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目 次


 狩谷棭斎全集第三・解題

 轉注説大概 (与謝野 寛)

 狩谷棭斎全集第三
   轉注説
   轉注説附録 (澁江抽斎、岡本況斎)
   扶桑略記校譌
   毎條千金

日本古典全集
狩谷棭斎全集・第三 「轉注説、扶桑略記校譌、毎條千金」


 昭和3(1938)年1月、 日本古典全集刊行会。
 編纂者 正宗敦夫。
 縦 15.2 cm、横11.2cm、本文 214頁、紙装。


 「日本古典全集」 は、大正14(1925)年から昭和初期にかけて刊行された、かなり膨大な日本古典の集成である。 当初の編纂者は、与謝野寛、正宗敦夫、与謝野晶子の3名となっており、このことから与謝野夫妻が中心となって開始された事業のように思われる。 しかし、この昭和3年以降の刊行書では、編纂者としては 正宗のみが表示されているので(右の扉 参照)、与謝野夫妻はこの頃に 実質的に手を引いたようである。
 また、この昭和3年の時点では、本「日本古典全集」の中に、「狩谷棭斎全集」という個人の著作の集積を 収入・包含せしめるという、大胆な構想を実現させようとしている。
 狩谷棭斎(かりや・えきさい、安永4(1775)~天保6(1835))は、江戸時代後期の考証学者であるが、市井の学者として終始し、後進を裨益する多くの著述を残したが、刊行に至ったものは少ないようである。 こういう学者の業績を 少しでも多く後世に残そうとするのは、単独編纂者となった正宗の発想であろう。
 本書は、その「狩谷棭斎全集」の第三として、棭斎の著作である「轉注説」「扶桑略記校譌」「毎條千金」 の三篇を収録している。 それぞれの概略等については「解題」での紹介がなされているのであるが、「轉注説」 については特に「轉注説大概」 なる解説文が付属している。 その執筆者が与謝野寛であるのは、「轉注説」を「日本古典全集」に収録する話が 三者共同編集の時期から出ていて、与謝野寛がそれに興味を抱き、この「大概」なる文章の執筆を進めていたからであろう。

 「本文の一部紹介」 としては、与謝野寛 執筆の「轉注説大概」 の一部を掲げることとする。
 まず 狩谷棭斎の「轉注説」は、漢字の成立・分類に関して拠り所とされてきた 後漢・許慎(30~124)の「六書」に関する古来の疑義の解決を図ったものである。 「六書」は、許慎がその著書『説文解字』の序文に示した 漢字の構成(なりたち)・字義に関する法則で、象形・指事・形声・会意・転注・仮借の六項目から成る。 このうちの「転注」に関しては、許慎の説明が明解でないとして、異論が多かったのであるが、棭斎は 意外な推論で許慎の文をあるべき姿に復原することで、妥当な読解を得ている。
 与謝野寛の文は、その経緯や推論の過程を詳細に記していて、かなりの長文であるが、ここには要点部分(印の2か所)のみを抽出して示すこととする。 (全文 箇条書きの形で記されており、解説文としては不適切の観があるが、なるべく原文どおりに表示する。)


本文の一部紹介






轉注説大概


 説文学に於て 古来 支那の学者に最も異説多きは 六書中の「転注」に関する解釈である。 即ち許慎の「説文解字」の叙に
周禮に、八歳にして小学に入れば 保氏の国子に教ふるに先ず六書よりす。 一に曰く 指事。 指事とは るべく、察して見るの意にして、「上」「下」これなり。 二に曰く 象形。 象形とは 其の物を成すべく描き、體に随い詰詘せる(紊得させる)ものにして、「日」「月」これなり。 三に曰く 形声。 形声とは 事を以て名に取り、譬えに取りて、相い成るものにして、「江」「河」これなり。 四に曰く 会意。 会意とは 類をくらべてともを合し、目に指撝(さししめす)するものにして、「武」「信」これなり。 五に曰く 轉注。 轉注とは 類をつるの一首(一種)にて、同意を相い受く。 「考」「老」これなり。 六に曰く 仮借。仮借はもと其の字無く、 声に依りて 事に託す。 「令」「長」これなり。
と有る中の 「転注」の解釈に就て、唐の裴務斉ハイムサイより現代に及ぶも 百家の諸説紛紛として決せず、之を概括するに 凡そ四派の説がある。
には 形体の展転を主とするもの、是れは 裴務斉の「切韵」の序に有る「考字左回、老字右転」の説に始まり、宋の陳彭年の「広韵」、元の戴侗の「六善故」、周伯琦の「六善正譌」、清の呉善述の「六書約言」等は 之に由つて説を立ててゐる。…
には 声韵の展転を主とするもの、是れは 宋の張有の「復古篇」に始まり、宋の毛晃「韵略」、明の趙古則の「六書本義」、楊慎の「転注古音略」、清の顧炎武の「音論」、其他の諸家 之に由つて説を立つる者が多い。 … 是等諸家の説に多少の差異は有るが、或は転注を仮借と混じ、或は後世 謂ふ所の注釈と混じ、また 古音及び許氏(許慎)の「考老」の説と合はない。 …
には 訓義の展転を主とするもの、是れは早く 南唐の徐諧の「説文繋伝」に始まり、宋の鄭樵の「通志略」、元の楊桓の「六書統」、明の趙宦光の「説文長箋」、清の朱駿声の「説文通訓定声」、曹仁虎の「転注古義考」、江声の「六書説」、許宗彦の「転注説」、夏炘の「六書転注説」、戴震の「六書論」、段玉裁の「説文解字注」、王筠の「説文釈例」其他 許瀚、孫星衍、鈕樹玉、張位の諸家 おのおの大同小異の説を立ててゐる。 …
には 以上三種の説を綜合し、形体と声韵と訓義と併せて 展転すると為すもの、是れは 現代の支那に於て 朱宗萊が 中華民国七年(一九一八)出版の「文字学形義篇」に書いてゐる新説である。 …
以上 概叙する所に明かなる如く、説文六書の「転注」の解釈は、古来百家の説 いよいよ繁くして いよいよ迷路に入り、今日に至るも 猶 未だ定説を得ないのである。


 さて 翻つて我が棭斎の「転注説」を読むに、棭斎の炯眼卓識は 徐諧以来紛々たる百家の議論の 由つて錯迷に陥れる根原を一掃し、「転注」に就て 後の学者の新しく前進すべき自由研究の大道を拓開し 指示してゐる。 即ち 許慎が「説文解字」の叙の六書の諸項に羼入サンニュウ(他の文が入り混じること)の文ある事を、後魏書に載せたる江式の「論書表」を引いて考證し、之をけずり去つて許慎の旧に復するにあらざれば 其正義を得ることあたはずと断じたるは、彼土の学者の何人も曾て想ひ及ばざる一大発見である。 古来「転注」の解説の牴牾混乱して 学者を惑はしめたる所以は、実に許慎の説文叙の「五に曰く転注」の下に有る「転注者、建類一首、同意相受、考老是也」と云ふ十五字につまづいたる為めであつた。 棭斎に拠つて之を羼入と決するを得るならば、支那に於て一千年の久しい間に堆積したる転注説は 悉く象を撫する群盲の徒爾を繰返したものと云ふべきであらう。 而して 江式の「論書表」に著眼して得たる棭斎の論断は 容易に之を破るべくも無い。 宋以来の多くの学者、毛晃、趙光則の如きが 屡(しばしば)許慎の古説を疑ひながら、一人として羼入の文に心附く者の無かつたのは意外である。 我々日本人は 近世の学界に棭斎先生のあつた事を以て 光栄としたい。 而かも 支那現代の学者が今日猶 棭斎の説文学あるを知らず、上述四派の転注説の中に模索を続けつつあるは 遺憾である。 想ふに 此の「日本古典全集」に由り 棭斎の「転注説」が世に出でて、如何に多く 彼国今後の学界の刺激と成る事であらう。







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