らんだむ書籍館


表紙

目 次


 刊行者のことば       (神吉 晴夫)
 はしがき          (末川  博)
 感想(旧版序文)      (渡邊 一夫)

 本 文
  上原 良司 石神 高明 吉村 友男
  大井 栄光 川島  正 目黒  晃
  竹村 孝一 浜田 忠秀 福島 武彦
  田辺 利宏 片井  澄 山岸 久雄
  篠崎 二郎 柳田 陽一 福中 五郎
  上村 元太 渡辺 辰夫 田坂徳太郎
  馬場 充貴(*) 真田 大法 浅見 有一
  筒井  厚 大島 欣二 三崎邦之助
  岡本  馨 平井 接三 市井 柔治
  武井  脩 板尾 興市 佐藤  孝
  加藤 晨一 山根  明 平井  聖
  菊山 裕生 佐々木八郎 松岡 欣平
  渡辺  崇 鈴木 保次 木村  節
  榊原 大三(**) 中尾 武徳 中村  勇
  西村 健二 中村 徳郎 宮崎 竜夫
  松本 光憲 竹田 喜義(***) 塚本 太郎
  生駒  隆 深沢 恒雄 岩谷 治禄
  山中 忠信 長谷川 信
  竹田 喜義(*** 重出なるも、異なる遺文。)
  永田 和生 宇田川 達
  榊原 大三(** 重出なるも、異なる遺文。)
  馬場 充貴(* 重出なるも、異なる遺文。)
  瀬田万之助 尾崎 良夫 松原 成信
  御厨 卓璽 林  市造 杉村  裕
  市島 保男 大塚 晟夫 上原 良司
  和田  稔 網干 陽平 林  憲正
  関口  清 蜂谷 博史 井上  長
  住吉胡之吉 鈴木 実 高木  孜
  稲垣 光夫 木村 久夫 海上 春雄

 注 (12項、安田 武・執筆。)
 この本の新しい読者のために (小田切秀雄)
 あとがき      (日本戦没学生記念会)
 年表
 略歴 (上記75名全員の略歴。)


(カッパ・ブックス)
日本戦没学生記念会・監修
新版 きけ わだつみのこえ ―日本戦没学生の手記―

 昭和35 (1960) 年 10月 9版、 光文社。
 カッパ・ブックスとしての初版は、昭和34(1959)年10月刊。
 新書版、265頁。



 本書は、太平洋戦争における戦没学生75名の 手記・遺稿を集めた書である。
 はじめ、昭和24年(1949年)10月、東京大学協同組合出版部の手で刊行された。
 このとき 題名が公募されたが、歌(短歌)の形での応募作(下記)が採られ、その結句中の語が題名に用いられた。

     なげけるか いかれるか
     はた もだせるか
     きけ はてしなき わだつみのこえ

 (この歌は、本書の中扉の裏面に表示されている。)
 この東京大学協同組合版は、ベストセラーとなって版を重ねたが、刊行10年を機に、構成の改良・注の充実等を加えた新版として 再登場したのが、このカッパ・ブックス版である。 ハンディな新書版として、普及したようである。
 「本文の一部紹介」 としては、京都大学の学生にして シンガポールで戦犯として刑死した、木村久夫の遺文を摘録する。 この木村の遺文は、所持していた愛読書(田辺元『哲学通論』)の余白に記されたものであるという。
 紹介する分量は、木村の文章全体の半分以下である。



本文の一部紹介





木村 久夫 (きむら ひさお)
京大経済学部学生。 昭和17年(1942年)10月入営。
21年(1947年)5月23日、シンガポール チヤンギー刑務所において、戦犯刑死。
陸軍上等兵。 二十八歳。


 ………

 私は死刑を宣告せられた。 誰がこれを予測したであろう。 年齢三十に至らず、かつ、学 半ばにして この世を去る運命を誰が予知し得たであろう。 波瀾のきわめて多かった私の一生は、またもや たぐいまれな一波乱の中に沈み消えていく。 われながら 一編の小説を見るような感がする。 しかし、これも運命の命ずるところと知った時、最後の諦観がいてきた。 大きな歴史の転換のもとには、私のようなかげの犠牲がいかに多くあったかを、過去の歴史に照らして知る時、まったく無意味のように見える私の死も、大きな世界歴史の命ずるところと感知するのである。

 ………

 我が国民は 今や大きな反省をなしつつあるだろうと思う。 その反省が、今の逆境が、将来の明かるい日本のために 大きな役割を果たすであろう。 それを観得ずして死ぬのは残念であるが いたしかたがない。 日本は あらゆる面において、社会的、歴史的、政治的、思想的、人道的の 試練と発達とが足らなかった。 万事にわれが他よりすぐれたりと考えさせた われわれの指導者、ただ それらの指導者の存在を許して来た日本国民の頭脳に 責任があった。

 ………

 われわれ罪人を看視しているのは、もと我が軍に俘虜ふりょたりし 「オランダ軍」の兵士である。 かつて日本軍兵士より大変なひどい目にわされたとかで、われわれに対するシッペイ返しは相当なものである。 なぐるなどは 最もやさしい部類である。 しかし われわれ日本人もこれ以上のことをやってきたのを思えば 文句は言えない。 ブツブツ文句を言っている者に陸軍の将校の多いのは、かつての自己の所業を棚に上げたもので、われわれ日本人さえ もっともだとは思われない。 一度も俘虜を扱ったことのない、また一度もそんな行為をしたことのない私が、かような所で一様に扱われるのは全く残念ではあるが、しかし向こうからすれば私も同じ日本人である。 区別してくれという方が無理かも知れない。 しかし天運なのは、私は一度も殴られたことも蹴られたこともない。 大変 皆から好かれている。 われわれの食事は、朝、米粉の糊と、夕方にかゆを食う 二食で、一日じゅう腹がペコペコで、ヤット歩けるぐらいの精力しかない。 しかし、私は大変好かれているのか、看視の兵隊がとても親切で、夜分 こっそりと「パン」「ビスケット」 煙草などを持ってきてくれ、昨夜などは「サイダー」を一本持ってきてくれた。 私は全く涙が出た。 その物に対してよりも、その親切にである。 その中の一人の兵士が あるいは進駐軍として日本へいくかも知れぬと言うので、今日 私は、私の手紙をそえて私の住所を知らせた。 この兵士らは 私のいわば無実の罪にひじょうに同情して 親切にしてくれるのである。 大局的にはきわめて反日的である彼らも、個々の人として接しているうちには、かように親切にしてくれる者も出てくるのである。 やはり人間同士だと思う。

 ………

 私は 生きるべく、私の身の潔白を証明すべく、あらゆる手段を尽くした。 私の上級者たる将校連より、法廷において真実の陳述をなすことを現金せられ、それがため、命令者たる上級将校が懲役、被命者たる私が死刑の判決を下された。 これはあきらかに不合理である。 私にとっては、私の生きることが、かかる将校連の生きることよりも日本にとっては数倊有益なることは明白と思われ、また事件そのものの実情としても、命令者なる将校連に責めがいくべきは当然であり、また彼らが自分自身でこれを知るがゆえに、私に事実の陳述を厳禁したのである。 ここで生きることは 私には当然の権利で、日本国家のためにもなさねばならぬことであり、かつ、最後の親孝行でもあると思って、判決のあった後ではあるが、私は英文の書面をもって事件の真相を暴露ばくろして訴えた。 判決後のことであり、また上告のない裁判であるから、私の真相暴露が果して取り上げられるか否かは知らないが、とにかく最後の努力は試みたのである。 初め 私の虚偽の陳述が、日本人全体のためになるならばやむなしとして 命令に従ったのであるが、結果は逆にわれわれ被命者らにあだとなったので真相を暴露した次第である。 もしそれが取り上げられたならば、数人の大佐、中佐、数人の尉官連が死刑を宣告されるかも知れないが、それが真実である以上は当然であり、また彼らの死によってこの私が救われるとするならば、国家的見地から見て 私の生きる方が数倍有益である事を確信したからである。 美辞麗句ばかりで内容のまったくない、彼らのいわゆる「精神的」なる言語をきながら、内実においては物欲、名誉欲、虚栄心以外の何ものでもなかった軍人達が、過去においてしてきたと同様の生活を将来において続けていくとしても、国家に有益なることは何らなし得ないのは明白なりと確信するのである。 日本の軍人中には偉い人もいたであろう。 しかし私の見た軍人中には 偉い人はあまりいなかった。 早い話が 高等学校(旧制)の教授ほどの人物すら 将軍と呼ばれる人びとの中にもいなかった。 監獄において 何々中将、何々大佐という人びとに幾人も会い、共に生活してきたが、軍服をいだ赤裸の彼らは、その言動において じつに見聞するに耐えないものであった。 この程度の将軍をいただいていたのでは、日本にいくら科学と物量があったとしても、戦勝はとうてい望み得ないものであったと思われるほどである。 ことに満州事変以来、さらに南方占領後の日本軍人は、毎日 利益を追うを仕事とする商人よりも、もっと下劣な根性になり下がっていたのである。 彼らが常々大言壮語して言った「忠義」「犠牲的精神」は どこへやったか。 終戦により外身をよそう着物を取り除かれた彼らの肌は、じつに見るに耐えないものだった。

 ………

 私が 戦も終わった今日に至って 絞首台の露と消えることを、私の父母は 私の不運として嘆くであろう。 父母が落胆のあまり途方に暮れられることなきかを 最も心配している。 しかし 思いめぐらせば、私はこれで ずいぶん武運が強かったのである。 印度洋の最前線、敵の反抗の最も強烈であった間、これが最期だとみずから断念したことが幾度もあった。 それでも私は かすり傷一つ負わずして 今日まで生き長らえ得たのである。 私としては、神がかくもよく私をここまで御加護してくださったことを 感謝しているのである。 私は 自分の不運を嘆くことよりも、過去における神の厚き御加護を感謝して死んでいきたいと考えている。 父母よ嘆くな、私が今日まで生き得たということが幸福だったと考えてください。 私も そう信じて死んでいきたい。

 ………

 いよいよ 私の刑が執行せられることになった。 戦争が終わり 戦火に死ななかった生命を、今 ここで失うことは惜しんでもあまりあるが、大きな世界歴史の転換のもと、国家のために死んでいくのである。 よろしく父母は、私が敵弾にあたって花々しく戦死を遂げたものと考えて、諦めてください。

 ………

 こうして 静かに死を待っていると、故郷の懐かしい景色が 次から次へ浮かんできます。 分家の桃畑から佐井寺さいでらの村を見おろした、あの幼な時代の景色は 今もありありと浮かんできます。 たにさんの小父さんが 下の池でよく魚を釣っていました。 ピチピチとふなが糸にかかって上がってきたのを、ありありと思い浮かべます。
 次に想い出すのは なんといっても高知こうちです。 私の境遇的に思想的に 最も波乱の多かった時代であったから、思い出も尽きないものがあります。 新屋敷しんやしきの家、かもの森、高等学校、さかい町、猪野々いのの、思い出は 走馬灯のごとく走り過ぎていきます。

 ………

 降伏後の日本は ずいぶんと変わったことだろう。 思想的にも 政治経済機構的にも、ずいぶんの試練と経験と変化とを受けるであろうが、そのいずれもが見ごたえのある一つ一つであるに相違ない。 その中に私の時間と場所が見いだされないのは まことに残念だ。 しかし 世界の歴史の動きは、もっともっと大きいのだ。 私ごとき者の存在に一瞥いちべつもくれない。 大山鳴動たいざんめいどうして踏み殺された一匹のありにしかすぎない。 私のごとき例は 幾多あるのである。 戦火に散っていった幾多の軍神もそれだ。 原子爆弾で消え去った人びともそれだ。 かくのごときを全世界にわたって考えるとき、おのずから私の死も うなずかれよう。 すでに死んでいった人びとのことを考えれば、今 生きたいなどと考えるのは、その人達に対してさえ すまないことだ。もし私が生きていれば、あるいは一人まえの者となって いくぶんかの仕事をするかも知れない。 しかしまた、ただのつまらぬ凡人として 一生を送るかも知れない。 まだ花弁も見せず、つぼみのままで死んでいくのも 一つのり方であったかも知れない。 今はただ、神の命ずるままに死んでいくよりほかにはないのである。






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