らんだむ書籍館 |
![]() |
表 紙 |
目 次
(巻頭言) 議会主義の再吟味 民主主義過程としての総選挙 蝋山 政道 絶対主義の史的展開 朊部 之総 アメリカ政局の動き H.ディーン 使徒パウロ 矢内原忠雄 メモラピリア(ハルマヘラより帰りて) 福田 定良 哀傷と孤独の文学 宇野 浩二 狩野亨吉(人と思想) 久野 収 労農派理論を批判す 石渡 貞雄 (随筆) 砂糖 内田 誠 春秋左氏伝の称の非 幸田 露伴 (小説) 二つの庭 (第三回) 宮本百合子 |
一部紹介 |
哀傷と孤独の文学 織田作之助の作品
宇野 浩二
こんど、織田作之助の作品と評論とを八分ぐらい読みかえしてみて、おもいのほか、いたく感じたのは、織田の文学が、ひと口にいうと、哀傷と孤独の文学である、ということであった。――
織田の第一創作集である『夫婦善哉』のなかには、『雨』、『俗臭』、『放浪』、『夫婦善哉』、『探し人』の五篇がおさめられている。 この五篇の小説は、『雨』が 昭和十三年の十一月の作であり 、『俗臭』が同十四年の六月の作であり、あとの三篇は、みな、同十五年の作で、『放浪』が三月の作であり、『夫婦善哉』が四月の作であり、『探し人』が五月の作であるから、年でいうと、織田が、二十六歳、二十七歳、二十八歳、の年( の作である。 それで、二十八歳の年) ( が、もっともアブラがのっていたわけである。)
ところが、いっぱんに、たいていの人が、それは、「文芸」の推薦になったからでもあろうが、『夫婦善哉』が、織田の初期の代表作のようにおもわれ、殊にすぐれた小説のように見なされているけれど、そうはいいきれない。 たとえば、『雨』は、織田の処女作であるけれど、織田その人が、昭和十六年の六月に、「年代記小説ともいうべきジャンルの作品が いま流行しているが、『雨』は、昭和十三年に書いたものであるから、私は別に流行を追うたわけではない」と、いくらか、自負して、述べているように、(それは本当であろう)いわゆる年代記小説としては、もっとも初めのものであろう。 それから、また、織田は、この小説について、「私の物語( 形式への試みがはじめて成されたのは この作品である」と述べているが、これは注目すべき言葉である。 なぜなら、織田の小説の大部分が、『物語形式』であり、それが、織田のほとんど全作品の、独特の、特徴であるから。)
それから、これは、話がそれるが、織田は、永眠するまえに、「ぼくの小説は、エロスではない、ロマンである」といったそうであるが、この言葉は、織田の弁解ではなく、正当である。
さて、『雨』は、いわゆる年代記小説としてすぐれているばかりでなく、この作品に、すでに、織田の言葉をかりると、「人間に対する たぶん消極的な不信」も、「叫ぶことに何か照れざるを得ない厄介な精神」も、「現代の諸風景への情けない継子の反逆」も、実に、よく、出ている。 こういう小説を、二十六歳の青年が、書いた、とおもうと、私は、つまり、この作者が、二十代のころから、すでに、すくわれようのない、哀傷の気もち、孤独なたましいのようなもの、『流転』や『放浪』のこころ、『継子の反逆』などを、胸に、心の奥底に、いだいていたことを、回想して、『わたくし』の感情もあるけれど、感慨にたえないのである。 しかし、この私の感慨は、また、『わたくし』の感情ではない。 読者よ、織田のいくつかの作品をよくよめば、それらの作品のうらに、織田の、孤独な、やるせない、反逆しながらに 心のなかに涙をながしている、切なる哀傷が、『サワリ』のごとく、『唄』のように、にじむように、かたられ、述べられていることが、わかるはずである。
『夫婦善哉』の結末は、さまざまの、いろいろな、俗な言葉をつかうと、「大阪」人らしい、 欲( と愛の苦労をしつくした末に、「蝶子と柳吉は やがて浄瑠璃に凝り出した。二ツ井戸天牛書店の二階広間で開かれた素義大会で、柳吉は蝶子の三味線で『太十) ( 』を語り、二等賞を貰った。景品の大きな座布団は 蝶子が毎日つかった。」とあるように、いわゆる「めでたしめでたし」でおわっているように、ちょっとは、見えるけれど、「めっきり肥えて、そこの座布団(註 ―『夫婦善哉』屋の小さな座布団)が尻にかくれるくらゐ」になった蝶子が、「景品の大きな座布団を毎日つかった」と書いた作者の心 ―― それから、蝶子の気もち ―― は、「めでたし めでたし」どころか、やはり、孤独であり、切なきものであり、哀愁きわまいなきものである。 こころある読者ならば、この小説のおわりにいたって、ふかい ため息をつくであろう。)
『表彰』(昭和二十年六月、「空襲がもっとも激しかつた頃の」作品)も、その書き出しに、「夫の伊三郎がもう七年も前から鳥取に妾をかこつてゐて、二人の子供さへ出来てゐる由、筋むかひの古着屋の御寮( ンさんから聞かされた時、お島は顔色をかへて驚いた。」とあるが、これも、お島は、耳の遠い、放蕩者の、夫のために、さまざまの、ならぬ堪忍をし、できない辛抱をしたが、最後に、空襲のために焼け出された二人が、「伊三郎が言ひだし」て、妾の家にたよるために、鳥取ゆきの汽車に乗る、そうして、この小説の終りのほうの、「お島は、東條が阿呆) ( な戦争したばつかしに、わては妾の厄介にならんならん、と口走つてゐたが、やがて疲れきつて、コクリコクリ居眠) ( つてしまつた お島のやつれはてた顔を見ると、伊三郎は 松太郎(註― お島が夫をおちつかせるためにもらつた子)の生みの母親の兄が石川県で百姓をしてゐることを思ひ出し、どこの駅で乗りかへれば石川県へ行けるのか、と隣りの座席の人をつかまへて、くどくどと遠い耳をかたむけた。 お島は、よだれを流して、かすかな鼾を立ててゐた。」というところにいたれば、啓蒙的なことをいうようであるが、お島は、長いあいだの念願が、夫の伊三郎が、「鳥取まで行く気が変つてしまつた」ので、「コクリコクリ居眠つて」しまつたのではなく、「疲れきつて」眠つてしまつたのであるから、伊三郎が鳥取ゆきをやめる気になつたのは 知らない。 それを、伊三郎は、伊三郎で、ただ、「お島のやつれはてた顔」をながめて、「鳥取まで行く気」が変るところ、その他、小説としては、あまりツジツマがあいすぎ、作者の、いわゆる『嘘』の、小説作法がわかりすぎるところはあるけれど、(これは、織田のほとんど全作品に通じる、長所であるとともに、短所ではあるけれど、こういうことは、専門の、批評家などが、考えることであるが) 結局、この作品も、大げさにいうと、人の世の、愛欲のいきさつや もつれなどを書いているように見えるけれど、やはり、人それぞれの、孤独を、流転のありさまを、物語つている。 これは、「空襲がもっとも激しかつた頃」でも、織田は「大阪(焼けた大阪)をなつかしむ意味で」書いた、とは述べているが、やはり、作者が『宿命的』とさえおもわれるほど、根ぶかく、持つていた、せおわされていた、寂漠、孤独、哀傷、哀愁の心(気もち)が、全篇のいたるところに、にじこみ、ゆきわたつている。)
この「空襲がもっとも激しかつた頃」に、書いた、二つの小説のなかで、『表彰』は短篇であるけれど、『アド・バルウン』は、かなり長いもので、昭和二十年三月、「大阪が焼けた直後、大阪惜愛の意味で、空襲警報下に、こつこつと書いた」と 織田は述べているが、それにもかかわらず、この小説は、(これも、作者が、はじめから、『アド・バルウン』というものを、あたまにおいて、作つたらしいことが、よくわかり、いかにも、おもしろい、小説らしい、小説であり、物語であるけれど) ひとりの、どこに行つても、いかなる人にあつても、むかえられない、やはり、孤独な、人間の半生の物語であるが、そうして、やはり、織田の小説に共通する、『めでたし めでたし』で おわつてはいるけれど、最後の、主人公の、縁のうすかつたような 濃かつたような、父の遺骨をもつて、それを紊めるために、高野山に行つて、「茶店を出ると、蝉の声を聞きながら、私はケエブル乗場へ歩いてから、ちよこちよことついて来る父の老妻の皺くちやの顔を見ながら、ふと この婆さんに孝行してやらうと思つた。 そして、気がつくと、私は『今日( も空には 軽気球) ( ……』と ぼそぼそと口ずさんでゐました。」というところなども、主人公も、作者も、いかにものんきらしくは見えるけれど、やはり、流転の波に、たえず、しじゆう、ただよい、ながされている、ながされていた、ようにおもわれる、織田の、物事を逆にいわねばならない、やるせない、孤独な、たましいが、この軽薄にさえも見える、物語のいたるところに、ただよい ながれている。)
私は、去年(昭和二十年)の秋ごろであつたか、織田に出した手紙のなかに 「あなたの小説は、すらすらと、読め、よみながら、せかせかと追いたてられるような気のするところは あるけれど、読みだしたら、むちゆうで、しまいまで、読みとおしてしまう、が、読んでしまつてから、いつも、たいてい、巧みな嘘をつかれた、というような気がする、小説に、いわゆる 実際世界にない『嘘』を書くのは、私も、さんせいであり、私も、たいてい、そのとおりであるけれど、読んでしまつてから『嘘』とおもわれるような作品には、私は絶対に、さんせいできない、どうぞ、これから、読んでしまつてから、『真実』とおもわれるような作品を、書いてほしい、そういう小説ができたら、私は、あたまをさげる」 という意味のことを、書いたことがある。
私は、織田には、二度しか、逢うつたことがない。 しかし、二度とも、織田に逢つて、私がうけた印象は、逢うと、すぐ、顔じゆうが笑い顔になるような 笑い方( をするけれど、その笑い顔のなかにも、なにか、『寂しい』ところがあり、ぜんたいに、作品のうわべに見えるような、『かるい』ところも、ときとしては、『人もなげに見えるような』ところも、『しやれのめすように』おもわれるところも、そういうところは、ほとんど、なかつた。 それどころか、誇張していうと、世に、たよりない、たよりてのない、『孤児』のような感じさえ、あることがあつた。 そうして、その『孤児』のような感じのなかに、なんともいえぬ、人なつかしく見えて、いじらしく思われ、したしみが感じられるところと、じぶんは、ひとりだ、だれにもかまつてもらいたくない、とおもわれるような、はたから、手のつけようのない人のように 感じられるところがあつた。)
織田の、みじかい一生のうちの、晩年の、すぐれた作品の一つである、『世相』のなかに、こういうところがある。
… 自身放蕩的な境遇に育つてきた私は、処女作の昔より、放浪のただ一色で あらゆる作品をぬりつぶして来たが、おもへば 私にとつては 人生とは流転であり、淀の水車のくりかえす如く くり返される哀この一篇は、織田が三十四歳の年の、述懐( しさを人間の相) ( と見て、その相) ( を くりかへしくりかへし書きつづけて来た私もまた 淀の車の哀しさだつた。 ながれながれて 仮寝) ( の宿にころがる姿を書くときだけが、私の文章の生き生きする瞬間であり、体系や思想をもたぬ自分の感受性を、ただ一と所に沈潜することによつて 傷) ( つくことから守らうとする 走馬灯のやうな時の場所のめまぐるしい変化だけが、阿呆) ( の一つ覚えのねらひであつた。 …)
( と見てよい。 三十四歳のわかさで、「人生とは流転であり、淀の水車のくりかえす如く くり返される哀) ( しさを人間の相) ( 」 と見た織田は、その翌年(昭和二十二年)の一月十日に、この世を去つたのであつた。)
織田は、じぶんの、ほとんど、全作品のなかで、『流転』(あるいは『放浪』)する人間を書いているけれど、織田じしんは、実際は、『流転』どころか、『放浪』どころか、その生涯を、大阪と、京都と、そのちかくで、ほとんど、そのへんを、はなれたことがなく、住みついていた。 しかし、『流転』あるいは『放浪』のせつない思いは、ふだんに、織田の心のなかに、あつた。 そのことを、織田は、「執拗なまでに流転の生涯を書いたのは、私の童話への憧れであり、人間への愛情の反芻作用であつた。」と述べている。
織田は、それが絶筆になつたという『可能性の文学』という評論のなかで、「嘘は小説の本能なのだ、人間には性慾貪慾その他の本能があるが、小説自体にもし本能があるとすれば、それは『嘘の可能性』といふ本能だ、」と述べている。 しかし、織田のすぐれた作品の一つである、『アド・バルウン』のなかに出てくる、その小説の主要な人物の一人である、「振り向くと、バタ屋――つまり、大阪でいう拾ひ屋らしい男でした。何をしてゐるのだと聞いたその声はふけてゐましたが、年は私と同じ二十七八でせうか、痩せて ひよろひよろと背が高く、鼻の横には大きなホクロ。そのホクロを見ながら、私は泊( まるところがないから、かうしてゐるのだと答へました。男はじつと私の顔を見てゐましたが、やがて、ついて来いと云つて歩きだしました。」とある、その秋山という男も 「十銭白銅六つ一銭銅貨三つ」をにぎつて、大阪から東京まで線路づたいに歩いて行こう、とおもいたつた、「やはりテクテクと歩いて行つたのは、金の工面) ( 」に日の暮れるその足で、少しでも文子のゐる東京へ近づきたいといふ気持にせき立てられたのと、一つには放浪への郷愁でした」という主人公も、もとより 織田のいう、『嘘』の人間であろうが、ともに、心を持つ人間であり、『郷愁』の人間である。)
そうして、さきに引いた『世相』のなかの一節でも、この『アド・バルウン』のうちの一節でも、その文章のなかに、哀傷の調子があり、述べる作者の、『流転』をあこがれる心と、『孤独』な たましいが、これだけでも、うかがえるではないか。
また、織田の佳作の一つである『六白金星』の主人公の、父親にきらわれ、しだいに ひがみ根性( の出る、妾の子の、楢雄が、この小説の最後のところで、はだのあわない、兄の修一から、電話で、『強情はやめて、女とわかれて、小宮町へ帰れ』といわれて、『無駄な電話をかけるな、あんたらしくもない』と返事をしながら、修一から、『ぢやあ、一度、将棋をやらう、おれは お前に二回貸しがあるぞ』 と、「ちくりと自尊心」を刺さされると、『将棋ならやらう、しかし、云つておくが 将棋以外のことは一と言) ( も口をきかんぞ、あんたも口をきくな、それを誓ふなら、やる』とこたえる、それから、最後のところの、)
約束の日、修一が 千日前の大阪劇場の前で待つてゐると、楢雄は、ぬれ雑巾とあるところなどを読めば、「この男にはもう何をいつても無駄だ」とあきらめる修一のかんがえなどは 読む人のあたまにそれほどこたえない、そのかわり、楢雄の、強情が、それ以上に、せつない孤独が、宿命的とさえおもわれる、反逆の心が、よく読む人の胸を、うつ。 これは、織田の心の一面であるからである。 そうして、さらに、「さァ、来い」と駒をならべはじめる修一も、また、やはり、織田の心の一面である。( のやうな うすぎたない浴衣) ( をきて、のそのそとやつて来た。 青黒くやつれた顔に髭がぼうぼうと生えてゐたが、しかし、眉毛は相変わらず うすかつた。 さすがに不便) ( になつて、飯でも食はうといふと、「将棋以外の口をきくな」と呶鳴るやうにいひ、さつさと大阪劇場の地下室の将棋倶楽部に はひつて行つた。)
そして、盤の前にすわると、楢雄は、
「おれは、電話がかかつてから、今日( まで、毎晩、寝ずに、定跡の研究をしてたんや、あんたとは、意気ごみが、ちがふんだ」と云ひ、そしていきなり、これを見てくれと、コンクリイトの上に下駄をぬいだ。 見れば、その下駄は 将棋の駒の形にけづつてあり、表には それぞれ『角』と『龍』の駒の字が 彫) ( りつけられてゐるのだつた。 修一は、あつと声をのんで、しばらく楢雄の顔を見つめてゐたが、やがて、この男にはもう何をいつても無駄だとあきらめながら、さァ来いと駒をならべはじめた。)
織田は、『郷愁』という小説のなかで、仕事をするために、無理やりに仕事をするために、自分で、何本かの注射を、「日によつては 二回も三回もうつ」と書いたあとに、あまり注射をするので、左の腕は、「皮下に注射液のかたい層が出来て」 針がとおらなくなり、しまいには、「針が折れさうに曲つてしまふ。 注射に痛めつけ来たその腕が、ふと不便( になるくらゐだつた。 新吉は、左の腕はあきらめて、右の腕をまくり上げた。 右の腕には 針の跡はほとんどなかつたが、そのかはり、使ひにくい左手を使はねばならない。 新吉は、ふと不安になつたが、針が折れれば 折れた時のことだと、不器用な手つきで針のさきをあてた。 そして、顔を真赤にして 唇をとがらせながら、ぐつと押しこんでゐると、何か悲しくなつた。 しかし、今は 仕事以外に何のたのしみがあらう。 戦争中 あれほど書きたかつた小説が、今は思ふ存分に書ける世の中になつたとおもへば、可哀) ( さうだといひながら、ほかの人より幸福かもしれない。」 と書いている。 そのように、織田は、空襲のはげしかつたときでさえ、『表彰』と『アド。バルウン』という、すぐれた作品を書いているくらいであるから、その翌年の昭和二十一年には、『髪』、『道なき道』、『訪問者』、『神経』、『六白金星』、『世相』、『競馬』、『郷愁』、『四月馬鹿』、その他を、やつぎばやに、書いた。 それは、かからずも、その翌年の、しかも、一月十日に永眠するまでに、と、あとになつて、思われるほどであつた。)
そうして、これらの小説のなかで、『六白金星』などとともに、よかれあしかれ、すぐれた作品である、『世相』は、なかに、男女の関係のことを、織田流に、簡単に、あつさりと、述べているところが、すこし多く、いくつか、あるので、好色(だけの)小説の見本のようにいわれて、一部の人たちに、けなされたけれど、あの小説のなかの、
… 十銭芸者 ―― 彼女は わづかに大阪の今宮の片隅にだけ その存在を知られた はかない流行はづれの職業婦人である。 今宮は、貧民窟の町であり、ルンペンの巣窟である。 彼女は それらのルンペン相手に稼ぐ けちくさい売笑婦にすぎない。 ルンペンにもまた それ相応の饗宴がある。 ガァド下のあき地に茣蓙などというところを読めば、『好色』などというものを はるかに通りすぎている。 この一節のなかには、織田の、むづかしい言葉をつかうと、庶民( をしき、ゴミ箱からあさつて来た残飯を肴に 泡盛や焼酎を飲んでさわぐのだが、たまたま ふところの景気の良い時には、彼等は二銭か三銭の はした金を出しあつて、十銭芸者をよぶのである。 彼女は ふだんは新世界や飛田) ( などの盛り場で 乞食三味線をひいてをり、いはば ルンペン同様の生活をしてゐるのだが、ルンペンから『お座敷』のかかつた時は さすがにバサバサの頭) ( を水でなでつけ、襟首を白くぬり、ボロ三味線の胴をふろしきでつつんで、雨の日などは ほとんど骨ばかしになつた蛇の目傘) ( を それでも恰好) ( だけは 小意気) ( にさし、高下駄をはいてくるだけの身だしなみをするといふ。 花代は 一時間十銭で、特別の祝儀を五銭か十銭はずむルンペンもあり、そんな時、彼女は その男を相手に 脛) ( もあらはに はつと固唾) ( をのむやうな嬌態) ( を見せるのだが、しかし肉は売らない。 最下等の芸者だが、最上等の芸者よりも清いのである。 もつとも、情夫は何人もゐる。 …)
語つてゐるマダムの顔は 白粉( がとけて、鼻の横に いやにあぶらが浮き、息は酒くさかつた。 ふつと顔をそむけた拍子) ( に、蛇の目傘) ( さした十銭芸者の うらぶれた裙さばきが 強いイメエジとなつて 頭) ( にうかんだ。 現実のマダムの乳房への好奇心は 途端に消えて、放蕩無頼の風俗作家のうらぶれた心に、降る いらだたしい雨を防いでくれるのは、もはや 想像の十銭芸者の破れた蛇の目傘であつた。 …)
( にそそぐ、せつなる愛と、ふかい うれいがあり、真に孤独な たましいが、この世にうらぶれた人たちによせる、(自分も 身につまされる)ふかい思いやりと、せつない涙と、共感がある。 ここに、織田の、人に知れない、涙があり、詩があり、慰めがある。 (下略))
終