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市島 春城 「随筆 頼山陽」






目 次


 口絵図版(8点)
 漢文序
 はしがき

 一 山陽の生活
   一 小影
   二 小影自題
   三 父子の至情
   四 広島の居と山陽の檻室
   五 苦労人の山陽
   六 父子再会
   七 帰郷を避ける辞柄
   八 春水遺稿出版の事
   九 大患上起の消息
  一〇 臨終と未亡人の書簡
  一一 雲華の弔文
  一二 山陽の墓誌
  一三 未亡人に就て
  一四 三樹三郎に就て
  一五 山陽の貧富

 二 山陽の文芸
   一 日本外史
   二 文
   三 詩
   四 書簡
   五 書
   六 画

 三 山陽の趣味
   一 総説
   二 書画癖
   三 骨董趣味
   四 篆刻
   五 煎茶
   六 平曲
   七 酒暦

 四 山陽と諸家
   一 山陽と茶山
   二 山陽と有栖川宮家
   三 山陽と日野資愛
   四 山陽と大槻平泉
   五 山陽と古賀穀堂
   六 山陽と亀井昭陽
   七 山陽と大塩中斎
   八 山陽と猪飼敬所
   九 山陽と細川林谷
  一〇 山陽と巻菱湖
  一一 山陽と宮原節庵
  一二 山陽と江馬細香
  一三 山陽と木村黙堂・滝沢馬琴
  一四 山陽と山内容堂
  一五 山陽と蘇東坡
  一六 山陽と袁隨園

 五 山陽の雑事
   一 細心の山陽
   二 シマリ屋の山陽
   三 山陽最後の望を達せず
   四 梅渓遊記
   五 西野梅渓の遺詩
   六 山陽揮毫の詩笠
   七 雪舟の碑文を書す
   八 博多を去る時の詩
   九 山陽一本やらる
  一〇 二儒の山陽観
  一一 叢書の序
  一二 鴨河の記
  一三 春日杯の記
  一四 山陽と厳島
  一五 山陽と島原
  一六 山陽と演劇
  一七 玉蘊女史
  一八 東山の俗謡
  一九 山陽の和歌
  二〇 姉妹巻の奇遇
  二一 大隅家の三墨跡
  二二 秦滄浪に対する冷語
  二三 十五両の借り参らせ
  二四 頼家の猫
  二五 梅颸の書簡

 六 山陽の遺跡を訪ふ
   一 京都の頼家を訪ふ
   二 山紫水明処を訪ふ
   三 備中の小野氏を訪ふ
   四 耶馬渓探勝

 追録
   一 耶馬渓巻幷びに雲華の妾に
     関する書簡
   二 母堂に寄せた書簡二通
   三 山陽と四條派
   四 山陽印癖の追補

 頼氏略系譜
 山陽年譜




 昭和 14 (1939) 年 4月 再版。
 (昭和14年 3月 初版)
 早稲田大学出版部。
 縦:17.7cm、横:10.3cm。
 紙装、函入り、本文 638頁。



 本書は、江戸時代後期の歴史家・文学者 頼 山陽 (らい・さんよう、安永9(1781)~天保3(1832))の評伝である。
 山陽の評伝としては、その後に出た 中村真一郎の『頼山陽とその時代』(1971年初版、中央公論社)が声価を得ているが、本書はこれとは別の視野からの多面的人物伝として、依然 存在意義があるように思われる。
 著者の市島春城(万延元(1860)~昭和19(1944)、本名・謙吉、東京帝国大学卒。)は、評論家・随筆家。
「本文の一部紹介」 としては、右の目次中の 「一 山陽の生活」 の章における 「一〇 臨終と未亡人の書簡」の節 を掲げる。 この節の一部は、森鴎外の史伝『伊沢蘭軒』に引用されており、 そこでは、文中の 「関五郎」なる人物(下線)が 後の関藤藤陰であり、石川成章とも名乗ったことが 考証されている。



本文の一部紹介

   一〇 臨終と未亡人の書簡

 山陽の没後、病中の事から後事に亙つて、未亡人 梨影より 懇意の家へ手紙を出してゐる。其 一つは 備中の小野家に宛てたもので、これは多く人の知る所であるが、他の一通は、竹田(田能村竹田、1777~1835)が 其 随筆『屠赤稊々録』中に収めて居る。 それは 梨影から 広江吉郎夫婦へ宛てたもので、広江は下の関の人で、秋水 或は殿峯とも号し、山陽が生前 別懇の関係もあり、竹田もやはり此人と懇意な所から、曽て逢つた時、此手紙を示された。 そこで竹田は、「山陽の病中より遺言等の様子も委細に見えて、あはれなれば、こゝに記す」 と前置して載せたもので、此手紙は、小野に与へたものよりも一層詳しく、且つ情味を尽くしてゐる。 且つ此手紙は、未だ山陽関係の流布書にないから、全文を抄録する。

 一筆申し上げ 為参候まゐらせそろ、先々其後は打たへ打たへ御無礼打過し、寒気つよくおはしまし候処、いよいよ其御地どなた様にも御揃なされ 御機げんよく御入被成候哉承度存じまゐらせそろ。 扨(さて) 先ころは久太郎病気御見舞とて 御書状御遣候所、ことに其ふし金壱朱おくり下され、たしかに うけ取申候。 よろしく御禮申上候。 扨 久太郎(ひさたろう、山陽の通称)事 此六月十二日より ふと大病に取あひ、誠にはじめは ち(血)も誠に少々にて候へども、新宮にもけしからぬむつかしく申候。 久太郎もかくごを致し、私どもにもつれづれ申して、ゆひごん(遺言)も 其節より申しおかれて候やうな事にて、かへても何分と申、くすりをすゝめ、先々天どう次第と 自身も申いられ候。 六月十三日より、かねて一両年心がけのちよじつ(著述)ども、いまだ さうこう(草稿)まゝにて、夫(それ)を 塾中に せき(関)五郎子いられ、一人にまかし候てかかさし、又 自身がなをし候てうつさし、 日本せい記と申物に候、又なほし、其間に 詩文 又だいばつ、みなみな はん(版)になり候やうに、さつぱりとしらべ申候。 右 せきも 九月廿三日迄、ばつ文(跋文)迄出来上り候。 廿三日夕 七ツ前迄、五郎子かゝりうつし候、夫(それ)を又 見申候て安心いたし、半時たゝぬ内 ふし被候所、私 むねをさすり居候。 うしろにゐるは五郎かと申、もはや夫きりにて候。 くれ六ツどきに候。 誠に誠にたしかなる事にて とんと くつ(苦痛)はなく候へども、だんだんとのよはりにて 気ぶんは はじめよりたしかにて、しょくじもおいしく候ゆへ、私ども 大病とは存候へども、此方主人事、人なみの人とはちがひ候ゆへ、めつたな事はあるまいと存候、しかしながら 廿三日八ツ比(ごろ)に 何かとあとあとの所もよくよく申、此方なくなり候ても、何も何もかはり候事はなく、とんととんと此儘にて此所地かり候ゆへ、家は此方家ゆへ、ほそぼそに取つき、二人の子ども 京にて頼二けん立て候やう、夫をたのしみいたしべくと申、かつへぬやうにいたし置、又二郎(山陽の次男。名は復)三木三郎(山陽の三男。三樹三郎とも表記。名は醇) 内に置候へばやくにたゝずになり候ゆへ、はん料出し候ても 外へ遣し候やうに申置候、子ども学問いたし候間は、私は陽と申し候三才のむすめ そだて候て、ろうめ(老女)つかひ候て、三本木にほそぼそと取つづき申候、此方はかねて三本木にてくらし候へども、子どもらが代になり候へば 町にて家かり、町へ参候て店出し候やう申置候、誠に誠にのこりおほき事もかぎりなく、日々とて何かと思ひ出し、せめてと存、誠に大切に百個日迄 ちういん(中陰 死後四十九日までの期間)中 同やうにつとめ申候、日々こうぶつのしな そなへ申候、猶さら此せつは 主人すきなすいせん(水仙)の花どもさき、ひとしをひとしを おもひ出し候て、いく度かいく度か かなしみ候、子どもらぐわんぜ(頑是)なく候ゆへ、猶さらわたくしは むねせまり候、此上はどうぞどうぞ二人の子どもよき人になり候て、かなりなあとになり候やうと、誠に誠に是のみいのり い(居)候。 なんでも私が きばりい申候て 五十日の間い間い はか参 二人づれにて もふくにて参候、五十日たち、又二郎は牧の方へ遣し申候。 三木三郎は かよひ、児玉へ遣しおり候へども、是もいまださぶしく内におり候、せつかく此節遣候と存候。 まづまづ主人事 いたいた数かぎりなく、あとの所かなりにいたし置くれられ候ゆへ、此まゝにて しまついたし候て、くらし候事でけ(出来)申候ゆへ、誠に誠に有りがたく もつたいなき事と 子どもらに申きかせ候、つねづね心がけよろしく候ゆへと存候。 有がたき事にて、此義は御安心可被下候。 国元に 餘一(山陽の長男。名は元協)と申し候 主人一ばん子にて、是も一昨年より江戸づめにて 来春は上京にて、是も子どもらのげんざいの兄にて、いつこ(一向)人がらもよろしく候、猶さら安心にて、書状参り 私を大事に申参候間、ちからつよく存候、国元母よりも、ちからおとしに候へども まだまだあきらめよろしく候ゆへ、私にたしかに申参、安心致候。 来春 餘一が下り候節、子ども一人は国元にて世話いたし度と申参候、私が三人は誠にたいぎにて、又々国元にて、がく(学)物世話になり候へば、大ゐにかたやすく候 。 何分 餘一見えられ候、主人と存、待入候、誠に誠に此せつも遠方へゆかれ留守中と存候て、日々つとめ申し候。 左様ならば、むねふさがり やるせなく、御さつし可被ト候。 其内にも主人がのうなり候へば、おもにおんになり候人ども、大ゐにりやうけんがかわり、あくわ(此所不明)こんなものにて、ゆうにゆわれぬいろいろの心ぱい、なげきの中にていたしい候。 主人の所はいたいたしく、あとの所はけつこうと悦候へども、そばからいろいろと申、是もあたりさはり有り、めつたに申出がたく候。 誠にせんもじは御くやみ御状、殊に金壱朱おくり下され忝、早そくに神主へそなへ申候。 此度 いんをいんぷ(印譜)にいたし候て、一本づゝくばり申候。 御らん可被候。 何かと私こゝろ 御さつし可被下候。 私も十九年が間 そばにおり候、誠にふつゝか ぶちようほうに候へども、あとの所ゆいごん、何も何も私にいたし置くられ、私におきまして誠に誠に有がたく、十九年の間に候へども、あのくらいな人をおつとにもち、其所存なかなかでけぬ事と 有りがたく存候。 此上に 子どもらの所、よき人にそだて度、是のみ たのしみ存候。 誠に誠に けんやくいたし くらしまいらせ候。 久太郎そなへ物と国元母と二人は 大事につかへ、めづらしき物進じ申候。 是はおしまれ不申と存候。 誠にかやうにいたしおきくれられ、なみだながし候。 まづまづ其内に三歳女子(山陽の末子。名は「陽」)、むつかしき ほうさう(疱瘡)、よほどあやうき事に、よふよふ(漸々)と とりとめ申候。 かほは やくたいにて、夫(それ)ゆへ御返事もいたし不申候。 御ついでに 長崎水野へ ちよと御しらせ可被下候。 早々かしこ。
 閏月 二十五日   頼又二郎 母 より
  広江 吉郎 様
  御をもじ  様 (広江夫人は「を」の付く名であったらしい)

 なをなを、折から寒気ひとしを御用あそばし、どうぞ又々 相かはらず御便りの節には 御状下され候。 又 私よりも御たづね申上候。 又二郎 其内にはせいじん致、誠に引のばし候やうに存候。 わたくしも子どもがせいじん、わたしもまめにてくらし候と存候 気はり居候。 あまり物事にくつたくにせぬようにいたしたしと存候へども、何かと心にかゝり 心ぱいいたし申候。 何分 大事の事のみ、気にかけべくと存をり候 よの中と申候(この部分 意味不明)。 大阪 後藤春蔵(号・松蔭、1796~1864、 山陽の初期の弟子)、主人病中にも度々上京、見まいに見え候。 大へんのせつも、同人も病気にて候へどもおして見えられ、ともいたし、其後も ちよじつはんこう物たのみ、主人申置候ゆへ、心にかけ世話にいたしくれ、かたじけなき事、牧善助、小石次女をゑんぐみ、此方五十日たち候へば、すぐにもらひ候、すでに霜月廿二日夜 こん禮にて、小石むすめゆへ、大さかんにて御座候。 ことの外 おりやい(折合)と承候。 めで度事に候、小石 安心に御座候。 児玉三郎も家内が五月にもらひ候、いづこ にぎにぎしき事に候。 どうぞ児玉も はんじやう候やうと存候。 左様いたし候へば、久太郎も ちか(地下)にて悦申候事と せかく(折角)存候。




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