らんだむ書籍館 |
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目 次
北隆館五十年を語る 一 北国組出張所の創立 二 南紺屋町時代 三 鎗屋町時代 附・呉朊町時代 四 元数寄屋町時代 五 関東大震災 六 大震火災後の復興時代 七 社屋本建築の計画 八 結語 業界五十年表 北隆館月報刊行に就て 北隆館見たまま 北隆館五十年を耳にして 北隆館型の人 訴訟の教訓 新聞販売界の変遷 我国の雑誌発行と配給制度 書籍雑誌業団体の機構 書籍販売の今昔 北隆館と十二銀行並に其他の銀行 家 憲 地図から見た世界相 後 記 |
本文の一部紹介 |
出版部の再興
書籍雑誌部が 日本橋区呉朊町に独立してゐた時分の事である。 偶々(たまたま) 明治四十一年 参文舎・篠崎純吉氏との間に 五千余円の貸借関係が生じ、それを整理する事になつたが、同舎は以前から 牧野富太郎先生校閲の「植物図鑑」を発行してをり、二千三百余種の植物図を木版に起し、今から見れば随分まづいものであるが、その當時のものとしては 相当のものであつたから 翌年それを五千余円の抵当にとり、以前の印刷所・国文社から紙型も同時に引取つた。 紙型は印刷所で預るのが普通だが、参文舎との取引関係から 返却して寄越したのである。
大正三年頃、秀英舎本社の真向に在つた元数寄屋町の泰錦堂に 富山幸次郎氏が居られ、広告の紙型などを頼むと 親切に仕事をして貰つたが、新たに日清印刷へ招聘されて行く時に、折角行くのであるから何か仕事はないかとの事で、「植物図鑑」 一 斯ういふ仕事があるが 一 ではすこし 千部許(ばか)り刷つてみませうか といふ事になつて、国文社から戻つて来て居つた紙型を渡して依頼することにした。
それが 「植物図鑑」 出版の始まりである。 その後 欧州戦争の勃発に依り紙値が昂騰したので 定価五円で売出した所が、案外受けて、五百部刷つて出すと忽ち売切れ、更にまた五百部刷るといふやうなわけであつた。
婦人之友 に居られた佐久間哲三郎君が三宅驥一先生の科学知識に聘されてから 植物図鑑の広告を科学知識に出して居つた所が、その三宅先生が、こんなまづい図鑑を科学知識普及会の雑誌に始終広告されては科学知識の為に不名誉であるから何とか改訂をせねばいかぬと言出されたのは 大正十一年の春のことであつた。 私の方でも 変な物を拵へて売りたいわけでもないから、三宅驥一先生、佐久間哲三郎君等の意見を容れて、それでは立派なものにして下さいと、愈々大正十一年の暮に改訂版を発行する段取を協議する事になつた。
植物図鑑の木版は、鎮西亀松といふ大阪の人が彫つたもので、篠崎純吉氏の先代・篠崎小竹先生(1781~1851)は漢学者として相当の人物であり、大阪で識り合になつたものであらう。 出京して京橋区槙町に住んでゐた頃 参文舎の篠崎氏に依頼されて彫つたものである。
本来ならば参文舎で保存して居るべきであるが、木版彫刻代を溜めた為めであらうか、鎮西氏がその借金の抵当に所有して居り、北隆館は同氏に印税を支払ふ約束であつた。 大正七年八月頃、同氏の死後、その遺族から北隆館宛に 若干金で木版を全部譲渡するといふ手紙が突然舞込んで来たので、二行李かにぎつしり詰まつてゐた木版を引取り、印税の権利を譲り受けた。 その後暫らく店の三階に寝かして置いて、大正十二年の八月に宮田長太郎君に頼んで 全部手入れした上で 改めて電気版にとり、日清印刷へ運んで置いたところが、之れが幸ひして 間もなく突発した関東大震火災の為めに、店に返つて居た木版だけは焼失してしまつたが、全くの僥倖にも、日清印刷にあつた電気版と店の金庫にあつた校正刷とは、全部焼失を免れた。
その以前に 牧野先生はよくやつて来られて、参文舎は校閲料を払はぬ、怪しからぬ奴だと文句を言はれ、此の事実を新聞紙上に発表すると 口癖のやうに言はれたものである。
明治四十年の暮に 呉服町の書籍雑誌部の方をやる様になつてから、毎朝呉服町の店に出て種々仕事をやり、午後三時半頃には銀座の新聞部の方へ帰つて兼任で働いて居つたが、或日の夕方 新聞部の方に居ると、呉服町の方から電話が掛つて来て、牧野さんが今 店に来て苦情を言つて居るから何とかして呉れ!と言ふ。 恰度その時分は東京毎日の投票があつて忙しい最中であつたが、先生のことだから繰り合せて 已むなく私が相手になつたものであつた。
北隆館が特約店といふ意味合ではないが、参文舎は牧野先生に校閲料を責められると、苦しまぎれであらうか、北隆館に振向けて寄越したのであらう。 先生は 斯ういふ天下の書店が吾々学者に対して実に怪からぬ、此の事を新聞紙上に発表して天下の公論に訴へる 一 と力んで居られた。 だが この苦情は筋違ひのことで、北隆館としては如何ともいたしがたく、なんでもご自由にと御答へするほかはなかつた。 その後 元数寄屋町に越してからも 相変らず牧野先生はやつて来られたものである。
呉服町時代には 靴の儘 室内へあがつて頂いたが、元数寄屋町の店では 二階の座敷が畳敷であつたから 草履に履き替へて貰ふ事になつてゐたところ、或日、先生は お帰りがけに護謨(ゴム)の深靴を履かれようとすると、ひどく破搊してゐたので、流石に先生御自身も苦笑せられた。 笑ふに笑へず、顔を背けたものであるが、篤学なる先生に対して、これは何とかして上げたいといふ気持になつた。
爾来 三十星霜を閲し、皇紀二千六百年を慶祝する昭和十五年に至つて、牧野先生の力作たる牧野日本植物図鑑を刊行するに至つたことは、私として衷心の喜びとするところである。
出版事業の再興
大正十四年九月二十四日に植物図鑑の改訂が出来たが、これも亦 大震火災の影響が少くなかつた。 前述の如く 植物図鑑の挿図原版は、幸に電気版に造つて、日清印刷に預けてあつたので 大震火災の厄を逃れたが、あの大震火災の当日 九月一日の正午には、植物図鑑改訂に関する打合せ会の予定があつた。 それで 三宅先生の代理として、改定の予定を立てられた向坂先生が 計画書一切を折鞄に入れ、北隆館に来らんとする途中であの震災に会ひ、方々を逃げ廻はられたが、その計画書は被害を免れ、これがあつたが為めに、改定事業は意外に早く進行した。 但し 大正十二年はそのまゝに過ぎ、十三年の七月頃から、改訂の仕事に取りかゝり、その夏から殆んど毎日の如く 向坂先生が牧野先生を訪問して 図版や説明文の書直しを督促されるといふ有様であつた、 私もこの改訂事務は主として自宅で執ることとし、尼子(不詳)と共に随分無理な仕事もしたものであつた。
その結果、永らく問題にして居た植物図鑑は、大正十四年九月二十四日に 日本植物図鑑として発行の運びに至り、全く面目を一新して 正価拾円(完成記念特価 八円五十銭)で発売した。
終