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表紙 |
第一頁 |
目 次
序 藤澤 恒(号・南岳) (尾池 鴎舟 書) 本文 〔冒頭部分〕 ・ 弘化四年(1847年)九月二十三日 ↓ 慶応二年(1866年)十二月二十五日 |
本文の一部紹介 |
〔冒頭部分〕
孝明天皇、諱は 統仁( 、 仁孝天皇(第120代 天皇)の第四子なり。 嫡母(父・天皇の正妻)は、新朔平門院・藤原祺子) ( にして、関白・政通の女(むすめ)なり。 親母(生みの母親)は、新待賢門院・藤原雅子) ( にして、贈左大臣・実光の女(むすめ)なり。 天保二年(1831年)六月十四日 降誕して、熙宮) ( と称し、十一年(1840年)三月十四日、立ちて皇太子と為) ( る。)
〇 弘化四年(1847年)九月二十三日
位に即( く。 時に、年 十六。 関白太政大臣・政通、左大臣・斎信、右大臣・尚忠、内大臣・忠煕 並びに故) ( の如し。)
名を挙げられた各大臣は、いずれも藤原氏で、「故の如し」とは、前代(仁孝天皇)から引続いての就任、の意。
〇 嘉永二年(1849年)三月十八日
大将軍・家慶(12代将軍・徳川家慶)、下総の小金原(現在の千葉県松戸市)に 田猟(狩猟)す。 扈従 十四万余人。
『新撰年表』中で述べたように、猟(田猟)は、武家社会の共同性維持のための重要な伝統行事であった。 徳川幕府(すなわち江戸時代)においては 4回実施され、この嘉永2年の実施が最後の猟であった。 鹿や猪など野生動物の減少から、成果は貧弱だったようである。 これは 事前に予測されていたようであるから、「扈従 十四万余人」は、誤伝か誇張であろう。
〇 嘉永四年(1851年)三月十五日
勅して、故 民部卿兼造宮大夫・和気清麻呂(天平16(733)~延暦18(799))に、「護王大明神」を追諡し、神祇少副(官職名)の十部良祥(人名)を南都(奈良)に遣( わして 詔命を披読せしめ、位記を東大寺に蔵せしむ。 其の文に曰) ( く、「正三位を贈られし民部卿・和気朝臣清麻呂、人と為) ( りて義烈、朝に仕仕) ( えて忠誠なり。身を忘れて直言し、皇緒(「皇統」の意であろう)を全くせし功は 国史に詳) ( なり。 其の旧勲を追思し、今 宜しく護王大明神を崇めて 正一位を授け、宣命・位記を作ら令) ( めて、左中弁・藤原朝臣恭光に宣を伝え、権中納言・源朝臣建に通宣す」 と。)
叙位任官は、旧来の歴史記述の主要事項であり、人物評価の上にも大きな影響を有してきた。 そのため、過去に行なわれた叙位任官を後に修正実施することも、行なわれることがあった。 これは、そうした修正の例である。 千年以上前の人物に対して叙位任官の修正を行なうのは 異例中の異例であるが、尊皇の気運を高めるべく、敢て時機不相応の事を行なったのであろう。
〇 嘉永六年(1853年)六月三日
亜墨利加合衆国 大統領・斐謨美辣達(ミラード・フィルモア、Millard Fillmore, 1800~1874、第13代大統領)、其の舶長・波理(ペリー、Matthew Calbaith Perry, 1794~1858、海軍の軍将)をして、大艦四隻、吏卒三百人を領( いて浦賀に入り、幕府に書を呈せしむ。 掃部頭・井伊直弼は 兵士千二百人を卒) ( い、松平誠丸典則は 兵士七百人を卒いて、岸港を鎮) ( れり。 肥後守・松平容保は 軍艦百三十五隻、下総守・松平忠国は 軍艦七十五隻にて、亦) ( 海湾を衛) ( れり。 既にして 使者(ペリー)は、槎咬𠺕吧(ジャガタラまたはバタヴィア、現在のジャカルタ)に回) ( り、明年七月に来りて答書を得るとして、十二日に帆を飛) ( げて去る。 此の時、府下は 汹汹) ( (騒ぎ乱れる さま)として、吏民の疑懼・騒擾 大いに甚だし。)
米国のペリーが浦賀に来航したときの、一連の動きである。
〇 嘉永六年(1853年)七月十九日
鄂羅斯国主(ロシア皇帝。当時は、ニコライ1世)、其の重臣・子也利羅徳(Jefimy Vasil'jevich Putjatin、エフィム・プチャーチン、1803~1883、海軍軍人)をして 大艦四隻、卒(兵卒)六百五十人を領( いて 長崎港に入らしめ、幕府に書を呈して 貿易・互市(貿易に同じ。…同義反復。)を冀) ( う。)
米国の動きに呼応するかのように、ロシアも 開国・貿易を求めてきたのである。
〇 安政元年(1854年。ただし、改元は十二月十四日)正月十一日
合衆国の使臣・波理、衛廉士(Townsend Harris、タウンゼント・ハリス、1804~1878、米国の外交官)、軍艦六隻を領( いて浦賀に入り、回答を請う。 伊沢美作守、井戸対馬守は、四鎮の諸将と同) ( に 海湾を守備し、大学頭・林韑、民部少輔・鵜殿長鋭 等は、幕府の命を膺) ( けて外使を接待せり。)
〇 三月二十五日 林大学頭 等、横浜にて復( び外使と会し、両国の和好を終約す。 明くる日 波理は、火輪車、浮浪艇、電理機、日影象、耕農具等の土物(みやげ)を献じ、 幾) ( も無くして 棹) ( を下田に帰したり。 幕府は、了仙寺を外使の館とし、且) ( て 玉泉寺の傍ら(の地)に就て 外客の墳墓の地として与えることを命じたり。)
日米和親条約を締結したのである。
〇 安政元年(1854年)十一月五日
南海(現在の山陽地方)の地、大いに震( い、旬日(十日間)止まず。 土州(土佐、現在の高知県) 特に甚だしく、地陥) ( ちて 海と成る。)
〇 十二月二日 夜、関東の地、大いに震い、江戸 大いに甚だし。 死者 十余万にして、毀傷者は 其の幾十万なるか詳( ならず。 車毎に数人の骸屍を稇載して郊野に輸) ( ぶこと、晨夜(朝早くから夜おそくまで) 已) ( まず、風物 蕭索(ものさびしい)として、殆ど清野の如し。)
いわゆる「安政の大地震」は、日時・場所を異にして群発したようである。
〇 万延元年(1860年)二月三日
水戸家の人・高橋多一郎、関鉄之助等、七人、亡命して国を去る。 十八日に至りて、去る者 踵( を接し、監吏も遏) ( む能わず。)
〇 三月三日
大いに雪( り、寒 甚し。 是より先、水戸士民 四十余人、竊) ( に商賈に扮して江戸に入る。 其の徒の京師(京都)に赴きし者 八人、余は分けて二隊に分け、此の日の昧爽(夜明けがた) 愛宕山に会合す。 皆 野服□□(粗末な身なり)にて、郭内(江戸城の近辺)二所に埋伏せり。 辰牌(辰の刻頃、午前八時)、大老・井伊掃部頭は、将) ( に城中に赴かんとす。 其の 外桜田の松平大隅守の邸前を過) ( るを会覘(見さだめる)や、銃を発し、号) ( を為したり。 一群は十七人にして、大関和七郎、森五六郎、森山繁之助、黒沢忠三郎、杉山弥一郎、佐野竹之助、斎藤監物、広岡千代次郎、山口辰之助、蓮田市五郎、鯉淵要人、広木松之助、稲田金蔵、増子清三郎、関新蔵、海渡虎之助、岡部三十郎 なるが、薩摩家の人・有村次左衛門を併せて 十八人と為) ( したり。 突起(突撃)して刀を揮い、縦横に鏖戦(命がけで戦う)、数十人を殺傷し、径) ( に其の肩輿(井伊掃部頭のかご)を狙撃せり。(中略) 此の日 井伊掃部頭、幕府に上言して「途) ( に賊匪の駕を犯すに遭い、衆を督して逐捕し一人を殺すも、余は悉く逃亡せり。臣も亦 創) ( を蒙り、邸に還りて保□(?)す」と云) ( す。)
〇 晦日 (三月三十一日)
大老 従四位上中将掃部頭・井伊直弼、卒(死去)す。
万延元年二月三日から連続した これらの記事が、いわゆる「桜田門外の変」の経過である。
〇 文久二年(1862年)十一月
親子( 内親王、大将軍(14代将軍)・徳川家茂に降嫁す。)
親子内親王は、孝明天皇の異母妹で、「和宮( 」の称号で知られる。 この降嫁が、いわゆる 公武合体 である。)
〇 文久二年(1862年)十二月二十三日
少将・肥後守 松平容保、守護職と為( りて京師(京都)に至る。)
〇 文久三年(1863年)二月
肥後守・松平容保、草莽の士を募りて、新徴組と号す。
守護職の松平容保によって創設された新徴組は、やがて分裂し、その一部は江戸に拠点を移すが、京都に残って再結成されたのが「新撰組」(「新選組」とも表記される)である。
〇 慶応二年(1866年)八月二十日 大将軍(14代将軍) 従一位・徳川家茂 薨ず。 一橋中納言・徳川慶喜、之を嗣( ぐ。)
この15代将軍・徳川慶喜は、翌慶応三年、二条城で諸藩に「大政奉還」を宣言した上で、朝廷にその上表を行ない、将軍を辞するのである。
〇 慶応二年(1866年)十二月二十五日
天皇 崩ず。
在位二十一年、改元は六たびにして、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応 なり。
皇太子 立つ。 是れ、今上(明治)天皇 為( り。)
終