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表 紙 |
目 次
第一編 道教の起源 第一章 支那古代の宗教 第二章 支那古代の民間信仰 第三章 支那古代の学術思想 第四章 秦漢時代の宗教及び学術 第二編 道教小史 第一章 道教の開創 第二章 道教の完成 第三章 唐宋以後の道教 第三編 道教の神学 及 教理 第一章 鬼神 第二章 経典の由来 第三章 方術 第四章 延命 第五章 倫理 第六章 戒律 巻頭 はしがき |
本文の一部紹介 |
はしがき
道教は、支那民族の一大宗教なるも、組織的に説明したるもの、未だこれあらず。 本書は、往年 東京帝国文科大学に於ける講義に本づき、更に修正を加へたもので、甚だ簡短なるも、出来るだけ、その内容を充実せしめたつもりである。 たゞ故ありて、道蔵及び道蔵輯要を、資料とすること能はざりしは、遺憾の至りなるも、庶幾(ねがわ)くは 闕漏を補ふを得んか。 又 道教の経典中、最も流布する太上感応編、陰隲文、功過格輯要、覚世真経、抱朴子内篇の五種は、すでに飯島学習院教授(飯島忠夫、1875~1954、東洋史学者)とともに、国訳を試み、道教聖典と名づけ、世界聖典全集中に収めたれば、読者諸君の参照を望む。
大正十二年九月 文学博士 小柳司気太 識
支那国民性と道教
如何にせば 現在の生活を愉快にすることを得べきかは、支那人の夙(つと)に考へた問題である。 故に彼らは、正徳と与に、利用厚生を尚(とうと)び、利を以て義の和なりとなし、長寿、財富、無病息災、最期を善くすることを五福の四に数へ、短命、疾病、憂患、貧窮を六不幸の四に充つ。 福禄寿の三字は、彼らの理想である。 孔孟の書に於て、義利の弁を峻別するに急なるは、この伝統的心病を癒さんがためならんか。 支那太古の事は茫漠として明かならざるも、堯舜禹の禅譲は、各酋長の選挙制度より起りしものにして、夏殷周三代の封建制度より、秦の郡県制度に至り、自来易姓革命数千年、以て今日に及ぶ。 未だその間、真に中央集権の実を挙げ、吾人の所謂国家といふが如き観念の、支那全般に普及したるを見ず。 凡て国家的観念は、他の国家ありて始めて生ずるものである。 然るに 支那は古来より自国に対立するの国家に接触せず、自ら中華と称し、其の声教の及ぶ所を自己の天下とみとむ。 即ち 支那人に取りては、人類社会と国家との区別の必要なし。 加之(これのみならず)に数十百回の騒乱を経来りたる結果は、人をして政治をば係累と認めて、なるべくその圏外に立たんことを欲し、その志高きものは、超然ととして独立し、所謂 逸民を以て自ら任じ、その卑しきものは、只管に生命の保護、財産の安寧に腐心して、快楽を貪(むさぼ)り 一生を過さんとす。 為す所 同じからず、一は独善にして、一は利己なるも、その個人主義なるに於ては同一である。
この享楽主義と独善主義と相合して、以て長生不死を標榜する所の神仙家を生じ、更に古来より伝承したる宗教と民間信仰とが、之に加はり来りて、茲(ここ)に道教を生ずるに至つた。 然れども道教は、その基礎、歴史、及び体系に於て、儒教及び仏教と比較する時は、著しく劣れるものあるを以て、遂に老子を借り来りて、その開創者となし、仏教の経典に模倣して、諸種の道経を為(つく)り、また儒教の世間道徳と、因果応報とを、巧に結びつけて、一般の人民に、安心立命の慰安を与ふることゝなした。 然れば、道教の定義及び内容は、一言に概括し難いが、その目的は、長寿、幸福、富貴を求むるがために道徳を行ひ、鬼神を祭祀する者にして、一種の現世的功利的宗教といふべきものである。
唐宋以後の道教
(唐宋時代~明代 略)
清朝に至りては、道教は、朝廷から格別に優待を蒙らないやうである。 聖祖(第四代康煕帝)の康煕二十二年〔一六八三〕 の上諭(人民に申し渡す文)にも、「一切の僧道、原不可過於優崇」とあり、 宣宗(第八代道光帝)の道光年間〔一八二一~一八五〇〕には 張眞人 即ち 張天師の入覲(皇宮への参内)を停止したること、兪爕の『癸巳存稿・巻十三』 に見ゆ。
以上の叙述によりて、道教の変遷を通覧するに、神仙方技の術は、黄老を付会して、服食と煉養とを主張す。 服食は 金丹の服薬、煉養は元気の修練にして、魏伯陽・葛洪 之(これ)を唱ふ。 然れども 服食を以て、長生不死の目的を達することは、事実上 不可能のことなれば、寇謙之に至りて、符籙〔まじなひ〕 及び 科教〔経文を諷誦すること〕の教を起す。 唯だ 煉養の方面は、易理と付会せられやすく、また多少なりとも、衛生の原理に適して、実効あることなれば、修道隠逸の士にして之を好むもの多し、故に 服食の如く、全然勢力を失はず。 然れども 社会一般の人々には、是れまた其の実行容易ならざれば、道教の勢力を得たるは、この点に非ずして、寧ろ符籙・科教の二法である。 其の後、全真教起るに及び、更に道教本位を以て、儒仏二教の実践的道徳をとりいれ、其の優れたる者は、之を以て社会の風教に資し、其の劣れるものは、迷信を利用し、禁呪(まじない)をすゝめて、愚民を誘惑するのみ。 現在の道士は、多く此の二流で、服食は固より、煉養も実行せず、北京の悟善社、道徳学会などの信者団体は、此の類である。 なほ 馬端臨の『文献通考・巻五十』 、及び 王褘の『青厳叢録』 並に 焦竑の『澹園集・巻二十三』 に見ゆ。
なほ 北京に於ける祠廟の主なるものを列挙せむに、関帝廟、文昌君帝廟、都城隍廟、東嶽廟、先医廟、火神廟、玉皇廟、呂祖廟、碧霞元君廟など、往時はみな雄大壮麗を極めしもののごときも、今日は荒廃に帰し、たゞ白雲観のみは、旧時の面目を保つ。 この観は もと唐代に於て、天長観と称せられ、金の時、太極宮となり、元の太祖は 長春真人・邱処機 蔵蛻〔遷化といふが如し〕の地なるに因みて、長春宮と改む。 真人の弟子・尹志平といふもの、この宮の東に 白雲観を建つ〔『秋澗文集・巻五六』〕。 今の建築は 清朝の乾隆廿一年〔一七六〇〕 の重修である。 観内の別殿には 王霊官の像(仏教寺院の山門における「仁王」の如き、道教施設の守護神。)を設け、その右を儒仙殿となし、その東殿に張三丰(明代初期の著名な道士)の像を設く、次を七真殿となし、次を邱祖殿となし、邱真人の像を設く。 正月十九日を以て その祭日となし、都人士 群集す〔光緒順天府志の京師志による〕。 著者も、かつてその日を以て遊覧し、その雑踏に驚いた。 道士に面して、毎日諷誦の道経を問ふに、『高上玉皇本行集経』 と 『全真全功課経』との二種なれば、之を購ひ帰る。 道蔵全部の、ここに保存せらるゝは、世人の知る所である。
終