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表紙



目 次


   細々要記 一
    建武元年正月 ~ 同年十二月
    (西暦1334年)

   細々要記 二
    建武三年正月 ~ 建武五年十月
    (西暦1335年)

   細々要記 三
    延元四年正月 ~ 正平六年十二月
    (西暦1339年)

   細々要記 四
    正平六年十二月 ~ 十三年六月
    (西暦1351年)

   細々要記 五
    正平十三年八月 ~ 十七年九月
    (西暦1358年)

   細々要記 六
    正平十八年正月 ~ 建徳元年十二月
    (西暦1363年)

   細々要記 七
    建徳二年二月 ~ 天授二年十月
    (西暦1371年)



史籍集覧
「細々要記」


明治16 (1883) 年 (五月 校了)。
縦18.4cm、横 12.5cm 、活字印刷。
線装2冊(30葉、34葉)。
近藤瓶城。


 史籍集覧は、明治期に 市井の学者・近藤瓶城(本名:圭造、1832~1901)が編集・出版した、かなり膨大な 我が国の古典の叢書である。
(筆者は、未だその全容を把握していない。)
 本書 「細々要記」は、建武元年(西暦1334年)以降の政変(ふつう「建武の中興」とか、「建武の新政」と称される)に関わる諸事項を、当時の興福寺の僧・実厳(生没年不詳)が逐次記録したものである。


 「本文の一部紹介」としては、目次中「細々要記 一」の前半(建武元年十月までの記事)を掲げる。
 なお 本書は、「漢字・カタカナ交じり文」で活字印刷されているのであるが、ここでは「漢字・ひらがな交じり文」に改め、同時に仮名遣いの誤りも正した。 また、伝聞に関わる事項には、ほとんど全ての文末に「云々」の語が付されていて、煩わしく感じられるが、これはそのままにしておく。
 掲出部分の最後が 万里小路藤房の失踪の記事となったが、「英草紙」にみえる 藤房の失踪は、事実だったのである。





本文の一部紹介






      細々要記 一
 元弘四年(西暦1334年) 正月廿九日、改元ありて 建武元年とす。 漢朝の年号を摸さる。 同比(同じころ) 都には 大内裏造営の御沙汰 有(ある)よし 云々。 去年の冬より 内裏を四方へ一町宛(ずつ)広げられ 宮殿を造り添らるゝと云(いえ)ども、猶(なお) 分内(屋内ということか) せばく(狭く)、朝廷の礼儀を調へ(ととのえ)がたきゆえ、詮議 有りて、催(うなが)さるゝ所なりと。 安芸・周防 料国によせられ、六十余州所領の得分二十分(の)一を懸け召さるゝよし 云々。 大内裏は 安元三年(西暦1177年、後白河上皇の院政時代)四月 焼亡の後 造営の御沙汰なかりし所、兵乱の後 国費・民苦しむの時、大内裏を造らるゝこと 不可然(しかるべからず、適切な決定でない)と傾け申す(人々が批判する)のよし 風聞。
 二月三日 紙銭通用の儀 仰出され、諸国の地頭御家人の所領に課役をかけらる先例 いまだなきの所なり。
 三月 諸国 疫癘病死する、甚(はなはだ)多し。
 四月 筑紫に 規矩兵庫助・糸田左京亮と云 平氏の一族、前亡の余類を集め乱をなすよし。 同廿二日 西室僧正を取立、大和・河内両国の賊等蜂起、飯盛山に上り、城郭を営するよし。 南都 騒動す。 近辺 甚 物窓(物騒)
 五月 河内の守護・楠判官正成 京都より帰国、四日 般若寺に宿(やどる)。 其の勢 三百騎 計(ばかり)。 四日の夜、般若寺へ使者を遣(つかわ)して音問(直接連絡をとる)、明日出達のよし 云々。
 五日 辰の刻、楠判官 河内へ赴く。
 九日 飯盛山の凶徒 打出たるよし風聞。 物窓(物騒)なり。
 十一日 飯盛山 合戦ありと 云々。
 京都に今度の逆徒追伐の御祈に 安鎮の法を修せらるべきよし。 南都よりも僧徒を召(めさ)る。 紫宸殿に於て修法せらる導師 竹内慈厳僧正と 云々。 鎮檀応護の兵士は 結城左衛門尉、伯耆守楠舎弟七郎塩冶判官等 四門の警衛にまひる。 南庭左右の陣は、千葉助・三浦助を召さるゝの所、両人 相手を嫌ひ申(もうす)により、已(すで)に法会の違乱に及ぶ。 俄(にわか)に 大島讃岐守・細川阿波守 両人を召て まひるよし 云々。 同比(おなじころ)、南海 伊予国に平氏の余類・赤橋何某(なにがし)と云ふ者 逆乱を起し、国中騒動するよし。
 五月 都には兵革の余殃(子孫に及ぶ わざわい)を銷(け)せられんがため、真言秘密を修せらるべき よしにて、俄に 神泉苑を造らると 云々。
 七月 飯盛山の凶徒 今に至て伏せず 合戦あり。 四国・九州もまた 如此(かくのごとし)と 云々。 同中旬の比(ころ)より、内裏に夜々怪鳥 飛来り、鳴声 雲にひびき、聞く人 恐ると云々。 兵革後 余殃 銷せざるか。 八月中旬 殿下の御内(親族) 隠岐入道・心寂が(の)子・左衛門尉入道・弘寂 勅を承(うけたまわ)り、怪鳥 射る。 彼(か)の鳥 紫宸殿の上に飛下り鳴(なく)ところを 十二束の流鏑矢もつて射當つ。 鳥は 仁壽殿の軒より竹台の前へ落ると 云々。 其状(その かたち) 頭は人の如く、身は蛇の形、嘴(くちばし)(まが)つて 歯生違(意味不詳)、両の足 けつめ(蹴爪)有て 利く。 羽さきを伸(のばし)て 其の長さ一丈八尺 有(あり)と 云々。 稀有の鳥なり。 廿二日 彼の鳥を東山に埋(うめ)らるゝ由 風聞。 路次に於て 見物のため貴賤群衆すと 云々。
 十月 朔日(ついたち) 飯盛山の城 没落、西室僧正を始め 凶徒ことごとく被討捕。 其外(そのほか) 生捕(いけどり)数をしらず。 申の刻(午後4時頃) 飯盛山の方 焼亡の煙立ち、すでに落城したるよし たしかに云々の所、成実坊 摂州より帰院。 つぶさに聞くところ 相違なし。
 十月廿九日 内裏に於て、大塔宮(後醍醐天皇の第一皇子・護良(もりなが)親王)を執(とらえ)奉り、馬場殿に押籠り奉るよし 云々。 また、宮 反逆の御企(くわだて)あるがゆえとも云い、不分明(分明ならず)。 是によつて 世間 物窓(物騒)なり。
 十一月上旬 大塔宮の候人(宮に仕える役人)三十余人 蜜(ひそか)に誅せらるゝよし 云々。 同中旬 大塔宮を細川陸奥守顕氏 請取(うけとり)奉り、関東へ御下向。 左馬頭直義が鎌倉にあるに預けらるべきよしなりと 云々。
 同比(同じころ) 筑紫・伊予の賊徒 ことごとくに敗北し 誅に伏す。 首(かしら)ども 京都にのぼるよし 風聞。
 大塔宮 鎌倉へ御下向。 二階堂谷に土牢を塗置、進めらす。 御介錯(身近で世話をする人)は 保藤卿の女(むすめ)新按察典侍一人より外(ほか) 着副(つきそ)えまいらする人なきよし 云々。 帝(後醍醐天皇) 一旦の逆鱗に鎌倉に下し進めらせらると云へども、是迄の沙汰あれと叡慮 赴かざるを、直義・日比 宿意あるを以て 禁籠(牢に閉じこめる)し奉るのよし 風聞。
 去る十月五日、万里小路中納言藤房卿 遁世出家 行方を知らずと 云々。 藤房卿 連々 帝へ諫奏を上(たてまつる)る事ありと云へども、御許容なきに依て 身を退くと 云々。 年三十九歳と 云々。 父・宣房卿 悲嘆たぐいなきのよし 云々。









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