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表紙
第一頁

目 次


  序   藤澤 恒(号・南岳)
      (尾池 鴎舟 書)
   

  本文 〔冒頭部分〕
         ・
     弘化四年(1847年)九月二十三日
         ↓
     慶応二年(1866年)十二月二十五日



赤松 渡 「先朝私記」

 明治 9 (1876) 年 11月、 愛媛県・奎章堂。
 木版印刷・線装、縦 18 cm、横 12 cm、本文 41葉。


 本書は、第121代・孝明天皇(天保2(1831)~慶応2(1866)、在位:弘化3(1846)~慶応2(1866))に関し、
(1)天皇本人の事蹟
(2)在位期間中に、幕府や朝廷により実施された施策や、生起した社会現象等
を、日録形式の漢文で 記したものである。
 ただし、日録の記事本文には 上記(1),(2)の区別は無く、単に 年月日順に掲載されている。

 著者の 赤松 渡(天保11(1840)~大正4(1915))は、もと高松藩の儒者で、明治維新後は教育に従事し、明治23年(1890年)には初代・高松市長となった人物である。
 地方の一学者でありながら、中央政界の動きなどをよく把握し、このような書にまとめあげたのは、注目すべきことである。

 「本文の一部紹介」 としては、(いろいろな意味で)注目すべき記事を 訓読により示し、必要な補足説明を 小文字で追記する。





本文の一部紹介




〔冒頭部分〕
 孝明天皇、いみな統仁おさひと、 仁孝天皇(第120代 天皇)の第四子なり。 嫡母(父・天皇の正妻)は、新朔平門院・藤原祺子やすこにして、関白・政通の女(むすめ)なり。 親母(生みの母親)は、新待賢門院・藤原雅子なおこにして、贈左大臣・実光の女(むすめ)なり。 天保二年(1831年)六月十四日 降誕して、熙宮ひろのみやと称し、十一年(1840年)三月十四日、立ちて皇太子とる。

〇 弘化四年(1847年)九月二十三日
 位にく。 時に、年 十六。 関白太政大臣・政通、左大臣・斎信、右大臣・尚忠、内大臣・忠煕 並びにもとの如し。
 名を挙げられた各大臣は、いずれも藤原氏で、「故の如し」とは、前代(仁孝天皇)から引続いての就任、の意。

〇 嘉永二年(1849年)三月十八日
 大将軍・家慶(12代将軍・徳川家慶)、下総の小金原(現在の千葉県松戸市)に 田猟(狩猟)す。 扈従 十四万余人。
 『新撰年表』中で述べたように、猟(田猟)は、武家社会の共同性維持のための重要な伝統行事であった。 徳川幕府(すなわち江戸時代)においては 4回実施され、この嘉永2年の実施が最後の猟であった。 鹿や猪など野生動物の減少から、成果は貧弱だったようである。 これは 事前に予測されていたようであるから、「扈従 十四万余人」は、誤伝か誇張であろう。

〇 嘉永四年(1851年)三月十五日
 勅して、故 民部卿兼造宮大夫・和気清麻呂(天平16(733)~延暦18(799))に、「護王大明神」を追諡し、神祇少副(官職名)の十部良祥(人名)を南都(奈良)つかわして 詔命を披読せしめ、位記を東大寺に蔵せしむ。 其の文にいわく、「正三位を贈られし民部卿・和気朝臣清麻呂、人とりて義烈、朝に仕つかえて忠誠なり。身を忘れて直言し、皇緒(「皇統」の意であろう)を全くせし功は 国史につまびらかなり。 其の旧勲を追思し、今 宜しく護王大明神を崇めて 正一位を授け、宣命・位記を作らめて、左中弁・藤原朝臣恭光に宣を伝え、権中納言・源朝臣建に通宣す」 と。
 叙位任官は、旧来の歴史記述の主要事項であり、人物評価の上にも大きな影響を有してきた。 そのため、過去に行なわれた叙位任官を後に修正実施することも、行なわれることがあった。 これは、そうした修正の例である。 千年以上前の人物に対して叙位任官の修正を行なうのは 異例中の異例であるが、尊皇の気運を高めるべく、敢て時機不相応の事を行なったのであろう。

〇 嘉永六年(1853年)六月三日
 亜墨利加合衆国 大統領・斐謨美辣達(ミラード・フィルモア、Millard Fillmore, 1800~1874、第13代大統領)、其の舶長・波理(ペリー、Matthew Calbaith Perry, 1794~1858、海軍の軍将)をして、大艦四隻、吏卒三百人をひきいて浦賀に入り、幕府に書を呈せしむ。 掃部頭・井伊直弼は 兵士千二百人をひきい、松平誠丸典則は 兵士七百人を卒いて、岸港をまもれり。 肥後守・松平容保は 軍艦百三十五隻、下総守・松平忠国は 軍艦七十五隻にて、また 海湾をまもれり。 既にして 使者(ペリー)は、槎咬𠺕吧(ジャガタラまたはバタヴィア、現在のジャカルタ)かえり、明年七月に来りて答書を得るとして、十二日に帆をげて去る。 此の時、府下は 汹汹キョウキョウ(騒ぎ乱れる さま)として、吏民の疑懼・騒擾 大いに甚だし。
 米国のペリーが浦賀に来航したときの、一連の動きである。

〇 嘉永六年(1853年)七月十九日
 鄂羅斯国主(ロシア皇帝。当時は、ニコライ1世)、其の重臣・子也利羅徳(Jefimy Vasil'jevich Putjatin、エフィム・プチャーチン、1803~1883、海軍軍人)をして 大艦四隻、卒(兵卒)六百五十人をひきいて 長崎港に入らしめ、幕府に書を呈して 貿易・互市(貿易に同じ。…同義反復。)ねがう。
 米国の動きに呼応するかのように、ロシアも 開国・貿易を求めてきたのである。

〇 安政元年(1854年。ただし、改元は十二月十四日正月十一日
 合衆国の使臣・波理、衛廉士(Townsend Harris、タウンゼント・ハリス、1804~1878、米国の外交官)、軍艦六隻をひきいて浦賀に入り、回答を請う。 伊沢美作守、井戸対馬守は、四鎮の諸将とともに 海湾を守備し、大学頭・林韑、民部少輔・鵜殿長鋭 等は、幕府の命をけて外使を接待せり。
〇 三月二十五日  林大学頭 等、横浜にてふたたび外使と会し、両国の和好を終約す。 明くる日 波理は、火輪車、浮浪艇、電理機、日影象、耕農具等の土物(みやげ)を献じ、 いくばくも無くして ふねを下田に帰したり。 幕府は、了仙寺を外使の館とし、くわえて 玉泉寺の傍ら(の地)に就て 外客の墳墓の地として与えることを命じたり。
 日米和親条約を締結したのである。

〇 安政元年(1854年)十一月五日
 南海(現在の山陽地方)の地、大いにふるい、旬日(十日間)止まず。 土州(土佐、現在の高知県) 特に甚だしく、地ちて 海と成る。
〇 十二月二日  夜、関東の地、大いに震い、江戸 大いに甚だし。 死者 十余万にして、毀傷者は 其の幾十万なるかつまびらかならず。 車毎に数人の骸屍を稇載して郊野にはこぶこと、晨夜(朝早くから夜おそくまで) まず、風物 蕭索(ものさびしい)として、殆ど清野の如し。
 いわゆる「安政の大地震」は、日時・場所を異にして群発したようである。

〇 万延元年(1860年)二月三日
 水戸家の人・高橋多一郎、関鉄之助等、七人、亡命して国を去る。 十八日に至りて、去る者 くびすを接し、監吏もとどむ能わず。
〇 三月三日
 大いにゆきふり、寒 甚し。 是より先、水戸士民 四十余人、ひそかに商賈に扮して江戸に入る。 其の徒の京師(京都)に赴きし者 八人、余は分けて二隊に分け、此の日の昧爽(夜明けがた) 愛宕山に会合す。 皆 野服□□(粗末な身なり)にて、郭内(江戸城の近辺)二所に埋伏せり。 辰牌(辰の刻頃、午前八時)、大老・井伊掃部頭は、まさに城中に赴かんとす。 其の 外桜田の松平大隅守の邸前をよぎるを会覘(見さだめる)や、銃を発し、さけびを為したり。 一群は十七人にして、大関和七郎、森五六郎、森山繁之助、黒沢忠三郎、杉山弥一郎、佐野竹之助、斎藤監物、広岡千代次郎、山口辰之助、蓮田市五郎、鯉淵要人、広木松之助、稲田金蔵、増子清三郎、関新蔵、海渡虎之助、岡部三十郎 なるが、薩摩家の人・有村次左衛門を併せて 十八人としたり。 突起(突撃)して刀を揮い、縦横に鏖戦(命がけで戦う)、数十人を殺傷し、ただち に其の肩輿(井伊掃部頭のかご)を狙撃せり。(中略) 此の日 井伊掃部頭、幕府に上言して「みちに賊匪の駕を犯すに遭い、衆を督して逐捕し一人を殺すも、余は悉く逃亡せり。臣も亦 きずを蒙り、邸に還りて保□(?)す」ともうす。
〇 晦日 (三月三十一日)
 大老 従四位上中将掃部頭・井伊直弼、卒(死去)す。
 万延元年二月三日から連続した これらの記事が、いわゆる「桜田門外の変」の経過である。

〇 文久二年(1862年)十一月
 親子ちかこ内親王、大将軍(14代将軍)・徳川家茂に降嫁す。
 親子内親王は、孝明天皇の異母妹で、「和宮かずのみや」の称号で知られる。 この降嫁が、いわゆる 公武合体 である。

〇 文久二年(1862年)十二月二十三日
 少将・肥後守 松平容保、守護職とりて京師(京都)に至る。
〇 文久三年(1863年)二月
 肥後守・松平容保、草莽の士を募りて、新徴組と号す。
 守護職の松平容保によって創設された新徴組は、やがて分裂し、その一部は江戸に拠点を移すが、京都に残って再結成されたのが「新撰組」(「新選組」とも表記される)である。

〇 慶応二年(1866年)八月二十日  大将軍(14代将軍) 従一位・徳川家茂 薨ず。 一橋中納言・徳川慶喜、之をぐ。
 この15代将軍・徳川慶喜は、翌慶応三年、二条城で諸藩に「大政奉還」を宣言した上で、朝廷にその上表を行ない、将軍を辞するのである。

〇 慶応二年(1866年)十二月二十五日
 天皇 崩ず。
 在位二十一年、改元は六たびにして、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応 なり。
 皇太子 立つ。 是れ、今上(明治)天皇 り。






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