らんだむ書籍館



表紙





目 次


    巻頭言 (白柳秀湖)

    [昭和時代]
     暖窓漫談
     翠屏荘閑話
     痴遊に寄す

    [大正時代]
     運慶事遺蹟考
     愛染明王像勧請之由来

    [日露戦役前後]
     枯れ松葉
     戦場の退口
     梅翁宗因
     寸前暗黒
     浪人とは何ぞや
     病床噡語
     百獣の話
     妻の心得
     広島通信
     布哇遊記
     松島紀行
     日光・塩原・紀行
     東山紀行
     雲水日記
     みやこ落
     三申消息
     沼津の一夜
     俳諧日記
     梅十首
     なづなの巻
     雷十四句
     羇旅無情

    [日清戦役前後]
     剣道の異材
     近松門左衛門を読みて
     猛虎道人夢譚
     奉迎聖駕
     豚を罵る辞
     貧乏説
     天狗の説
     あさがほの花
     立つ秋の賦


小泉三申全集・第四巻
「史的小品集」


昭和17 (1942) 年 11月、 岩波書店。
B6版、 紙装・函入り、本文 541頁。


 4巻からなる『小泉三申全集』の 端本である。
 小泉三申(本名:策太郎、明治5(1872)年~昭和12(1937)年)は、南伊豆出身の著述家・評論家。


 「本文の一部紹介」 としては、
(1)白柳秀湖(本書全体の編集者)の「巻頭言」中、小泉三申の経歴を紹介した部分。
(2)既掲載の 師岡千代子「夫・幸徳秋水の思ひ出」 との内容的な繋がりのある 「病床噡語」
の2部分 を掲げることとする。
(1)、(2)それぞれ、今や論述されることの少ない 小泉三申という人物を知るうえで、参考となるところ大であろう。





本文の一部紹介





巻頭言


        〇
 翁(小泉三申のこと。編者の白柳秀湖より12歳年長)は 明治五年十一月三日、伊豆国賀茂郡三浜村子浦で生れた。 伊豆国も その南半の賀茂一郡は 天城山で完全に海道の文化から隔絶せられ、幕末 下田が江戸と大阪とを繋ぐ海路の要津として、俄に殷賑を極めるまでは、下田と並んで絶海の孤島にも似た 蓼々たる別天地であつた。 但し、幕末 海防の事が緊迫し、各藩が競つて外商から木造-外車式の蒸気船を購入し、それが遠州灘の波濤を蹴つて、江戸と大阪との間に黒い煙を漲らせた いはゆる『御軍艦』の時代を、もう一つ前に遡つて、『大和船』の時代をみると、下田と子浦とは 南伊豆の両翼であつて、子浦の地位がむしろ下田に一頭地を抽(ぬ)いて居た。 翁は この子浦で生れたのだ。

        〇
 蒸気船時代に入ると、子浦は 全くその大和船時代の繁栄を下田に奪はれてしまつた。 しかし、翁の生れた明治初年の子浦には、まだ何といつても、新宮船・きたまい船・(酒田船・新潟船・金石船・敦賀船・七尾船・室積船・高砂船・等)樽廻船・鳥羽船・仙台船・等の出入で栄え、折ふしは『荷打船』の上時の入港でさんざめいた 浦の景気が多分に残つて居た。 伊豆国は 明治二年に更めて封土を定められた徳川氏の地に入込み、津々浦々 到るところに江戸文化の大きい足跡を印したものであつたさうだ。 かうした文化人で 半島絶端の子浦に大きい影響を与へたものに、幕臣・栂野虎次郎があつた。 翁が初めて経学の門に入り、読史の興味を知つたのは、この先生の丹精によつたのであつた。
〔原注〕文中の『荷打船』とは、航海中 難風に遭ひ、積載荷物を海中に投じて、僅かに覆没を免れたるものの謂ひ。 但し、荷打したることを理由とし、積載荷物の全部もしくは一部を中間の津港に陸揚げし、捨売相場にて浦人に捌くものもあつた。 この種の上正船が着津するたびに 浦々は上意の景気で沸立ちかへるやうな騒ぎであつた。

        〇
 翁の家は 子浦の浜から、山ふところのやうなところにぎつしりと詰つた 楔形の漁夫町を段々に登つて行つて、その頂点にあたるところに位して居る。 伊浜の方に越さうといふ峠にも程近いのだ。 右手に小学校があつて、元は成功館といつたものらしい。 明治六年の創立で、その頃の吊主・沢村久右衛門が、格別教育の事に熱心で 献身的に奔走した結果、辛うじてその基礎が成つた。 それには 肥田忠次郎なる人の輔佐も与つて大に力があつた。 この成功館に初代の訓導であつたものが 前掲・栂野虎次郎だ。 明治六年七月その任命を受け、明治十二年十二月を以てその職を辞して居る。 幕末、江戸中にその吊を知られたほどの碩学で、面長にうす痘痕、大へんな酒豪であつたと翁は語る。 翁が少年の時、この先生からどれほどの教養を授けられたかといふことは、現にその小学校に保存されて居る翁寄贈の漢籍で ほゞこれを推知することが出来る。 それは 次に挙げる大約四十種だ。
  (書名略)

        〇
明治二十年正月といへば 翁は十六歳であつたわけだ。 この春 翁は前掲・成功館の教員を拝命し、翌二十一年九月に辞任して居る。 ついで 明治二十二年四月、翁は 更めて三浜村立三浜尋常小学校の授業生を拝命したが、間もなく辞任した。


        〇
 明治二十六年 翁は二十二歳で『静岡日報』社に聘せられたが、これはほんの二・三箇月で退社した。 何にしても 翁の文才の漸くにして頴脱(エイダツ、才気がおのずと外に表出すること)し始めて居たことが よく分る。 『静岡日報』退社後、翁は間もなく上京したものらしく、明治二十七年には 板垣退助の主宰する『自由新聞』社に入り、直接その指導をうけることとなつた。 その入社試験ともいふべき意味で書きおろしたのが、『慶安騒動私見』であつたと翁は語つて居る。 この新聞社で翁は初めて幸徳秋水と相識り、互いに切磋琢磨して文章道にいそしんだ。 当時の文筆人のことであるから、その私生活の上羈奔放を極めたことは 察するに余りあるが、その一字一句 苟(なおざりに)もせず、同人互に相 砥励(テイレイ、はげみつとめる)し、資材を古文に徴し、辞句を原籍に究め、自問独修、骨を鏤(えりこ)め、肉を刻(きざ)んで、纔(わずか)に効を竣(を)へ、業を成し得た苦心のさまは、今の学校出の文士達などの到底思ひも及ばぬところであつたに相違あるまい。





病床噡語


 僕は 平民新聞(明治36(1903)年、堺枯川・幸徳秋水が中心となって創刊した、社会主義系新聞)に対して、枯川君の所謂 同志にあらずして 友人である。 平民新聞が社会主義の新聞だとすれば、僕には未だ社会主義伝道の一課目をだにも受持つ資格はない。 しかし 僕は 僕の立場からして、同志で有らうが、友人で莫(な)からうが、其れには一向頓着しない。 只だ親友の秋水子・枯川君が、借金を背負つて新聞を作る、論陣を張ると聞いては、水の中へでも 水の底へでも飛び込んで、微力ながら手伝ひを為(し)たい。 先方様に御迷惑かも知れぬが、僕の意気としては それが当然の義務と信ずるのだ。
 いよいよ行(や)る、世間へも発表した。 準備にもかゝつた。 所で 金がない、家がない、電話も欲しい、事務員も雇ひたい。 紙質の良否を鑑別するさへ怪しい程 商売には上慣な二君が、唖然として首を鳩(あつ)めて居る状態を睹(み)ては、気の毒にも思ひ、健気にも感じて、僕は飽くまでも僕の信ずる当然の義務を尽さねばならぬと考へたが、偖(さ)て然らば 何事の手伝が出来るかと謂へば、同じく貧乏、同じく無経験、同じく唖然として自から慚(はず)るのみで、無駄噺に二君が貴重の時間を潰したくらゐが、僕が信ずる義務を尽くしたのであつた。
 兎角する中に、二君の事業はその緒に就いて、有楽町へ平民新聞社の看板が上つて、十一月十五日初号発刊の広告が新聞紙上に見(あら)はれる。 初刷には何か書けといふ、 初刷どころか毎号かならず書くといふ、原稿は七日に〆切る、好し一・二欄だけ明けて置いてくれろと約束した 十一月の初めには、僕の俥は頻りに病院へ梶棒を向ける事となり、秋水君から原稿の催促を受けた頃には、僕は白衣の看護婦に擁せられて、平生の書斎が病室と変り 「肌寒や枕に並ぶくすり瓶」の句が 「病床日記」とやらの初めに記されたのである。
 茲(ここ)で斯様な事を言つて善いか悪い乎は知らないが、僕が初めて秋水君から雑誌刊行の相談を受けたのは、去年の九月のはじめ、煅(や)くが如き残暑に 蝉の声を憎む頃であつた。 つまり 朝報社(堺枯川・幸徳秋水がそれまで在籍していた「万朝報(よろずちょうほう)」社)も大概にして去り時だ。 いまに勧業債券の懸賞でも出るやうになつては、主義も理想も滅茶々々だ。 其れも世の風潮なり、商売の方便なりとすれば 詮方もないが、併し我々には我々の主義があり 理想がある。 社が世の風潮に余儀なくされたからとて、我々の主義をも理想をも、同じく挙げて風潮なるものの犠牲とする事は出来ない。 こゝは 一つの分別をつけて、寧(むし)ろ 独自一己ででも、我が主義、我が理想のために論陣を張るべく 心構へを為(せ)ねばなるまいと思ふとの話。
 其処で 雑誌刊行のはなしが生れる。 時機の論になる。 今年中か、来年に為ようか、茲に至つて 実は僕は多少秋水君の前途を危まないでもない。 雑誌といつても なかなか困難である。 まあ 急ぐ程の事もないから、来年ゆるゆるとの俗論を提出したものゝ、「朝報を去る」ことの決心には 何故とは躬(みずか)らも知らず、中心からして賛成せざるを得なかつた。 時機は自ら作るべし、待つといふからして待遠しい。 来年と謂はず直ぐに決行すべしとも勧めてみたり、結局 其の時は上得要領であつたが、秋水君の決心の堅い事だけは 明らかに諒解されて、それが酷(ひど)く嬉しいやうな気が為(し)たのである。
 さう急でも有るまいと思つたのに、唐突に朝報退社の報に接する。 二日ばかりにして 朝報紙上に非戦論衝突の始末が出る。 次で いよいよ週刊新聞発行の計画についての手紙が来る。 秋水君の根津の寓居を訪問すると、枯川君・緑雨君が居て 頻りに計画の歩が進められて居ると言つた次第で、何は兎もあれ、枯川君が力を協せての事なら、鬼に鉄棒、大に人意を強うする。 事 茲に至る、一日の躊躇を容さず、家がなくば根津の幸徳宅でやれ、金がなければ高利を借りても苦しくあるまい、来月の兵糧は来月の事、一月分の印刷代・紙代 それで充分だ。 意気旺盛、自分の事のやうに勇み立つたのであるが、病気 噫 病気、医士曰く 腸チブス、固形物は一切 喰ふな、書物は勿論 新聞も読むな、手紙も書くな、面会・談話 すべて之を厳禁すと。 かくて僕は 仰臥六十日、人間一切の自由を奪はれて、生死の境に彷徨(さまよ)ひ、十二月の二十六日、僅かに「煤(すす)払ひて 海老汁祝ふ うまさかな」 と詠じて、一家 愁眉を開くに至つた。
 此の間に於て、僕が尤(もつと)も心を動かしたのは、忘れもせぬ十一月十四日の夜、十五日発刊の平民新聞が枕頭に置かれた事である。 時に 僕の体温は三十九度七分、看護婦は曰ふ、先生(主治医 ― 峯秀世氏の事)の仰せです。 新聞を御覧になつてはいけません。 然れども僕は 遂に平民新聞を手にして 覚えず落涙の滂沱たるを禁じ得なかつた。
 せめて初刷には、二行でも三行でも書きたいと思つたが、五体の凡ての機能が衰憊して、殊に視力の上十分なのに妨げられ、発句一つ送る事も出来ず、今日は少し気分もいゝので、当年筆はじめの心得で破硯を磨したが、尾崎市長の所謂 私邸の談話、紙面に公けにすべき事柄ではない。 読者迷惑、新聞社にも尚更のこと、而かも僕は今 明らかに医誡を破つて、峯先生に申訳がないのである。 (一月三日記)

   秋水付記
 小泉三申君が病余の身で 此の同情の溢れた長文を寄せられたのは 感謝に堪へぬ。 但だ 去年雑誌のことを相談した時のことは 少しく事情を尽さぬ点もあるやうだ。 僕の考へでは 雑誌の為めに若し朝報を去らねばならぬことになつても宜しい。 去つてもやる と云ふやうに話したと記憶して居る。 併し 是は事々しく正誤する程のことでもない。 君の記憶に任して置かう。
(明治三十七年一月十日 平民新聞)





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