二十五人葬魚腹   二十五人 魚腹に葬らるるを
  咄咄怪事諾曼頓   咄咄怪事諾曼頓
  白人相賀再生福   白人 相賀す 再生の福
  人心或可有氷炭   人心 或は氷炭有るべきも
  天心豈有所厚薄   天心 豈に厚薄する所 有らんや
  一船之中異命運   一船のうち 命運を異にす
  吾儕是以恨無極   吾儕 是を以て うらみ 極まり無し

《叙説》 明治十九年(1886年) 英国商船ノルマントン号が 紀州 熊野灘くまのなだで沈没し、同乗の日本船客二十五人 尽く魚腹に葬られたのに、船長を始め白人船客は 一人も遭難したものはなかつた。 咄咄怪事、天道 果して是か非か。 さすが温厚なる先生(中村正直)も こゝに義憤を発し、この歌を作つて 二十五人の亡霊を弔つたのである。






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