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冨山房百科文庫
大槻 文彦「復軒旅日記」





表紙




はしがき   大槻茂雄 (文彦の養嗣子)

目 次

 上毛温泉遊記(明治12年8月・34歳)
 富士山登山行(明治13年8月・35歳)
 嵐山芳野紀行(明治23年4月・44歳)
 筑波山紀行(明治23年8月・44歳)
 月の瀬紀行(明治24年2月・45歳)
 霧積温泉行(明治24年8月・45歳)
 小田原杉田観梅(明治32年2月・53歳)
 豆州伊東温泉行(明治35年2月・56歳)
 伊達伯邸寄寓病気の事(明治35年8月・56歳)
 箱根塔の沢入浴(明治36年3月・57歳)
 西新井行荒川堤観花(明治39年4月・60歳)
 伊香保行(明治40年8月・61歳)
 目黒遠足行(明治41年10月・62歳)
 奈良近畿旅行記(明治44年10月・64歳)
 横須賀比叡進水式行(大正元年11月・66歳)
 宮城岩手建碑行(大正3年12月・68歳)
 肺患記(大正5年2月・70歳)
 山の目転地療養記(大正5年6月・70歳)
 伊豆蓮台寺温泉滞在記(大正6年1月・71歳)
 再度の山の目避暑(大正6年7月・71歳)
 仙台弔魂祭(大正6年10月・71歳)
 蓮台寺避寒(大正6年12月・71歳)

 自伝
 年譜




 昭和 13 (1938) 年 8月、冨山房。
 縦:17.1cm、横:11.2cm。
 紙装、本文 372頁。



 大槻 文彦 (弘化4(1847)~昭和3(1928))は、国語学者。 語彙・文法等を精密に体系化した国語辞書『言海』 を著作、明治24年(1891年)に刊行した。
 大槻家は 仙台藩の藩学の中心を占める存在で、祖父・磐水は蘭学者、父・磐渓は漢学者、兄・如電は博物学者 として知られる。
「本文の一部紹介」 としては、右の目次における「伊豆蓮台寺温泉滞在記」 を掲げる。
 このとき 文彦は、上記『言海』の増補に着手していて、その作業を温暖の地で行なうべく、伊豆蓮台寺に滞在したのである。
 なお、『言海』の増補は 文彦の逝去(昭和2(1927)年)後も、門下で協力者の大久保初男等により継続・大成され、『大言海』4册として刊行された(昭和7(1932)~10(1935)年)。


本文の一部紹介

   伊豆蓮台寺温泉滞在記

 大正五年(1916年)二月肺炎を患ひ 寒気に用心せむとて、伊豆南端の暖地 蓮台寺に避寒する事に決し、姪(おい)大槻清三きよみと同行す。
 大正五年十二月三十日 快晴。 朝八時四十分 東京根岸御行の松下の宅を出て、人力車二、一に自乗、一に荷物、九時十九分 丸の内 東京駅停車場に着く。 男・茂雄、姪・大槻正二、大久保初男 電車にて見送りに来る。 清三も来会す。 二等汽車にて 十時十分 発す。 大久保は帰り 茂雄 正二は 新橋停車場まで同乗して下車す。 清三は随行、車中雑踏す。 大船にて 鯛飯の午餐す。 国府津にて下車の客 多し。 山北を過ぎて駿河に入る。 富士山の雪姿 壮絶なり。 三時 三島駅にて下車す。 伊豆鉄道 発車連絡せず、駅前の茶店に一時間待合はせ、四時十五分発の同鉄道に乗り、大仁おほひとに向ふ。 五時半 大仁に着す、終点なり 下車す。 日没す。 今夜は 修善寺に宿せむの予定にて、大仁にて 明日下田行の自動車に約束せむとせしに 申込満員なりとてことわらる。 (此自動車は定期にて 毎朝下田を発し、三時間にて午前十時頃大仁に着き、午後一時に大仁を発して下田に帰るなり) 乃ち 馬車にて修善寺に着し、同地の菊屋別荘に宿す。
 十二月三十一日。 晴。 朝 修善寺を人力車にて発し、十時四十五分 再び大仁に到り、自動車満員ならば此夜此地に宿し 明日の自動車にと申込みたるに、明日は元旦なれば休業せむも計られずと云はれ、是に於て窮迫し 已むを得ず高等馬車一輌を買切り 清三と二人、荷を付けて発したりしに、行く事三四町にして 車重く馬弱くしておぼつかなし。
 «中略»
 峠より三里許にて湯ケ野、それを過ぎて又 ニ三十町上り坂となり 再び頂に隧道あり、一町許なり。 過ぎて復た下りの峻坂となり、四里許にて立野たちのに至る。 下田より北三十町 稲生沢川の極めて迂回して流るる中にあり、又 中の瀬と云ふ。 川に橋あり。 下田街道なり。 橋の手前より西(右)へ折れたる道(西の方 大沢と云ふ地に至る県道なり)を行くこと四町許にて 蓮台寺の温泉場に著(着)す。 掛塚屋かけづかやと云ふに投宿す。 時に 夜八時なりき。 去年 家兄 如電先生 此地に来りて、此家に宿せらる。 東京を発する前に予め通知し置きたれば 一室を明けおきて入れられたり(此 大仁下田間の路は 十二三年前の新開なれば、自動車車馬も通ふなり。 旧道は極めて峻なり。往時行路の難 想ふべし)
 大正六年一月元旦。 曇。 朝 気温六十三度。 此に七十一歳の新年を迎へたり。 是より百二十日許 此家に滞在することとなれり。 昨日は がたくり馬車にて峻坂上下十三里、八時間揺られたれば 身の疲労如何と思ひしに、今朝起きて何の障(さわ)りもなし。 老人も 此 体格検査に合格したれば 尚 三五年は健全なるべしと 心強く覚えたり。
 蓮台寺(れんだいと濁り呼ぶ)は 元と 一村なりしに、近年 近傍四五村と合して 稲生沢いなふさは村となる。 伊豆の賀茂郡に属し 下田港の北三十町にあり。 元 蓮台寺村のみ六十戸許 百石未満の小村にて、韮山代官 江川太郎左衛門の支配地なりき。
 (天正十八年水帳、屋敷合千五百五十五坪、田畑合四町七反五十九歩、田畑合四町八十歩 ─ もとのまま ─ 村に旧時吊勝記録なし)
 此地 四面皆山にて 南なるを日影山と云ひ、北なるを藤原山と云ひ、其外 山々 名多し。 此山間に南北三四町、東西五六町の間 平地にて田畑あり。 人家 処々に散在して 温泉の沸く地は東北に偏して 二三十戸 聚落を成す。 此所を下藤原と云ふ。 南の谷間に 上藤原 接す。 随地に温泉湧出す。 温泉宿九戸あり。 何れも内湯うちゆにて 共同の浴場もあり、素人家にも浴場あるあり。 温泉宿は 掛塚屋、会津屋、石橋吉村など云ふ。 其他は 田舎客を入るべきのみ。 (カケツカ屋 蓮台寺四十七番地)
 «中略»
 八日。 村松春水 来る。 下田住の医師にて、此地 中学校に校医たり。 富士川游氏の友にて 富士川氏より予が蓮台寺に滞在すべき事を通じ、訪ひもし、諸事周旋もすべしと言はれたるなりしと云。 村松氏は 静岡の人 五十六歳、此地に来りて二十年許なりとぞ。 書を善くし、我が掛塚屋の 六畳の室の唐紙四枚に、七律一首、大字に草書に書きたるが 貼りてありき。
 廿五日。 晴。 足立鍬太郎 来り、自著刊本「幸藻さちも ── 白浜の ところてんの事 ── 」 を贈らる。 白浜村の白浜神社の事を記す。 伊豆古代の神話もあり、又 連歌の語彙の如き書を貸さる。 文部省吏員 武笠むかさ三(文科大学選科出身) 此家に来宿す。 静岡県下の学事視察の為なり。 我室に来り話す。 話次に 足立氏云へり、大槻先生は国宝なりと云々、呵々。
 «中略»
 廿日。 晴。 下田港見物に 人力車にて行く。 三十町あり。 田間平坦の路なり、下田の手前右方に 椎の実を立てたるが如き山あり、下田富士と云ふ。 海船の目標とするものなりと云ふ。 路傍右の方 田間に 鳥居のみ立てり。 富士の鳥居なりと云。 下田町に入り 新田と云ふ地に 村松春水を訪ふ。 閑談す。
 村松氏の祖父 医・文良は 駿河の焼津の人なり。 大塩平八郎の難に死す。 父・文三は 伊勢の人にて 文良の養子となる。 名は 虎臣、二十回壮士、蘊遊平韓 等の変名あり。 嘗て磐渓先生の教を受けたりと云。 又、藤田東湖の門に入り、所謂 維新の志士にして 東西に奔走し 間関(たえず)苦心したりとなり、
   男子立志出郷関  男子 志を立てて 郷関を出づ
   学若無成上復還  学 若し 成らずんば 復た還らず
   埋骨豈唯墳墓地  骨を埋むる あに唯だ墳墓の地のみならんや
   人間到処有青山  人間 到る処 青山 有り
の詩は 人口に膾炙するも、此の文三の作なり。 京都の僧・月照(月性とも表記される)と交 深かりし故に、此の詩 誤て月照の作と伝へられたりとぞ。 明治維新後 福岡県令まで昇り、明治七年一月没す。 四十七歳なりき。 二三年前 東京新橋日吉町、国民新聞出版の維新志士遺芳録に其伝 委(くわ)し、数年前 従四位を贈られたり。
 村松氏に伴はれて 公園の山に登る。 古城址なり。 海に突出すれど 樹木多くして 眺望豁ならず。 南に御茶屋が崎とてありて、南海のながめよしと聞きしかど 行かず。 下田町は東西五町余、南北十二町余、海湾内の平地にあり。 瓦屋(かわら屋根の家)櫛比し 街路縦横 碁盤の目の如し。 但し 路幅狭し。 往時は 此地に幕府の船番所ありて、西、遠江灘七十五里、東、相模灘五十里を渡る航海船は 必ず此港に入泊し、番所の改めを受くべき制なりしかば、船舶輻輳し 繁盛の地にて、「伊豆の下田に長居はおよし、縞の財布が軽くなる」 の俗謡ありし程なりき。 明治以後、番所は廃せられ、汽船航海となりて 寄港の船少なくなり、市街 頓(とみ)に活気を喪(うしな)へり。 寓(やど)に帰る。
 «中略»
 此地の滞在も 去年十二月三十一日より百十四五日間となりぬ。 今は 東京の寒気も減じたらむと 帰装を促し、廿六日出発 帰京せむとす。 此滞在四ヶ月間に 門を出でたる事 四五度に過ぎず。 其他は朝より夜の九時までは、日々机によりて 言海の増訂に従事せり。 携へ来りし書籍中、新撰字鏡の末部、東雅全部、好古叢誌四十二巻、祝詞考三巻、神楽催馬楽入綾六巻、嬉遊笑覧七巻(活版本)、古新聞数百枚、出雲方言伊豆国誌編輯材料十余巻 ── 足立氏より借る ── を翻閲鈔録せり。 此間 口語法別記の活字校正、日日の如く東京より往復して成れり。
 «以下略»




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