らんだむ書籍館





目 次


  (序文) 

  觀画談 

  望樹記 

  不児罕山 

  清系縁起 

  憤恨種子 

  怪傑誕生 

  暴風裏花 



幸田露伴 「龍姿蛇姿」

 昭和2 (1927) 年1月 、 改造社。
 B5版、クロス装、函入り、本文 322頁。



 幸田露伴 (本名:成行、慶応3(1867)~昭和22(1947)) の 短編( 随筆・戯曲・小説)集。
 右の目次に示された作品のうち、「望樹記」、「觀画談」、「暴風裏花」の3作品は、別掲の『望樹記』にも収録されている。 残りの「清系縁起」~「怪傑誕生」の四作品は、モンゴル帝国の英雄・ジンギスカンを主人公とした連作戯曲で、本書の主要部をなしている。


 今回の「一部紹介」としては、著者自身による内容紹介となっている「序文」(の全文)を掲げる。
 この「序文」で、露伴は 収録作品(作品名をゴシック体で表示)についての 典拠や執筆意図を示しているが、簡潔に過ぎて説明不充分の感もある。 例えば、連作戯曲に関して挙げられている「忙豁侖紐察脱卜察安訳書」なるものは、漢字表記のモンゴル語史料「元朝秘史」を、東洋史学者の那珂通世(なか・みちよ、嘉永4(1851)~明治41(1908)、当書籍館の「拾遺集」にも登場した。)が日本語に訳したもので、「元朝秘史」は 冒頭に族祖伝説を置いた ジンギスカンの一代記である。 露伴の連作戯曲には この那珂の訳文の表現がかなり採り入れられているので、より丁寧に紹介すべきであったろう。



本文の一部紹介






(序文)


 序は緒なりとある。 緒は糸口であり、端を発する所以である。 賡歌の序は史臣の筆に成り、周詩の序は後人の作にかゝるが、いづれも皆 事実の因を記し、作者の意を見(あら)はしてゐる。 それから贈送寄与の詩歌が起るに及んで、詩歌には殆んど序の無いのは無いやうになり、又 詩集文集等が出づるに至つて、作者撰者が大抵は序を為して、其の成るに至れる所以を記してゐる。 皆いづれも當に然る有るべくして 而して然ること有るものである。 此書の如きは数篇の文字を蒐存せるまでゝある。 多くは是れ 一時感興の作、寄託の文、或は記録の筆に過ぎぬのである。 事事しく序を附するにも及ばぬものでもあり、且又 特に序を附せんとすれば、一篇毎に各々言を係けねばならぬのである。 そこで 今 たゞ概略を序することとする。 観画談は 全く幻境から取出し来つたものである。 世 おのづから 是の如きの情、是の如きの人もあるべしとして 描いたものである。 世に真に是の如きの人、是の如きの事が存して、而して後に 記したものでは無い。 望樹記は 一々皆 真に其物有り、其人有り、其景致、其の情感あつて、而して写し出したものである。 不児罕山 以下、怪傑誕生に至るまでの数篇は、元史、元朝秘史、元史訳文証補、聖武記、忙豁侖紐察脱卜察安訳書、土耳古人蒙古史訳書等に拠つて 大豪傑成吉思汗の誕生に至るまでの事情を幻燈映画的に映出せんと企てたもので、其間に虚妄と作為とを挿むことを 十分に避けたから、極めて少しの趣向を付加へたことは有つても、何折の何地の情景は何の書に本づくかと問はるれば、一々其の出処を答へ得るのである。 たゞ金庭(女真族の建てた「金(金国)」の朝廷)に於て 減丁の策(勇猛な男子を減少させる計略)の対論さるゝ一折だけは、意を以て料つて之を描いたのであるが、其代りに其折に右の趣を明記して置いた。 しかも減丁の事は実際に金庭の取つた残酷な政策であつて、全く自分の捏空(実際に無いものを 有るように見せかける)に按出した事では無いのである。 近頃 古人の事跡を描くに、甚だしい空疎の想像と低卑の批判とを加へて、誣妄蝶慢の限りを敢てし、徳川時代浄瑠璃作者の為せる所に倣ひて 自ら疚しとせず、口を芸術の自由に藉りて、実在したる人の実吊に被らするに、夢にも存せぬ事相と心術とを賦与するの傾向あるは、古人に取つては甚だ迷惑な事であり、来者に取つては虚妄を注入さるゝ事であるとして、自分の喜ばざることである。 それ故に自分は 拠るところ無しには古人の上を描写せぬことにしてゐるので、若し芸術的自由を飽まで享有しながら筆を取りたいならば、史上の人の盛名を利用するやうな卑怯なことをせずに、寧ろ烏有子や亡是公の姓名をまでも捏出するが可であるとしてゐる。 大体に於ては 何処までも拠るところ有る事実に本づいて、鮮少の傳彩補筆を加へて、そして事を叙し情を伝へんとするのが 自分の希望である。 暴風裏花は 稀有の事実を描いたものであるが、これ亦 自分の造り出した事では無い。 拠るところは 本文に記して置いた通りである。 序といふにも足らぬが、これだけを序とする。

 大正十五年(1926年)十二月                  著者識






参 考


 上掲の序文で、『暴風裏花』(目次の最後)については、「拠るところは本文に記し」たとあるが、本文には 物語の背景をなす時代状況が「李自成の乱」にあるとし、その李自成(1606~1645)のことは「明史・巻三百九」や 谷氏(谷応泰、1620~1690)の「明史記事本末」に記載、とあるのみである。 『暴風裏花』は 二つの逸話から成っているが、それぞれに 個性的な人物の存在、情理に沿いつつも意外な展開、がある。 正規の史書以外に、必ず拠るところがあると考えられる。
 その逸話とは、
 ① 李自成軍の侵入に際して、明朝宮廷の宮女達が 集団入水(自殺)したこと。
 ② 別の宮女の一人・費宮人が、皇女に扮装して李自成軍に捕らえられ、機知によってその将軍を殺害のうえ、自害したこと。
の二つである。
 このうち ②については、清朝末期の女性革命家・秋瑾(1875~1907)が、露伴の『暴風裏花』と ほぼ同内容の文「某宮人伝」を書き残している。(「秋瑾集」1960年7月第1版・中華書局、所収) そしてこの「某宮人伝」には、次のような秋瑾自身の語が加えられている。
偉なるかな 宮人。 其の愛国の熱心は 此(かく)の如くであった。 其の思想の毅烈たること 此の如くであった。 其の魄力の円満たること 此の如くであった。 ・・・ 同胞姉妹よ、宮人の死を 前時代の美挙にとどまらせることなかれ。
 秋瑾は、日本留学中に革命(清朝打倒)運動に加わり、帰国後は革命軍創設のために尽力した。 このため、蜂起の企てが発覚するや逮捕され、刑死した。 「某宮人伝」は、その逮捕・処刑のための証拠資料とされたという。 激越な語が加えられていることのほかに、文全体が赤インキ(紅墨水)で書かれていたこともあって、蜂起を促す檄文と見做されたのである。



「らんだむ書籍館 ホーム」 に戻る。