らんだむ書籍館


表 紙


引 (はしがき)




目 次


 骨董
 蘇子譫 米元章
 金聖歎
 水滸餘話
   一丈靑 病関索 赤髪鬼
 閃婆
 末利夫人と石田三成
 楊貴妃と香
 雲南
晋の僧法顕アメリカに至る? 日本に来る?
 支那大観序
 沙糖


幸田 露伴 「骨董」

 昭和21 (1946) 年12月 、 東京出版株式会社。
 B5版、 紙装、 本文 253頁。



 本書「骨董」は、露伴の最晩年に刊行された書である。
 発行元の東京出版は、文芸評論家の野田宇太郎(1909~1984)が在籍していた出版社で、本書はその野田の編集になるものであるという。
 右下の目次に示される 11篇の文章が、収載されている。
 最も長文のものは、「雲南」である。
 露伴の雲南への関心は、はじめ 歴史小説『運命』(1919年発表)の執筆により生じたものであろう。 小説において、主人公たる 明の第2代皇帝・建文帝は、叔父(後の第3代・永楽帝)の反逆により帝位を追われ、この雲南の地に落ちのびた とされている。
 しかし、この地への関心を倍加させたのは、19世紀以降の西欧列強のアジア進出との関連に気づいたことによるものであろう。 雲南は、中国最南部の辺境ではあるが、進出をもくろむ列強にとっては、入り込みやすい無防備地帯であったのである。
 今回の「一部紹介」としては、この「雲南」の冒頭部分と、列強の侵略への危惧を示した部分とを、掲げることとする。
 この文(全体)も、露伴によくある 章・節に分たれない文章で(随筆であるから仕方がないとも言えるが)、内容の変化・進展に伴なう「見出し」も無くて、いかにも読みにくいが、注記以外の補助的な語や記号などは 加えないこととする。


本文の一部紹介






雲 南


 雲南は 支那 西南方の一省でありまして、東は貴州、即ち古(いにしえ)の黔(ケン、国名)、および広西省に接し、東北より北へかけて四川省に入込み、北より西北は 西康省即ちチベット東部につゞき、西は 蛮夷を擁し、西南はビルマに臨み、南は仏領印度支那、即ち 古の交趾安南に連なつて居ります。 大体の地勢は、西北隅 即ち西蔵寄りの方が高く、東南は低いのでありますが、山脈が蜿蜓して、しかも交錯が甚しいので、気候は湿熱のところもあれば、冷涼の地もあり、緯度の割合には、人身に好適し、草木に善応するところもあります。 一方には 瘴癘の気の甚しい地方もあります。 西南地方は ビルマ国南北線の三支が東へ進出して、将(まさ)に雲南省と脈絡相通ぜんとして居りますけれど、未だ成就しては居りません。 大都のマンダレー(Man'dalay')から東北方へ進んで居る一支は サルウィン(Sal'ween)川 即ち雲南を流れて居る時は 潞江と呼ばれるゝ河に至つて止まつて居るやうです。 マンダレーより北方のカーサ、パーモ方面から東へ入る一線は、雲南省城から楚雄、大理、永昌を経て西下する幹線大道路とその其の何れのかに於て握手してゐます。 猶又(なおまた)(そ)の線の分岐点より東北のミイトキーナを終点としてゐる線は、近々と省境に逼(せま)つてゐます。 又 鉄路で無い道路を云へば、貴州の貴陽府、揚子江岸の萬県、重慶、濾県、叙州、蜀の成都、西蔵の打箭罏、巴塘、緬甸(ビルマ)の蛮莫、マンダレー、安南の河内等、各重要地には、坦路(平坦な道路)とは もとより云へぬが、各々通路が出来てゐて、僻遠の地とはいふものゝ、明末清初の徐霞客(1586~1641。文人にして遊歴者。霞客は号で、名は宏祖。紀行『徐霞客遊記』の著がある。)が鶏足山に遊んだ時分のやうなことは無く、軍団所在地として幾干かの意義を有してゐる。 経済の力は 浙江の如くには有り得ないが、夙(はや)くから隣省の貴州などより三倊の力が有ると云はれて居り、特に今日 其価値が昔日よりも高騰せる鉱産物の埋蔵量は 他州に比べて遥に多いところであるから、僻遠の地とは云へ、経営 宜しきを得れば、政治上には兎もあれ角もあれ、大に光輝を発すべき地である。 (中略)

 清(清朝)の雲南の統治は 其の宜しきを得て、総督・鄂爾だの、大学者・阮元の頃から、愈々支那に同化し、緬甸征伐の事があつて、明の時とは反対に 東北の力が大に西南に張るに至つた。 それは 西蔵が清の力に包容されたからであつた。 然るに 清末に至つて、緬甸が英国の手に入り、西蔵が又 英の力に屈する至り、加ふるにコチンチャイナは仏国の手に収めらるゝに至つたから、今は又 西南方の力の圧迫・浸潤すること分明な状態に置かれてゐる。 英国にして進拓の努力を怠らなければ、雲南はもとより 貴州・広西・広東を連ねて印度の東端たるに至るの形勢を示してゐる。(下略)



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