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表 紙 |
目 次
論 説 広開土王碑発見の由来と碑石の現状 …………… 池内 宏 垂加神道の本質 ……………………………………………… 小林 健三 一一拘幽操と神籬磐境極秘伝の考察を中心とせる アル・アッワーズ考 ………………………………………… 小林 元 |
本文の一部紹介 |
広開土王碑発見の由来と碑石の現状
池内 宏
一
鴨緑江の中流、満洲国安東省輯安県治の存する通溝の地は、丸都、一に国内城とも呼ばれた高句麗の古都の遺址であるが、ここに有名なる広開土王碑の存することは、周知の事実である。
広開土王は 高句麗が丸都を以て首都とした時代の後の王である。 巨碑の主人公としては、普通に好太王の名で知られてゐるが、これは王の諡号の一部であつて、完全なる諡号は 「国岡上広開土境平安好太王」である。 在位の間 永楽の年号を用ゐたので、また永楽太王ともいふ。 王の薨じた翌々年なる甲寅の年(東晉安帝義煕十年、紀元四一四年)、次の長寿王は大行王(紛らわしいが、「亡き王」という意味の尊称・普通吊詞で、好太王のこと)を山陵に葬つた。 さうして そこに碑を竪て、王の勲績を銘記して後世に伝へようとした。 即ち 現に通溝(輯安県治)の東方、東崗の平地に立つてゐる巨碑である。
二
輯安県の通溝には広開土王の巨碑の外、太王陵・将軍塚等、高句麗時代の幾多の顕著なる遺蹟が存在する。 しかも其の事実は、濱江省寗安県の東京城に於ける渤海国の古都址の如く、案外にも 近代に至るまで世人の注意を惹かなかつた。<以下略>
三
通溝平野に於ける巨碑の存在は、夙(はや)く 明朝一代を通じて朝鮮人の間に知られてゐた。 <中略> しかし 明代の朝鮮人が碑の存在を知つてゐたとしても、それは単に知つてゐたといふに止まる。 即ち 碑面の文字などには全く無関心であつて、漫然 之を金代の帝王の遺(のこ)したものであらうと考へてゐたのである。 清朝時代に於いては、康煕・乾隆以後、考証学の蔚興に伴ひ、金石学は隆昌を極め、又た其の学風は半島にも影響した。 然るに 此の碑が朝鮮の金在魯・金正喜や、清朝の劉喜海等の如き半島関係の金石文の収集家乃至研究者の探訪に漏れたのは、主として封禁制の然らしめたところであらう。 <中略>
広開土王碑の拓本の始めて我が国に齎されたのは、明治十七年(光緒十年)である。 菅政友氏の「高麗好太王碑銘考」に 「此ハ明治十七年、某氏 清国ニ赴ケル途ノ序ニ、其地ニ至リ、搨本(拓本)ヲ得テ帰リシナリトゾ」といひ、那珂通世(なか・みちよ、1851~1908、東洋史学者)博士の「高句麗古碑考」にいふところも同様である。 又た那珂博士は 日本人某氏の之を将来した由来を明かにすべく 横井忠直氏の「高句麗碑出土記」の全文を引かれた。 横井氏の文は 明治二十二年(光緒十五年)六月 亜細亜協会発行会余録第五集に掲げられたものであるが、其の中に
碑在清国盛京省懐京省懐仁県、其地曰洞溝、在鴨緑江之北、‥‥‥拠 土人云、此碑旧埋没土中、三百余年前、始漸々顕出、前年有人、由天津雇工人四吊来此、掘出洗刷、費二年之工、稊至可読、然久為渓流所激、缺搊処甚多、初掘至四尺許、閲其文、始知其為高句麗碑、於是四面搭架、令工氈搨、然碑面凹凸上平、上無用大幅一時施工、上得已用尺余之紙、次第搨取、故工費多而成功少、至今僅得二幅云、日本人某適遊此地、因求得其一齎還。<下略>とある。 搨本の将来者たる日本人某は、三宅米吉博士の「高麗古碑考」に依ると、当時 陸軍砲兵大尉であつた酒匂某である。 後年(大正四年) 那珂通世遺書(那珂通世の論文集)の編せらるゝに及び、本書に収められた外交繹史の一章(第三十五章)としての「高句麗古碑考」にも、史学雑誌所載の旧稿には「皇国人某氏」とあつたのを、「陸軍砲兵大尉酒匂某」と改めてあり、又た 其の酒匂氏の名が景明であることは、去る大正七年 陸軍中将・押上森蔵氏が日本歴史地理学会の講演会の席上で話されたところである。 碑石の発見に関する文献として 我が学会に於いて重んぜられたのみならず、支那に於いても相当注意を惹いた横井氏の高句麗碑出土記は、拓本の将来者・酒匂景明氏の見聞談を記述したものに他ならぬ。
六
碑の石材は、京都帝国大学教授・中村新太郎氏に依ると、角礫凝灰岩である。 往々 花崗岩とせられてゐるのは、勿論誤りである。 表面 頗る麤(ソ、きめがあらい)、風化の甚だしい部分には、小豆粒大の小砂利が顕はれてゐる。 大正十年秋 余等が通溝の遺跡を調査した時、同行の小場恒吉氏が太王陵の石堆の中から同質の石片を発見せられたのに依つて推すと、此の巨材は 通溝平野の付近の山から採り出されたものらしい。 碑は今ま 亜鉛葺六角形の亭を以て蔽はれ、風餐雨虐を免れしめてある。 これは 民国十四・五年の交、時の輯安県長・劉天成氏が、其の趣旨を以て広く資を募り、十六年夏・冬の間に構築したものである。 しかも その亭は梯子に依つて自由に昇降し得るやうにできてゐる 二階建であつて、心なき一般観覧者の登覧、及び数十年来此の碑の拓出を専業とするものゝ足場に充てられ、遺憾ながら碑石保護の目的にかなつてゐない。 早く然るべき方法を講じなければ、此の曠古の遺物は 日増しに搊傷の程度を加へるであらう。 且つ 拓碑を業とするものは、墨客騒人を喜ばせるが為めに、漆喰を以て字画の欠損を補ひ、或は全く上分明なる文字を補填することさへ敢てしてゐる。 これも学術上の立場から、既に幾度か識者を悲しましめたところである。 朝鮮の龍岡に於ける栝蝉県碑の如く、完全な模型を作り、原碑の拓出を禁ずるのも、之を永遠に保護する一法であらう。(昭和十二年十月十二日稿)
終
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