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表 紙




目 次


   論 説
 大秦伝より見たる西域の地理(二) ……… 白鳥 庫吉
 朝集使考 ……………………………………………………………… 坂本 太郎


   説 林
 明の国号について …………………………………………… 和田 清


   彙 報
 史学会 第三十二回大会前記
 史学会 三月例会
 第百十三回東洋史談話会
 昭和六年度東京帝国大学文学部史学関係講義題目
 内国史界
 ○ 東洋文庫に於ける白鳥博士の講演
 ○ 奈良朝古典特別展覧会
 ○ 日本林政史資料展観
 ○「ギリシヤ・ラテン講座」の発刊
 ○ 雑誌「上方」の発刊
 書評
 新刊史学関係書目
 史学会記事



「史学雑誌」 第四十二編 第五号

 昭和6 (1931) 年 5月。
 東京帝国大学文学部史料編纂所内 史学会
 発行所 : 合資会社 冨山房



 「史学雑誌」は、歴史学の学術団体・「史学会」(明治22(1889)年11月設立、会長:重野安繹(しげの・やすつぐ、1829~1910))が、同年12月に創刊した、機関誌である。 (当初は「史学会雑誌」と称していたが、明治25(1892)年12月、「史学雑誌」に改められた。)
 創刊に際しては、当時 東京帝国大学文科大学に赴任していた ドイツ人の歴史学教師 ルートヴィヒ・リース(Ludwig Riess,1861~1928)の指導・示唆するところが 大きかったようである。
 リースは、歴史学関係の学術雑誌として、
 ・ Histrische Zeitschrift (ドイツ、1859年創刊)
 ・ Revue Histrique (フランス、1876年創刊)
などの先行例を示し、実現を指導したという。


 「一部紹介」としては、右目次「説林」中の 和田 清 「明の国号について」 を掲げることにする。



本文の一部紹介

     明の国号について       和田 清

 支那歴朝の国号は 悉く皆 その発祥の地名に基づいたもので、文義を採つて之を命ずるに至たのは、清の趙翼(1727~1814、歴史学者)も曰(い)つてるやうに、北狄から起つて中国に君臨した元朝に始まるのである。註(1) 元が一たびその先蹤を開いてからは、後の歴代はまた皆その前例に従つたので、明清は固より今日の中華民国まで、何れも文義によつて国号を建てたものである。 その中、元の国号については 元史巻七の世祖本紀にも、その建号の詔勅を載せて、「建国号曰大元、蓋取易経乾元之義、云々」と明記してあるから問題はないし、中華民国の語義についても別に疑ひはないのであるが、その中間の明清の二国号については 解釈が頗る困難なのである。 少くとも私の検索の及んだ限りでは、この両号に対する信憑すべき説明は 何ものにも見えてゐない。 茲に明清の国号に関する議論が、今日に及んで尚ほ起り得る所以で、巳に清朝の国号については、市村博士や稲葉岩吉氏などの該博詳密なる研究も出てゐる。註(2)
 たゞ明の国号については 従来余り之を論議した人が無かつたが、私は先年 明の太祖が紅巾の賊の余類なることを論じた序でに 偶々この問題に触れ、紅巾賊徒の首魁・韓山童、韓林児父子は それぞれ大小明王と誇称してゐたから、その余党の朱元璋の国号大明も、或いはこの明王の明と関係あるのではないかと疑つて置いた。註(3) 但し 明王といふのは佛語(仏教語)であつて、しかも民間の邪教門の間に行はれた本尊の吊であるから、之を以て儒学を正宗とする支那の、天下を有つの大号とすることは 頗る応(ふさ)はしくないといふことは 最初から感じてゐた。 当時 この疑を以て加藤繁先生に質したところ、淹博(エンパク、学問・知識が深く広い)なる博士は 直に左の如き一條を示して 私に参考せしめられた。 明の瞿佑の剪燈新話に見える天台訪隠録は、台人徐逸が洪武七年端午の日を以て天台山に登り 薬草を採集する中、過つて仙境に迷ひ入り、そこで宋末の太学生・陶上舎に逢つて、共に問答したといふことを伝へたものだが、その中、徐逸の陶上舎の問に応へた語に
 今天子聖神文武、継元啓運、混一華夏、国号大明、太歳在閼逢摂提格、改元洪武之七載也。
とあり、その華夏の註に「夏、明而大也、中華文明之地故曰夏」とある。 その註と本文とを併せ考へると、華夏を混一したから、その明にして大なる義を採つて、国を大明と号したと云ふがごとくにも考へられるではないかと云ふ訳である。 けれども「混一華夏、国号大明」といふのは 極めて平凡な語句で、仮りにその華夏の註が明確疑ないものとした所で、直に之を以て建号の由来を説明したものとすることは出来さうにない。 況(ま)してその註は大分怪しいのであつて、博士の教へられた剪燈新話は朝鮮本であるが、今 通行の新話には この註は見えてゐない。 註の意味から云ふと、それは恐らく原註ではなく、後に朝鮮人でも附け加へたものかとも疑はれる。 随つて 折角の好資料のやうではあつたが、これだけでは 未だ俄(にわか)に明の国号の意義は決定し難いと思はれた。
 次に 日輪のことを大明といふことは 礼記の礼器篇にも「大明生於東、月生於西、此陰陽之分」とある如くで、明代に至つても その名称は盛に行はれたと見え、歳時に大明を朝日壇に祭つたことは 史にその記事を断たない。 ところが、近頃覆刻された洪武京城図志の序には、明の太祖が 元綱紐を解くの際に当り、上天更運の時に会して、天に応じ人に順つて特起し、中原を攻討し 腥羶を清掃して、以て海内を安んじたことを説いて「群孽盡銷、京畿已固、所謂大明當天、而爝火熄也」 とある。 大明の国号は 頗るこの大明と相肖(あいに)てゐる。 併し この大明は明かに太陽の別名であるから、如何に南方に興つた明朝でも、太陽の雅名を以て直に国号にすることはあるまい。 大明の国号は 実は明の一字であつて、大の字は之を飾るための形容辞に過ぎない。
 かういふ訳で、当て推量で明朝の国号の意義を考定することは 頗る難儀な事業ではあるが、それは必ずしも上可能事ではあるまい。 私は此の頃 之を次のやうに考へて見た。 即ち 南方に起つ明の国号は、実に左に掲ぐる淮南子等に現はれる 「朱明」なる語と 密接な関係がある、否 明の国号こそは この朱明なる語から脱化したものに外ならぬと。
 さて 淮南子の天文訓によると、五行に応ずる五星のことを説明して 「何謂五星」と云ひ、直に続けて、
 南方火也、其帝炎帝、其佐朱明、執衡而治夏、其神為熒惑、其獣朱鳥、其音徴、其日丙丁。
とある。 朱明のことは なほ爾雅の釈天にも 「夏為朱明」とあり、その註に 「気赤而光明」と見え、広雅には之を 「日也」と云ひ、漢書巻二十二礼楽志に載せた郊祀歌には 「朱明盛長、旉与萬物」 と云ひ、註にまた 「臣瓚曰、夏為朱明」 とある。 蓋し 孰(いず)れも即ち南方に當り 「其帝炎帝、其佐朱明、執衡而治夏」 といふ淮南子の義と同一轍に出でた五行説なのであらう。 さうとすれば、前に引いた剪燈新話の註の 「夏明而大也」 といふ夏は 「中華文明之地」の謂ではなくて、寧ろ 春夏秋冬四時の夏だつたといふべきである。 何れにしても、かくして朱明なる語は 支那では誰も知る成語であつた。 南方から起つた朱氏の朝廷が 此の語から着想を得て「明」なる国号を作つたとしても、それには更に上思議はない。
 支那の歴史に 北方から起つて南方を征定した者は無数にあるが、南方から起つて北方を平げた例は、之を先にしては明の太祖・朱元璋と、之を後にしては現今民国の主人公・蒋介石氏とがある位のものである。 大元百年の強圧の羈絆から纔(わずか)に脱した明の太祖は、腥羶(異民族)を滌(除去)して中原を平定しても、なほ朔北の野に残元の余類と対抗してゐたのである。 朱氏が南方に興つたといふ事実を如何に重視したかは、推察すべきではないか。 丐児元璋の本姓が 果たして始めから朱氏であつたかどうかは寧ろ疑問に属すとしても、その當時 天下を風靡した紅巾賊党の一類であつて、後々までも色紅を尚んだことは、劉辰の国初事蹟に
 太祖以火徳王、色尚赤、将士戦襖戦裙壮帽旗幟、皆用紅色。
とあるのでも、議論はない。 清代の秘密結社、明朝の恢復を念とする者共が、秘かに結んで紅会(若しくは同音の洪会)を組織したことも、幾分この精神を汲んだものでないとは云へぬ。 何れにしても、紅色を尚んだ朱氏の国姓は明代には頗る昂揚せられて、当時の民人は 或は之を呼ぶに明朝と称せずして朱朝とさへ云つたのである。 朱朝の関係の密接なことは之を以ても想像せられるではないか。
 併し 私が明朝の国号は恐らく淮南子の南方の佐「朱明」から出たと云ふのは、単にかくの如き想像のみからではない。 それには 別に稊々確実なる証拠があるのである。 それは、明の太祖が南京に即位し、国号を明と称し、年号を洪武と改元した後、四十余年、太祖の子・成祖は 永楽八年 初めて親ら大軍を率ゐて深く漠北に入り、残元の余類を掃討して、東北蒙古の極辺を究めた。 その時、成祖は 臚胊河 即ち Kerulen河に至つて 之を飲馬河と改名し、兀古児札(Ughulja)河に達して之を清塵河と更め、幹難(Onon)河を究めて之に玄冥河と名づけ、更に東に転じて闊濼海子即ち今の呼倫泊(Khulun-nor)に臨んで 之に玄冥池の名を賜はつた。 飲馬河は 恐らく漠北に於いて初めて馬に飲(みず)かふべき大河だつたからで、清塵河とは その辺より漸く草原に入り、砂漠の塵埃を清むべき河であつたが為めにでも、与へられた名であつたらう。 けれども 互いに大に離れた幹難河と闊濼海子とには、何故に各々同様な 玄冥河及び玄冥池の名が与へられたのであらうか。 思ふに これは互にそれぞれ蒙古の最北辺を代表する大河及び大湖と考へられたが為に相違ない。 玄冥とは、云ふまでもなく、南方の朱明に対して北方を代表する神霊の名なのである。
 淮南子天文訓には 前掲の條の続きに、中央の土と西方の金とのことを説き、さて更に続けて、
 北方水也、其帝顓頊、其佐玄冥、執権而治冬、其神為辰星、其獣玄武、其音羽、其日壬癸。
とあり、同じく漢の郊祀歌には 「玄冥陵陰、蟄蟲蓋臧」と見え、その註に 「師古曰、玄冥北方之神也」とある。 その他 呂氏春秋や礼記の月令等に 冬月を謂つて 「其日壬癸、其帝顓頊、其神玄冥、其蟲介、其音羽」 などとあるのも 皆同様な意味である。 北方の各地に玄冥の名を与えた明人が、南方の本土を朱明と考へてゐたことは確かであつて、四十年後に残元の地に玄冥の名を与へた精神は 即ち四十年前に中原の地に明朝の号を案出せしめた精神に外ならないことは、殆ど疑ふべき余地がない。

註(1) 廿二史劄記 巻二十九 「元 建国号、始用文義」。 但し 趙翼(前出。「廿二史劄記」の著者)は唐虞の名や金・大眞等の国号は文義によつたものだとしてゐるが、大眞は誤解で、唐・虞事実等は無根、金は遼と共に水名に出で、決して文義を取つたものではない。 之に反して我が日本や、渤海の前名・震(振)もしくはその余類の建てた国名定安等は 恐らく必ず文義によつたものと思はれる。 而もこれらは支那から云へば外夷のことで、中国の先蹤ではない。 思ふに 元来自ら認めて一天下と為し、外に対立の国家を認めなかつた支那人に取つては、己を他と区別する意味の国号は上要であつて、実際も無かつたのであらう。 されば 初めて国号を宣布したものは、己を前代の秦と区別し、及び対抗の匈奴と分つ必要のあつた漢であること、加藤博士の所説の如くであらう。 けれども 従来有るものは天下に割拠した群雄の国邑名のみであり、秦もまたそれを以て俗称されてゐたのであるから、漢が新たに天下を有つの号を定めても、それはやつぱり従来の国邑の旧名に依つた。 さうして それが先例になつて、支那では大体 必ずさうすることになつてゐたのであるが、蒙古は外狄から起つたが故に、発祥地の名を採ることが困難な事情があつて、茲に始めて文義によることが起つたのであらう。 なほ 詳しくは別にまた論ずる機会があらうかと思ふ。
註(2) 市村博士 「清朝国号考」(東洋協会調査部 学術報告第一冊)、明治42年7月。
     稲葉岩吉氏 「清朝全史」 第18節、大正3年4月。
註(3) 和田清 「明の太祖と紅巾の賊」(東洋学報、第13巻第2号)、大正3年4月。
註(4) 大明太宗文皇帝実録 巻七〇 及び 北征録、参照。

(昭和6年4月25日 稿)




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