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森谷 克己 「東洋小文化史」






目 次

 序

 緒論
 第一篇 支那史の始原代
  第一章 支人属の棲息より先史時代村落の形成まで
  第二章 最初の階級分化と殷人による初生国家樹立

 第二篇 「未熟なる」封建時代 --- 周王国の
     成立より戦国時代まで
  第一章 周王国の成立
  第二章 農、工および商の社会的分業の成立
  第三章 周王国の未熟なる早期封建主義
  第四章 未熟なる早期封建文化の発達
              --- 春秋・戦国時代
  第五章 諸子百家の叢生 --- 東洋思想の一淵源

 第三篇 古代支那における専制主義的一大帝国
     の形成と官僚主義的封建制の成立
  第一章 秦帝国の形成と官僚主義的中央集権化
      の試図
  第二章 漢室支配の樹立と官僚主義的封建制の成立
  第三章 農、工および商の社会的分業
      --- その発達および抑制諸事情
  第四章 国家の政教上における儒教的支配の成立
  第五章 王莽の「新」帝国と「国家社会主義」
      的変革の試図
  第六章 朝鮮方面の政治的開拓の諸段階
      --- 漢の四郡設置まで

 図版目次





 昭和 16 (1941) 年 3月 再版。
 (昭和15年2月 初版改訂発行)
 白揚社
 B5版、クロス装、函入り、本文 406頁。


 森谷 克己 (もりたに・かつみ、1904~1964)は、経済史学者。 本書は、人類・社会に関する広範な学問領域の成果を総合して、東洋史を再構成したところに 特色がある。
 「本文の一部紹介」 としては、右の目次中の 「第一篇 支那史の始原代」 における 「第一章 支人属の棲息より先史時代村落の形成まで」 の、更に「第一節」部分 を掲げる。
 この第一節は、「支人属北京種(シナントロープス・ペキネンシス)」と名付けられているのであるが、中国人自身が著わした中国史の書では、極く簡略に記述されてきた表題・内容である。 「支人属」なる語は、森谷のこの書以外には 使用されていないのではないかと考えられる。


本文の一部紹介


   第一章 支人属の棲息より先史時代村落の形成まで

 第一節 支人属北京種(シナントロープス・ペキネンシス)
 北平の西南 約五十粁の地点に 周口店と呼ばれる小邑が み出される。 同地は 主として古生代オルドヴィシァ紀の石灰岩から成り、数多の石灰岩採石場も存する。而して 邑の西に在る六十米余の小丘腹には 多数の洞窟が存在する。
 一九一四年来 中国政府の招聘を受けて、支那の地質鉱物調査に従事し来つた スウエーデンの地質学者 アンダーソン(Andersson)は、一九一八年 初めて周口店の精査を試みた。 而して彼は、一九二一年夏以来、ズダンスキー(Zdansky)の助力を得て 同地の発掘を開始した。 その結果、まづ、周口店洞窟遺蹟から出土する動物化石は、該地層が第四紀更新世の最下部より新しくないといふことを示す 数多の特徴を有するものであつた。 かくて、周口店洞窟遺蹟は、地質学的編年の初期更新世に属すると認められたのである。
 さて、発掘された資料は 予てスウエーデンに持ち帰つて研究されてゐた。偶々一九二六年、スウエーデン皇太子の北京訪問の事があり、同年十月 北京協和医学学校に於いて 歓迎のための学会が開催されることゝなつた。 アンダーソンは この歓迎会の席上(因みにこの会合には 梁啓超、翁文灝、丁文江、テラール、ブラック、グレボウ等の学者が集つた)、初めて 多くの化石中より 人類の歯と認められる二個の歯(一(ひとつ)は下左前臼歯、他の一(ひとつ)は上右臼歯)を検出し得たことを公表し、且(かつ) 幻燈を用ゐてズダンスキーの発見にかゝる 人類の歯を示した。 この化石人類は、同席のグレボウ(Grabau)によつて 直ちに北京人類(The Peking Man)てふ学名が与へられた。 北京人類の発見は、忽ち世界の学界に喧伝されて 一大反響を喚起した。 かくて、極東に於ける太古的人類の棲息の問題が 学界の論議の日程に上つたのである。
 一九二七年四月以降、再び周口店の発掘が開始され、十月まで続行された。 発掘作業が将に終らんとする三日前、十月十六日、ボーリン(Bohlin)によつて 人類の下臼歯が一個発見され、北京のブラック(Black)の許に齎された。 ブラックは、人類のこの第三の歯が、かのズダンスキーにより発掘された 二個の歯によつて初めて知られるに至つたと同一なる動物種(species)のものであるといふことを 確証した。 かくして、この動物の人類的性質は、新たなる発見により疑問の余地を残さなくなつた。 それ故に、ブラックは、新たなる人属として 支人属(Sinanthropus)なるものを設け、そして種の名称を 北京種(pekinensis)と定めた。 かくして、北京人類棲息の事実は 全く確証され、且つ学名をも与へられたのである。
 一九二八年にも 周口店の発掘が行はれ、多数の歯の外、頭蓋骨の諸部分が発見された。 翌一九二九年、裴文中 氏は、殆んど完全なるシナントロープスの頭蓋骨を採出し得た。 これは寔(まこと)に 画期的発見とされる。
 さて、シナントロープスの棲息年代は、共出する化石動物群についての研究の結果、略ぼ第四紀更新世の初期と認められる。 すなはち、北支那に於いて 黄土(Loess)の堆積をみる以前、この猿人は、洞窟内に棲息し、出でては他の哺乳動物、鹿や大馬等々を捕獲し来つて、これを食糧に供したのである。 そのことは、後に裴文中氏によつて行はれた発掘(一九三一年)の結果、器物やシナントロープス遺骨と共出した 哺乳動物遺骨の発見によつて認められたところである。
 次に、シナントロープスの文化段階が問題となる。 夙にアンダーソンは 周口店の化石包含層中に於ける石英断片の存在に注意し、そして かゝる石英断片は発掘開始以来 繰返し発見され、而もその中には 実際石器を想はしめるものが存在してゐた。 たゞ併し、未だシナントロープスと石器との間に 必然的関係が認め得られなかつた。 しかるに、一九三一年、実際 人類の手によつて形成された石器が、裴文中氏により 原位置に於いて(in situ)発見された。 すなはち、周口店洞窟の第三鴿子堂洞の発掘によつて シナントロープス遺骨(三個の小頭骸骨片、一個の左下顎骨、一個の右下顎骨)が石器と共に出土するに至り、その結果 両者の関係につき 最早 疑ひを存し得なくなつたのである。 その際、夥しい石器が蒐集されたが、その中、少数のものは明白に人工の加工の跡を示すのみならず、石器製作の技術が 製法および形状よりみて 可成り進歩してゐたといふことも 認められるに至つた。 なほ、加工獣骨も出土した。 すなはち、シナントロープスは獣骨にも加工し 角器および骨器をも使用したのである。 因みに、器物およびシナントロープス遺骨と共に、既述の如き 他の哺乳動物の化石も発見された。
 なほ、極めて重要なる発見は、同一の洞窟内堆積層中における火使用の痕跡の発見である。 裴文中、ブラツク、並びにブリユイルの三氏は、一九三一年においてなされた諸発見中、木炭の残存および焼焦された骨片に関説し、それを以つてシナントロープスが火の使用をも知つてゐたことを示すものであるといふことを 認めたのである。
 要之(これを要するに)、アンダーソンの認めるが如くんば、確かに『我々には ジャバ、南イングランド、並びに ハイデルベルヒ近郊における先ネアンデルタール時代化石人類 pre-Neanderthal hominidae (学名 ピカントロープス・エレクッスと称される 謂ゆる爪哇の猿人、学名 ホモ・ハイデルベルゲンシス 即ちハイデルベルヒ人、並びに 学名 エオアントロープス・ドウソニーと称される 謂ゆるピルトダウン人の 三者を意味する ーー森谷)の従来の出土品は、今や 一九二六年以来、北京近郊のこの驚くべき洞窟遺蹟において行はれ来つた 新たな且つ基礎的な諸発見の洪水に比較すれば、貧弱にみえる。 その諸発見とは、多数の歯、数個の顎骨、現実のシナントロープス頭蓋骨の完全なるもの二個と断片的なるもの数個、彼によつて製作されたる多数の器物、および 彼がそれによつて大形の哺乳動物の捕獲物を焙焼したところの火使用の痕跡、即ちこれである。 加ふるに、洞窟遺蹟には、この上古の支那人類 early Chinaman によつて捕獲されたところの、最大部分は明らかに動物に属する何万といふ多数の 多かれ少なかれ断片的なる遺骨も点在するのである。』 (Anderson, Children of the Yellow Earth, London,1934, p.122)




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