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表 紙 |
目 次
小 引 白鳥博士小伝 第一部 白鳥博士記念展観書 第二部 和漢書 一、古写本 二、古刊本 三、雑 第三部 洋 書 一、日本 二、仏印 三、泰国 四、南太平洋 a. 総誌 b. 東印度諸島 c. フィリッピン 五、南方諸語辞典 第四部 西蔵書 及 梵書 本文中図版(写真) 8点 |
口絵写真 上:リース講師の講義ノート 下:書斎裡の博士(昭和十六年末) |
本文の一部紹介 |
小 引
昭和十七年三月三十日、東洋文庫理事研究部長 文学博士 白鳥庫吉氏 薨去せらる。 茲(ここ)に敬んで哀悼の意を表する。 我が国 東洋史学 今日の盛況が、職としての博士の誘掖推進の功に由ることは、敢へて贅言を要せざる所、今こゝに博士の百日忌を迎ふるに當り、博士の著書、監修書籍 及び手稿本の一部を展じて、その偉業の一端を追懐すると共に、博士が惨憺経営の迹を偲んで、我等後進が発奮の料に資したいと思ふ。 博士の論著を読み、博士の講筵に侍して、その透徹せる議論、卓抜なる識見に驚倒する我等は、博士が論証の依拠として手写せられた書抜が、殆ど一室を埋めるに垂(なんな)んとしてゐるのを見て、更に一層の感嘆と感激とを禁じ得ない。 博士の宏績は 決して一朝にして成つたものではないのである。 但し 今その盡くを陳列することの出来ぬのを 遺憾とする。 博士の論著は 諸雑誌に発表せられたものが大部分を占め、その詳細な目録は追つて発表せらるべく、全集も逐次出刊せられる予定であるから、今は著作の全部に及ばず、単行本のみを出し、併せて近刊の「西域史研究」に屡々(しばしば)引用せられた欧文書籍六十点を陳列し、これと共に文庫所蔵の稀覯書若干、近獲の善本若干を択んで、江湖に紹介する。
思ふに 近十年間に於いて、当文庫は 故監事・小田切万寿之助氏旧蔵の「小田切文庫」 、故理事長・井上準之助氏旧蔵の「井上文庫」 、及び 河口慧海師旧蔵の「河口文庫」等の蒐書群の寄贈をうけ、頓に内容を豊富にした。 これは 学界の為に同慶に堪えないところである。 こゝに これ等文庫中より各々数四を出して附陳し、旧蔵諸家の芳情を世に伝へようと思ふ。
時 恰(あたか)も大東亜戦争に際し、皇威南海を光被しつゝあるのに因み、陳列洋書は南方関係のものを主としたことを 附言しておく。
白鳥理事小伝
白鳥庫吉博士は、千葉県茂原町字長谷の人。 慶応元年二月四日に生る。 千葉中学校、大学予備門(後の第一高等学校)を経て、明治二十三年七月 帝国大学文科大学史学科を卒業、同年八月 直に学習院教授に任じ、明治三十七年東京帝国大学文科大学教授を兼任、明治四十四年 大学教授専任・学習院教授兼任と成り、爾来 大正十四年三月 定年制により 退職せられるまで、前後二十二年、大学の教壇に在つて後進の育成に努められると共に、幾多の雄篇大作を発表して学会を指導せられた。 この間、明治三十二年 伊太利・羅馬市に開催せられた万国東洋学会に出席の穂積・坪井両博士に托して、「突厥闕特勤碑銘考」、「匈奴及び東胡民族考」を 独逸文を以て発表し、翌三十三年 文学博士の学位を授けられ、三十四年より三十六年迄、欧州諸国に留学。 適々(たまたま) 独逸漢堡市に開催せられた第十三回万国東洋学会に出席し、「烏孫考」(独逸文)を発表、声吊一時に轟く。 帰朝後、東洋協会に学術調査部を創設して、「東洋学報」を刊行し、南満鉄道株式会社に学術調査部を設けて、満鮮の地理歴史研究を指導し、「満洲歴史地理」「朝鮮歴史地理」及び「文禄慶長の役」等を出し、後 その業を大学に移して「満鮮地理歴史研究報告」を董刊(刊行を総括)、今日に至つた。
大正六年五、六月の交、前の中華民国総統府顧問 ジョージ・アーネスト・モリスン氏(Dr.G.E.Morrison,1862~1920)の「亜細亜文庫」の発售(売却処分)せられるや、博士は井上準之助・上田萬年氏等と共に 男爵岩崎久彌氏にその購入の必要を力説し、遂にこれを我が国に将来せしめ、後大正十三年十一月、岩崎男がモリスン蒐集の文庫を中心として財団法人東洋文庫を創設するや、招かれてその経営指導のことに當り、或は理事として、或は理事長として、或は研究部長として、これを董督し その溘没(急逝)に及んだ。 文庫の今日あるは、博士の力と徳とに負ふ所 多大である。 大正十一年、仏国亜細亜学会創立一百年祭、シャンポリオン埃及文字解読百年記念祭の行はるゝに際し、我が学士院を代表して出席、「匈奴起源考」を 仏文を以て発表し、仏国文化勲章(Commandeur Etoile Noire)を贈られ、大正三年より同十年迄、東宮御学問所御用掛を仰せ付けられ、当時儲位(皇太子)にゐませし、今上陛下(昭和天皇)に歴史を御進講し奉つた。
博士は 独創的な研究を相次いで発表し、学界にその進むべき方向を指示せられる一方に於いて、力を傾けて東洋学に関する書物を蒐集せられた。 これは比較的世に知られぬ一面であるが、博士が我が国に文献を将来せられた功績は没することが出来ない。 惜しくも佚亡に帰した「白山黒水文庫」の如き、当時の朝鮮総督 寺内正毅伯爵を説得して、李朝実録を東京帝国大学に齎(もたら)し帰れる如き、大正十一年渡欧の際、東洋文庫の為に巨多の文籍を購入せられた如き、明治三十六年渡欧の時、成田図書館の為に欧文書の蒐集に力められた如き、東洋協会の為に多数のロシヤ文東洋学書を買求められた如き(現 拓殖大学図書館所蔵)、実に枚挙に遑(いとま)がないのである。
主要なる論著「西域史研究」以下数十篇、その研究は日本、支那の上代史を始め、蒙古、満洲、朝鮮、西域、南海の諸地方に及び、従来この方面の研究を独占せる欧西人の諸業績を縦横に批判是正して、我が国の東洋学を世界的の水準に達せしめた。 亜細亜の歴史が南方の文化民族と北方の尚武民族との対立抗争によつて展開し、南方文化民族が強盛なる時は、北方民族の勢力は東西に伸び、北方の尚武民族が優勢の時には、南方の文化圏は蹂躙されるといふのが、博士が東洋史の大勢に与へられた結論である。
昭和十五年十一月、軽微なる脳溢血によつて倒れられ、昨十六年十一月以来、湘南茅ヶ崎の別墅(別荘)に転地療養中、今春三月末に風邪に罹られ、次いで急性肺炎を併発して 三月三十日 遂に薨去せられた。 享年七十八歳。
博士は 帝国学士院会員、学習院名誉教授、東京帝国大学名誉教授たるの他、幾多の学会の会長、理事、評議員等を勤められ、正三位勲二等である。 薨去後 多年学界に盡せる勲功を嘉(よみ)せられて 旭日重光章加授の御沙汰を拝した。
終
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