らんだむ書籍館
芸苑叢書
清宮秀堅
「雲烟略傳」
表 紙
目 次
解題
雲烟所見略傳序 (川田甕江)
小引 (縑浦漁者)
上 巻
池野霞樵
附年譜
野呂介石
釧雲泉
長町竹石
田能村竹田
浦上春琹
(玉堂の子)
中林竹洞
岡田半江
下 巻
渡邊華山
附年譜
椿椿山
高久靄厓
英君受
谷寫山
立原杏所
圓山仲選
(応挙)
松村月溪
大正8 (1919) 年 2月
編輯者:相見 繁一
発行所:図画刊行会
発行所:吉川弘文館
活版印刷、線装
縦:18.8cm、横:12.3cm。
清宮秀堅
(1809~1879)に関しては、既に 先行の著書
「新撰年表」
を掲げ、その人物を紹介した。
本書
「雲烟略傳」
は、先著の時から60年余りを経て刊行された、晩年の著作であるが、なお旺盛な学芸への意欲を見ることができる。
「一部紹介」
としては、右目次中の
① 解題
② 岡田半江
の2部分を掲げる。
①の「解題」は、本「芸苑叢書」の編輯者たる相見繁一の執筆になると思われ、著者を紹介すること 我が「新撰年表」におけるよりも、周到・適切なところがある。
②の「岡田半江」は、本文中 最も簡略な記述である。 原漢文を、読み下しにより掲げる。
本文の一部紹介
解題
清宮秀堅、通称 利右衛門、字は頴栗、棠陰と号す。 別に 縑浦漁者の号あり。 下総 香取郡佐原の人。 父 尚之、滄洲と号し、詩画を善くす。 秀堅 九歳 父を喪ひ、父の遺書を読みて刻苦精励し、宮本茶村に就いて疑義を質す。 二十七歳 里正
(村役人)
と為
(な)
り、邑主 津田氏 特に帯刀を許し、後ち士席に列す。 堀田侯の佐原を領せらるゝに及び、秀堅の学業徳望を嘉賞して 優遇頗る厚し。 秀堅 平素心を地理に用ゐ、明治五・六年の交、県の嘱に依り、匣瑳、海上、香取 三郡小誌を撰す。 晩に権中講義に補せられ、三條余論等の著あり。 老来 矍鑠
(カクシャク)
強健にして、常に村政の釐革
(リカク、改革)
を図り、治績 大に揚る。 官 屡次
(ルジ、しばしば)
之を賞すと云ふ。 明治十二年十月二十日 没す、年 七十一。 秀堅 志は治政・経済にありと雖も、公余 文雅に親しみ、著述に努む。 著はす処、古学小伝、新撰年表、下総全図、近世詩鈔、外史劄記、雲烟略傳、北総詩話、三家文鈔、香取新詩 等あり。 雲烟略傳 起稿の由来は その小引に記せる処に依りて明かなり。 同文の末に 安政六年とあれば、此書は秀堅五十歳頃の撰述に係るものの如し。 此書の草稿本と思はるゝものに、南宗名家小伝と題する写本 一冊あり。 此書所載の外に 梅逸、海仙、隆古、青厓、韓大年、菱湖等の六家を記したれども、未定の処ありて、刊本には除きしなるべし。 旧刊本は 明治七年の活版に成り、誤椊・脱字少なからず、依て 他書より引用せる詩文は、今 概ね各原本と対比して、校正を加へたり。 又、本書中引用する処の「臥遊書」、瀬芳閣書画銘心続録等は 吾人未だその書を見ず。 幸に江湖博識の君子にして 之を知らるゝあらば、本叢書に投じて 芸苑の公益に資せられんことを 切に冀
(ねが)
ふもの也。
○ 岡田半江
岡田 粛、字は 子羽、号は 半江、又 寒山、独松楼 等の号 有り。 宇左衛門と称す。 洞津藩
(単に「津藩」と言うに同じ)
の士人なり。 父 名は國、字は子彦、米山人と号し、彦兵衛と称す。 性 和易にして、物を与えて迭
(すぎ)
ず、書画も 甚だしく工
(たくみ)
ならず。 然るに 卒然たる天趣、肺肝 従
(よ)
り出づるを観るべし。 玉堂
(浦上玉堂)
と 友として善
(よ)
し。 風趣、亦た相 肖
(に)
たり。 五言詩を好み、淡逸 誦すべし。 子羽 人と為り 孝順、幼にして父に従い画を学び、少
(わか)
くして南宗を崇
(とうと)
びて山水を善くす。 又 書及び詩文に 名 有り。 年四十三にて致仕、大阪に住み、小竹
(篠崎小竹)
、竹田
(田能村竹田)
等と親善、来往せり。 靄厓
(高久靄厓)
嘗て攝
(攝津、すなわち大阪)
に客たるの日、其の技を称し 以て海内に易く得ざるの友と為したり。 靄厓の山水に重名を負ふこと 顧若周
(中国・清代の画家)
の如し。 故に許可すること 絶少にして、推重すること此に至る。 則ち 半江の造詣する所を以て観るべきなり。 弘化二年乙巳
(1845年)
四月十日没す。 年五十。 子の名は 實、字は 寸龍、号は 九茹。 亦、画を善くす。
〇 小竹散人の「半江を哭す」詩に曰く、「仕官中年罷、丹青晩歳専、風流能肖父、解脱恰如仙、家已児孫保、名方遠近伝、訃音吾涙落、竹馬五十年。」 と。
終
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