らんだむ書籍館 |
表紙 |
目 次 富岡鉄斎伝新考 小高根 太郎 一 前置 二 家系 三 名と号 四 師承 五 幕末志士との交遊 六 蓮月尼との関係 七 著述 八 結婚生活 九 西園寺公との関係 十 神道献白書 十一 天子知吊 十二 クルト・グラーゼルと羅振玉 十三 栄光の晩年 十四 画論 富岡鉄斎遺稿 先哲遺事 題画小稿 奉天の東陵と北陵 竹島 卓一 図 版
1 鉄斎筆木米隠棲図 2 鉄斎筆碧桃寿鳥図 3 鉄斎筆山水図 4 鉄斎筆化城喩品図 5~ 8 清太祖福陵(奉天東陵) 9~12 清太宗昭陵(奉天北陵) 鉄斎作品の図版としては、上記4点 のほか、小高根太郎「富岡鉄斎伝新考」 の文中に、更に4点が掲載されている。 |
内容の一部紹介 |
五 幕末志士との交遊
青年時代の鉄斎は、なかなか激情的な性格であつたらしく、梅田雲浜、頼三樹三郎 等 幕末志士との交遊があつたことは 人の知るところである。 どの程度の交際であつたか、それは 鉄斎晩年の記録に「無用の用」と云ふのがあつて、その中に誰かの描いた軍鶏籠の構造図を貼りこんであつて、その説明に次の如く記してある。
「安政五年九月七日、梅田雲浜(源次郎)伏見に於て捕縛、翌日頼三樹宅詩会(本屋町姉小路角小亭、鳩居堂借屋)、今日諸人集会して此の災難を談ぜるに 其の翌暁 また縛に就く。 縛せらるる者 凡(およ)そ二十人余。 都下騒動、大に危惧を抱く。 余輩諸生また詩会に赴かず、閉口して 竊(ひそか)に嘆息。 日を渉(わた)る也。 今日 鶏籠図を観て往時を思ひ、指を屈すれば 六十余年に垂(なんな)んとす。 又 当時の人、一人も存する者なし。」(原漢文)
また「ひらふ玉藻」と題する記録の中には 軍鶏籠を以て江戸に護送される志士達の有様を描き、
「安政六年十二月五日、網乗物五挺、其略図。 同日雪降。 軍鶏籠 六挺。 浮田可為、息 可成。 池内大学。 近藤茂左衛門等。」と記してゐる。 浮田可為と云ふのは 即ち一恵(浮田一恵*)のことである。 恐らく鉄斎は 一恵が護送される悲壮な光景を目撃したのであらう。 それを晩年追想して 此の記録の中に描いてゐるわけなのである。 *1795~1859、宇喜田一恵とも表記される。戦国大名・宇喜田秀家の子孫で、大和絵(土佐派)の画家であるが、勤皇運動に傾注した。
鉄斎は 国学を野之口(大國)隆正に受け、漢学を厳垣月洲に学んだが、次いで陽明学を久我家の諸太夫・春日潜庵について受けた。 いづれも勤王の士であるが、鉄斎は なかんづく潜庵の学識に最も傾倒したらしい。
「その後、王陽明の学を信じ、久我家の諸大夫・春日讃岐守━━この讃岐守といふは、名を襄、号は潜庵といひ、陽明学では当時第一流の人物で、薩州の西郷吉之助、肥州の島団右衛門(義勇)を始め、諸藩有為の人物が多く其の門に入り、また梁川星巌、頼三樹などとも 常に往来してゐた。 後に幕府の嫌疑を受け、安政戊午の歳 召捕となり、鶏籠で江戸城に護送されたが、なかなかの豪傑であつた。私は此の潜庵について陽明学を攻め、夫れより諸名士と交際することとなり、また儒者梅田源次郎(前出の梅田雲浜)の家にも行て、講議を聞いた。 其外名家といへば片つぱしから訪問したが、その中でも最も潜庵の学識と貫名海屋の書画に名して、内々画を稽古した。」と鉄斎は 後年、往時を追想して語つてゐる。 鉄斎はまた 西郷隆盛とも相識つてゐたらしく、後年の詩文集に題画小稿(陳腐間人稿)と云ふのがあつて、その中に見える西郷隆盛角觝図なる一文に
「薩摩の西郷隆盛、南洲と号す。 通称 吉之助。 人となり躯幹偉大、膂力(リョリョク、筋肉の力)人に絶す。 明治中興の元勲たり。 常に角觝(相撲)を好む。 京に在る日、暇あれば輙(すなわ)ち、堀川街博多山の相撲場に至り、力士陣幕輩と角觝をなす。 人 その勇猛を称す。 曽て余に語つて曰く、古への勇士、軍に臨んで果敢なるは 平素身体を磨励するの功、多きに居る。 吾(われ) 孟施舎(中国・戦国時代の勇士)の人となりを慕ふ。 故に之に倣ふのみと。 また以て其の豪傑の気象を察するに足る。 往事を追想するの余、この角觝図を模写して、以て其の由を識すと云ふ。」 (原漢文)西郷は安政五年、京都江戸間を往復して、しきりに活躍してゐたが、その後 国に在り、元治元年に入つて再び上京、王事に奔走するに到つてゐる。 鉄斎が隆盛と知るに到つたのは、安政中のことか、あるひは元治以後のことかは明でないが、後年 鉄斎が鹿児島県人に多くの友人知己を有するに到つたのは 恐らく隆盛との関係を通じてであつたのだらうと思はれる。
維新前後の鉄斎の交友には 板倉槐堂、江馬天江、山中信天翁、岡本黄石 等の志士的学者が多いのである。
終