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結城素明「芸文家墓所誌 東京美術家墓所誌続編

表紙カバー

目 次

  
  凡例
  緒言
  墓所誌に関する文献


 (以下は、簡略化して示す)
  北海道
  東北地方
  北陸地方
  関東地方
  中部日本
  近畿地方
  中国地方
  四国地方
  九州地方

  索引

  口絵目次(略)




 昭和28 (1953) 年8月
 学風書院。
 B6版、紙装。 本文 462頁。


 敬慕する前代の人について、その墓を訪れ 感謝の思いを伝え、霊の安からんことを願うことがある。 そのことを信条あるいは趣味として、恒常的に行なう人もおり、掃苔家と呼ばれる。 掃苔とは 墓の苔を掃う意であるが、語はその心根を表している。
 画家の結城素明(明治8(1875)~昭和32(1957))も そうした傾向の人で、 画業に打ち込みながら、掃苔を心がけていたようである。
 本書は、文学・芸術関係者 1172名について、その墓所の所在と事績を紹介したものである。

 「内容の一部紹介」としては、右の目次における「叙」と、同じく「関東地方」中の「東京都 台東区 谷中墓地」の記事(の一部)を掲げる。



内容の一部紹介




           

 大槻如電翁は、魂は 天に遊び、魄は 地に帰へりて大事了(おわ)る、遊ぶものは追ふべからず、帰するものは墓となつて表はされると、其著 平安墓所一覧に叙してゐます。 何人も 厭応なしに 墓碑の下に眠らざるを得ません。 伝記は詳細に記述されますが、その人の墓所までは掲げられないのが普通であります。 之を嘆じて 文化(西暦1804~1818)の末頃、老樗軒(中尾樗軒、?~1821)が始めて江戸墓所一覧を著しました。 其後ちは 掃苔家が続いて出で 著書も多数出版されました。 それ等は別項に列挙(省略)しましたが 特殊の性質のものだけに、他の書籍に比して普及を見ないのは、私の常に遺憾とするところでありました。
 私は 昭和六年 「東京美術家墓所考」を、同十一年 「東京美術家墓所誌」を 出版刊行し、今回 「芸文家墓所誌」を編纂するに至りましたのは、先賢に対する追憶と憧憬との宿志因縁であります。
   昭和二十七年秋            結城 素明





 東京都  台東区

   相島 虚吼 (俳人) 台東区 谷中墓地
 大正六年 大阪毎日新聞副主幹となり、昭和五年 閑居 句作に精進したり。 昭和十年四月四日没、享年六十九。 法名・乾坤院宙外虚吼居士。

   秋山 和光 (歌人) 同上 (甲種甲七号四側)
 文政元年 生、もと江戸の与力にして平田鉄胤の門下、その詠歌は 「大八州歌集」 に収めらる。 明治十六年三月十一日没、享年六十六。

   足立 正声 (掃苔家) 同上
 天保十二年九月二十日 生、旧鳥取藩主。 元 男爵。 明治四十年四月十九日没、享年六十七。
 * 足立正声は、明治期 宮内省の諸陵助であった。宮内省刊『陵墓一覧』の巻頭に題言を書している。

   石原 純 (歌人・学) 同上
 明治十四年一月十五日 東京 本郷に生る。 一高を経て、三十九年東京帝国大学理論物理学科卒業。 大正元年 欧州留学、 大正三年 東北帝国大学理学部教授。 大正八年八月 「万有引力論及量子論」により、恩賜賞を受く。 大正十年退任後、岩波書店にあつて科学思想啓蒙運動に専念せり。 アララギ派歌人、後 新短歌を主唱す。 理学博士、従四位。 昭和二十二年一月十九日没、享年六十七。
 * アインシュタイン(1879~1955)の業績を紹介した『アインシュタイン博士・相対性原理』(1923年刊)の著がある。

   伊藤 紅雲 (画) 同上
 東京に生れ、村田丹陵 門下、歴史画を専門とす。 明治聖徳絵画館 御元朊の図、国史絵画館、船上山、朝鮮征伐、徳川家康等の作あり。 文展無審査。 昭和十四年四月二日没、享年六十。

   上田 敏 (詩人) 同上(甲十種五側)
 明治七年十月静岡に生る、柳村と号す。 著書に 耶蘇、十九世紀文芸史、海潮音等あり。 文学博士。 大正五年七月九日没、享年四十三。
* 上田敏は、雑誌『太陽・第六巻第八号(特集「十九世紀」 )』(1923年刊)のために、「文芸史」 を執筆している。

   植松 有経 (歌人) 同上
 天保十年六月十五日 名古屋に生る。 明治十六年 宮内省御歌所に召されて 参候兼録事に任ぜらる。 明治卅九年六月十三日没、享年六十八。

   植松 有園 (歌人) 同上
 明治十五年十二月一日没。

   鵜飼 玉川 (写真) 同上(一種甲三号四側)
 通称 幾之助、文化四年 江戸小石川に生る。 横浜開港の歳 米人フレイマンに就て写真術を学び(一説に中浜万次郎について学ぶともいう)、両国薬研堀に影真堂を開設して写真を撮影し、後 廃業して其写す度の種板全部を谷中に埋めて写真塚を建てたり。 その墓碑と共に 現存せり。 我国の写真業は 翁を以て嚆矢とすと伝う。 明治二十年五月十二日没、享年八十一。 法名 玉川院宝樹清音居士。

   江見 水蔭 (文) 同上
 本名 忠功、明治二年 岡山県に生る。 杉浦重剛の称好塾に学び、硯友社員となり 出世作「女房殺し」を発表。 健筆の吊あり 硯友社第一と称せらる。 本領は清新純情なる詩的短篇であるが、一般には通俗作家の祖といわる。 代表作「新潮来曲」「泥水清水」「炭焼の烟」「兜の星影(歴史小説)」 等有り。 昭和九年十一月三日没、享年六十六。 墓誌 水蔭江見忠功之墓。

   長田 秋濤 (文士) 同上(甲種甲第三号六側)
 明治四年十月五日 長田銈太郎の長男として 静岡市外西草深に生る。 名 忠一。 「祖国」 「怨」 「刃」 「椿姫」等を翻案脚色して上演、本邦に於ける外国劇移椊の先駆をなして 世に知らる。 大正四年十二月廿五日没、享年四十五。 法名 天空院殿秋濤日海居士。

   尾竹 国観 (画) 同上
 兄弟に 竹坡、 越堂あり、兄弟共に画家として名高し。 昭和二十年五月二十三日没、享年六十六。

   金子 薫園 (歌人) 同上
 明治九年 神田に生る。 名 雄太郎、 落合直文門人。 雑誌 「新声」編輯。 白菊会を起し、自由律短歌を創始し、短歌雑誌 「光」を発行す。 著書 「かたわれ月」「白鷺集」「自選歌集」等。 昭和二十六年三月三十日没、享年七十六。

   河原 徳立 (陶芸) 同上
 弘化元年十二月三日、江戸 小石川の極楽水に生る。 幼名を五之助、 明治三年 徳立と改称、江戸絵付の源流をなす。 大正三年八月廿八日没、享年七十一。

   小島 憲之 (学) 同上(乙種第三号八側)
 安政二年 下野雀宮に生る。 明治六年 米国留学、同十二年 コロネル大学建築科卒。 東大教授、一高教授。 専ら図学を教授す。 大正七年八月十五日没、享年六十四。

   佐々木 弘綱 (国学) 同上
 文政十一年七月十六日 生。 鈴山と号し、家の名を竹柏園という。 十七歳 既に一千首の詠歌があり、国学歌道研究の志が深く、後嗣 信綱また斯学の権威であり、次男 印東昌綱 また歌と書に秀ず。 明治廿四年六月廿五日没、享年六十四。

   佐竹 永陵 (画) 同上
 本姓 黒田、佐竹永湖に師事し、其 養嗣子となる。 日本美術協会委員。 昭和十二年一月八日没。

   佐藤 三吉 (医) 同上
 安政四年 岐阜県に生る。 明治十五年 東大医学部卒業。 十六年 ドイツ留学。 帰朝後は大学教授、二十四年 医学博士。 二十六年 大学病院院長。 四十四年 医科大学長。 大正十年 退官、名誉教授。 本邦外科医学会の権威であつた。 貴族院議員、学士院会員。 昭和二十年九月二十八日没、享年八十九。 墓誌 佐藤三吉墓。

   沢田 正二郎 (俳優) 同上(甲種甲第三号一側)
 明治二十五生。 早稲田大学文科卒業、 坪内博士主宰の文芸協会 後ち島村抱月の芸術座に移り、遂に自ら新国劇を組織し、万難とたゝかいて 新劇運動史上特筆すべき功績を残せり。 新橋演舞場に於て、開演中 病にたおる。 沢正の愛称にて 全国的に人気沸騰の最中であり、新劇の基礎成らんとする際だつたので 特に痛惜され、又 此死によつて新劇運動が三十年おくると称せらる。 これは その天分にもよるが、舞台を見物席に乗り出させて 俳優をして観客の団欒にタッチせしめ、観客も俳優も一つの殿堂にヒレ伏して 偉大な祈を捧げることを理想として、大衆の中に入りし結果なり。 昭和四年三月四日没、享年三十八。 墓誌 沢田正二郎之墓。

   重野 安繹 (修史家) 同上(甲種乙第六号五側)
 文政十年十月 薩摩に生る。 夙に昌平黌に学び、維新の後、修史局、帝国大学、元老院等に職を奉ず。 著書 「国史眼」、 「大日本維新史」、 「成斎文集」等あり。 明治四十三年十二月六日没、享年八十四。

   條野 採菊 (小説) 同上(甲種乙第七号甲二側)
 通称 伝平、山々亭有人と号す。 桜痴と共に東京日日新聞を発刊、又 やまと新聞を創刊す。 小説、脚本にも吊あり。 残花恨葉桜、初東風 等の小説有り。 明治三十五年一月二十四日没、享年七十三。 法名 清高院晋誉去来採菊居士。

   関 雪江 (書) 同上(甲種甲第十号一側)
 吊 思敬、字 鉄卿、通称 忠蔵、土浦藩に仕え 詩もよくせり。 明治十年十月二十四日没、享年五十一。

   曾禰 達蔵 (建) 同上(甲種第二号五側四)
 嘉永五年 江戸唐津藩邸に生る。 明治十二年 工部大学造家学科卒。 海軍技師、工学博士。 三菱建築技師。 曾禰中條建築事務所経営。 設計 海上ビル、郵船ビル、慶応大学等。 昭和十二年十二月六日没、享年八十六。

   田口 卯吉 (学) 同上(甲種甲第七号六側)
 徳川の世臣、名は鉉、字は子玉、鼎軒と号す。 自由貿易の説を唱え 経済雑誌社を創立す。 衆議院議員となる。 法学博士、贈従四位。 識見高く 学力 之に応じ、先覚者を以て称せらる。著書 「日本経済論」 等二十余種有り。 明治三十八年四月十三日没、享年五十一。 墓銘 鼎軒田口卯吉墓。

   武井 守正 (学) 同上(乙十号九側十五番)
 天保十三年 姫路に生る。 明治十七年 万国森林博覧会事務長官として渡英。 枢密顧問官、初期文展審査員。 美術工芸に造詣深く 鑑賞眼高きを称せらる。 大正十五年十二月四日没、享年八十五。

   谷 活東 (文) 同上
 明治十二年 東京本所に生る。 初め丈六 又 夢蝶とも号す。 尾崎紅葉に教えらる。 明治卅九年一月七日没、享年三十。 法名 春星池霊活東居士。

   中島 歌子 (歌人) 同上(甲種乙第三号九側)
 天保十二年 江戸日本橋北鞘町に生る。 中島又左衛門の次女 幼名とせ、 加藤千浪に師事し、和歌に巧みに 且 書をよくせり。 門下多く 樋口一葉もその一人なり。 明治卅六年一月卅日没、享年六十三。

   西田 春耕 (画) 同上
 弘化二年生。 名 峻、字 子徳、 俊蔵と称す。 江戸の人。 明治四十三年九月十日没。

   丹羽 閑斎 (画) 同上
 名は氏常、通称 左一郎、尾張の世臣。 画を森高雅に学ぶ、 子に丹羽花南あり。 明治十三年一月廿日没、享年七十一。

   萩岡 松韻 (琴曲) 同上(甲種乙十左五側)
 元治元年二月十日 江戸赤坂に生る。 本名 伊之助、松柯と号し、三代目山勢松韻に師事し、明治四十三年 四代目松韻を襲名。 東京盲学校教諭。 昭和十一年一月廿七日没、享年七十三。

   馬場 孤蝶 (学) 同上(甲種乙第十号左五側)
 本名 勝弥、明治二年 辰猪の弟として高知市に生る。 明治学院卒業、慶大教授となる。 文学評論、西詩の紹介は 史上重要な意味を持つ。 大正四年 衆議院議員に立候補して 上幸落選せしも、当時の文壇、評論界の吊士八十名が執筆して 「現代文集」を上梓し、其資に充てたのは 偉観なりき。 主なる著述 「葉巻のけむり」「戦争と平和」「野客漫言」等。 昭和十五年六月二十二日没、享年七十二。 同塋域に兄・馬場辰猪の墓あり。 明治二十一年十一月三日 米国に客死す。 享年三十九。

   平山 成信 (学) 同上(乙種九号一ノ側)
 幕臣竹村七左衛門の末子として 安政元年 江戸に生れ 平山図書守有斎の養子となる。 明治六年 維紊万国博覧会に事務官として出張後、海外に開催の博覧会に関係せざるなし。 枢密院顧問官、赤十字社社長、初期文展審査官等。 昭和四年九月二十五日没、享年七十六。

   広津 柳浪 (小説) 同上(甲種乙第八号十側)
 本名 直人、和郎の父である。 文久元年 久留米藩士の次男として長崎に於て生る。 東大医学部予備門 中退、明治二十年 処女作「女子参政権蜃中楼」を発表 作家生活に入り 硯友社同人となり、「残菊」「五枚絵姿」「変目伝」「今戸心中」「畜生腹」を発表して 文吊頂点に達した。 後 文壇を離れ 孤独的生活を送つた。 右の外 代表作「ふたおもて」「黒蜥蜴」「河内屋」「骨ぬすみ」「目黒巷談」等。 門下に 永井荷風、中村吉蔵等あり。 昭和三年十月十五日没、享年六十八。墓銘 柳浪広津直人之墓。

   福地 源一郎  同上 (一種甲第一号十二側)
 桜痴と号す。 幕府通訳官として欧州諸国を巡り、後 また伊藤博文に従つて米国に 又一等書記官として欧州に随行す。 後 東京日々新聞社々長、衆議院議員となる。 千葉勝五郎に勧めて歌舞伎座を創立し、自らその座主となり、梨園改善につとめ、又 文才あり、自ら脚本を作りて 九代目団十郎に演ぜしめたるもの少なからず。 就中 「春日局」「春雨傘」等 傑作と称せらる。著書には、「幕府衰亡論」「幕末政治家」「山縣大弐」等あり。 明治三十九年一月四日没、享年六十六。法名 温良院徳誉芳香桜痴居士。

   穂積 陳重 (学) 同上 (神道)
 安政二年七月 伊予宇和島に生る。 明治九年 法学修行の為 英独に留学。 十四年帰朝。 十五年 東京大学法学部長となり、二十一年 法学博士。 二十三年 貴族院議員勅選。 二十六年 法典調査主査委員被仰付 法学部長となる。 三十二年三十七年の二回 欧州米国に差遣。 四十五年 大学退官、大正四年男爵、四十五年枢密顧問官、十四年枢密院副議長より議長。 大正十五年四月八日没、享年七十二。 墓誌 法学博士男爵穂積陳重墓。 法学に関する書、法律進化論等名著頗る多し。

   穂積 重遠 (学) 同上
 明治十六年四月十一日 東京深川に生る。 先代陳重の長男。 民法ことに親族法、相続法の権威者なり。 法学博士。 昭和廿六年七月廿九日没、享年七十。

   間島 冬道 (歌人) 同上(甲種甲九ノ二一)
 文政十年十月八日生、 家 世々尾張名古屋藩士 通称万次郎、 木曽奉行、勘定奉行を歴任。 香川景樹及その高足 熊谷直好に師事。 明治廿三年九月卅日没、享年六十四。

   松平 四郎 (画) 同上
 明治卅四年十二月十五日生、 松平康民第四子。 東京美術学校出身。 昭和十二年十月八日 支那事変戦没。 享年三十七。

   目賀田 芥庵 (画) 同上
 名 守道、字 士蝶、通称 帯次郎、公翁と号す。 谷文晁の門人。 明治十三年四月廿七日没、享年六十八。

   本居 内遠 (歌人) 同上
 寛政四年二月二十三日 尾張名古屋に生る。 本姓は浜田氏 初め鎌次郎、長じて久次郎、のち弥四郎という。 実名は孝国 後に高国と改む。 木綿垣また榛園と号す。 紀州侯に仕え、紀伊国続風土記を編纂。安政二年十月四日没、享年六十四。

   依田 学海 (儒) 同上(一種乙第三号)
 天保四年十一月 佐倉藩士貞剛の二子として生る。 諱 朝宗、字 百川。 藤森天山に師事、長じて佐倉藩の要職にありて国事に奔走。 維新後は文部書記官となり 当時の劇界改革運動に多大の貢献をなす。 又 自ら脚本を書き 彼の改良論の具体的標本を示した。 脚本に「吉野拾遺名歌誉」「文覚上人勧進帳」等。明治四十二年十一月二十七日没、享年七十七。墓誌 学海居士埋骨処。側面に 杉山令吉撰文並書の碑文を刻す。


 



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