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口絵写真 第一高等学校時代の著者(三列目左端) と 夏目漱石(二列目左から二人目) |
雑纂一・目次
書評( 40篇) 序跋(106篇) 推薦文・広告文(127篇) アララギ編輯所便(65篇) 雑篇(139篇) 後記 |
本文の一部紹介 |
「三ケ島葭子全歌集」序
三ケ島葭子さんが亡くなられて もう足掛八年になつたが、橋本徳寿君が万端 骨折られて、全歌集の発行を見るに至つたことは、私等も感謝して居るのである。
三ケ島さんは 夙くから病身で居られ、終生病気の生活を送られたやうなものだから、世の富貴円満健康充足の生活者と比べれば、非常に寂しい、悲しいものであつたことは、私のごとき者の想像をも許さない点が多かつたに相違ない。 さういふ切迫つまつた暮しの中で 歌を詠んで居られた。 前々から歌が好きで 作歌を中絶せずにゐたから、苦しい間にも 作歌によつて悶を排して居られたのであつただらうか。 それだから、三ケ島さんの歌の真実なものになると、語々句々に生が滲徹して居り、読む者をして 涙をもよほさしめねば止まないもののみである。 かういふ歌になれば、万葉歌人の風格に相通じ、末世の専門歌人等の到底企図しても成就上能の境涯といふ事になるのではなからうか。 それ程の真実の歌を作つて居られる。 一生は悲しかつたけれども 私等は是等の遺作をいだいて せめてもの心遣りとして居るのである。
私は煩を避けて 試みに大正十五年 昭和二年の作から 以下の二十数首を抄録した。
わが病すこし快ければとこはに死ぬ日なきごと身をばさびしむ
このごろはうれひ打つづきうつしみをさびしがる暇無くなりにけり
世話になる人の心におびえつつわれのこころのみじめなるかな
この夜ふけにはかに苦しこのまま死すともよしと心しづめをり
きその夜の苦しみ思ひしみじみと今日ある命ありがたく思ふ
いささかの仕事なれどもこの弱きわれには深き覚悟要るなり
今はもよ心に深く決めしなれば堪へがたけれどもものは言はざり
痩せたりと思ひて伸べしただむきに幼き時の種痘の痕
はなびらに天鵞絨に似たる感じありて手にふりて見たきこの紅うばら
いま見たる夢のつづきを或は見む夜半の小床にみじろがずをり
遠方に長鳴く鶏のあはれさはわれの心をむかしに還す
なにかたのしき思ひわきをりこの病の癒ゆる望みはなしと思ふに
さかりゐる一人の吾子を思ひつつ眼つぶりて飯かきこみぬ
うぐひすのこゑ聞こえけりあかつきの小床にわれは夢かと思ふ
わが窓によそのあかりのさしそめて冬のひと日ははや暮れしなり
入りつ日のまぶしき光に面むか立ちてゐるなり春寒き窓に
ひときれのあやにかがよふ夕雲をせまれる屋根のあひだに見たり
惜しきもの一つも無しと思ひつつ室の真中にひとり立ちをり
重きほどふとんかさねてなほ寒し肩に掌をあてかがまるあけがた
夜の更けの凍土( をゆく下駄の音銭湯へゆく人人ならん)
今にして人に甘ゆる心あり永久に救はれがたきわれかも
しみじみと障子うす暗き窓の外音たてて雨の降りいでにけり
ここに抜いた二十首あまりの歌に対しては、私の如き 徹底しない生活は慚愧すべきものでそれゆゑ、この序文を書くにしても 気が引けて為方がなかつたのであり、また 作歌の価値から云つても、是等の歌には到底及び難いのである。
なほ 余計だとは思ふが、少し附言するならば、三ケ島さんの歌は 表現が奈何にも自在だと云ふことに気付くのであるが、これは生涯を通じての 一つの特色であつたやうである。 橋本徳寿君の編輯記及び同君編の三ケ島葭子年譜によつて明かなる如く、三ケ島さんは最初は与謝野晶子夫人に師事して、作歌を錬磨されたので、その頃から表現が奈何にも自由であつた。 この習練・力量をそのまま継続せしめて、アララギの歌風に移り行いたのであるから、アララギに入会した頃は 既に優れた女流歌人であつたのである。 即ち、忽然として急激な進歩をしたといふわけではない。 ただ 最初の歌風は新詩社の主観的色調が目立ち、アララギに入つてからは 事象を捉へる寧ろ 客観的色調が目立つたと謂うべきである。 アララギに入ってしばらくは、赤彦君(島木赤彦)の薫陶を受けた。 その後 友人の恋愛事件に関連してアララギを退いたのであるが、それ程 赤彦君も熱心に三ケ島さんを指導したのである。 それだから 赤彦君の当時に於ける三ケ島さんに対した態度に就いては、これを善い意味に解釈すべきだと 私は思つて居る。 アララギ退会後は、千樫君(古泉千樫)に従つた。 そして自由な表現の傾向は、却つて千樫君の方に同感されたものであつたかもしれぬ。 何れにしても晩年の諸作は、自在で朗かで楽々と歌ひ上げてゐるやうで、もはや誰にも 何れの場合にも できると云ふ境地ではない。
私は 大正十年春、長崎を去つて東京に帰つて来た頃、石原君(石原純)が原阿佐緒さんと 麻布の三ケ島さんの家に寓居されてゐたので(この二人の関係については、「アインシユタイン博士 相対性原理」の解説文参照)、私は毎日のやうに石原君を訪ねた。 その時はもう三ケ島さんは アララギを退いて居り、私と歌のことに就いて話し合ふといふやうな機会もなくてしまつたのである。 現在は 赤彦君も千樫君も大熊長次郎君も すでに他界せられて居ることを思ふと、夢のやうだと云つてもいいほどになつた。 若し千樫君が丈夫でゐたなら、心をこめて この全歌集を讃嘆して呉れたに相違ない。 私は 亡友のその心持を少しく理解し得ると思ふから、非常に僭越だとは思つたが、敢てこの小文を草した。 約めれば 私は世の人々に三ケ島さんのこの全歌集を 少しく重く見ていただきたいことを 希つて止まないのである。 昭和九年二月。 斎藤茂吉。
終
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