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内藤虎次郎 「目睹書譚」





表紙カバー




(口絵写真)唐写本説文木部残巻






目 次

 序
 例言
 蠧魚談
 読書偶筆
 読書記三則
 奉天宮殿にて見たる図書
 奉天満蒙番漢文蔵経解題
 奉天宮殿書庫書目
 文溯閣の四庫全書
 野籟居読書記
 城西読書記
 再び「六朝清談の由来《に就て
 仁和寺の三十帖冊子(附 古鈔本黄帝内経明堂)
 訪古の一日半
 訪書渉筆
 高麗紺紙金銀字経
 古書と古銭(附 金沢訪書劄記)
 徳島一瞥
 元聖武親征録の翻刻
 蒙文元朝秘史
 銷夏録
 那珂博士の成吉思汗実録
 満蒙叢書刊行に就て
 敦煌発掘の古書
 那珂博士の成吉思汗実録
 満蒙叢書刊行に就て(附 満蒙叢書目及び略解題)
 敦煌発掘の古書
 清国派遣教授学術視察報告(附 京師図書館目睹書目)
 西本願寺の発掘物
 欧州にて見たる東洋学資料
 宋元版の話
 吊古屋の宝物
 唐写本説文残巻
 帝王略論の発見
 唐鈔曹溪大師伝
 宮内省図書寮蔵宋槧単疏本尚書正義略解
 岩崎文庫蔵古鈔本梵語千字文略解
 宋板礼記正義に就いて
 華夷訳語の発見
 建保古写本萬葉集
 重印新撰字鏡の後に書す
 唐土奇談解題




 昭和 23 (1948) 年 9月、弘文堂書房。
 縦:18.3cm、横:13.2cm。
 紙装、本文 372頁。



 内藤 虎次郎 (慶応2(1866)~昭和9(1934)、号:湖南)は、秋田県出身(秋田師範学校卒業)の東洋史学者、京都帝国大学教授。 当サイトにおいては 既に晩年の詩文集(私家版) 「玉石雑陳」 (1928年刊)を収載し、その人物を紹介した。
「本文の一部紹介」 としては、右の目次における「唐写本説文残巻」 を掲げる。



本文の一部紹介

   唐写本説文残巻

 説文は 正しく云へば説文解字で、後漢の時、許慎(30~124)の著はしたもので、支那で部類分けにした字書の 最初のものである。 そして 字形、声音、訓詁 の三通りを備へた、当時にあつては、頗る完全な体裁を備へたものである。
 今日 行はれてゐる説文は、版本としては宋版が最も古く、岩崎男爵の静嘉堂文庫に蔵せられてゐるのが、その定本であつて、余もその残本を蔵してゐる。 これは 宋の初め、南唐から来た学者の徐鉉、徐鍇の手によつて伝へられたもので、徐鉉の本は、単に説文解字と云ひ、世には これを大徐本と称へて居り、徐鍇の本は、説文繋伝と云ひ、世にこれを小徐本と云つてゐる。 大徐小徐 共に、同一の説文を伝へて居りながら、各々解釈の文に異同のあるのが、以前からして問題となつてゐた。 清朝になつて、説文の研究が盛んになり、漸々二徐以前の説文が、如何なるものであつたかと云ふことが考へられ、学者の中には、他書に引用された説文の文句によつて、二徐以前の説文の一部分を調べ上げたものもある。 殊に支那に於ても、唐の僧・玄応の一切経音義が発見せられ、ついで日本から、高麗板によつた慧琳の一切経音義が支那に渡るやうになつてから、その中に引用せられた説文の文句が、二徐本と合しない処があるので、益々 古本説文の研究と云ふことが注意されるやうになつた。 かゝる際に丁度 新に発見されて、説文の研究に大なる問題を起したのが、唐写本の説文木部である。
 唐写本説文木部は、支那の同治元(1862)年に(六十五年前) 有名な学者 莫友芝によつて発見せられた。 この年の夏、莫友芝の弟 莫祥芝が、安徽の夥縣の知縣・張廉臣の処でこれを見て、兄の莫友芝に語つた。 友芝は当時、安慶の曽国藩の幕中にゐたのであるが、そのことを聞いて、弟を再び遣つて影写をさせた。 張廉臣は、その影写に骨の折れるのを見て、原本を莫友芝に贈つた。 当時 支那には、ニ三の仏経以外に 唐写本が全くなかつた時代に、斯の如き珍書が発見せられたので、非常な評判になり、当時 曽国藩は軍中にあつて、長髪賊の討伐で苦戦最中であつたにも拘らず、非常にこの発見を喜んで、長篇の詩を作つてその後に題し、更に大字の題字をも作つて与へた。 そして 莫友芝を始め、これと交際のある学者達は、皆 その研究に従事した。
 この本の伝来は、古い時は幾何(いくばく、ある程度)か分る。 即ち 南宋の内府にあつたと云ふことは、その紹興印あり、又 米友仁の鑑定の跋が有るので分り、宝慶四年 兪松と云ふ人の跋があり、更に賈似道の印があるので、南宋の末頃までの伝来が知られる。 又 濼陽趙氏の印があるので、元代の存在が分り、李東陽の印があるので、明初までの伝来は知れるが、その後 如何なつたかは、殆んど分らない。 そして突然に 同治に至つて世に現はれたのである。
 その字数は 九十四行、百八十八字で、木部の半にも足らないが、その体裁と云ひ、その反切は勿論、許慎の解釈に至るまで、二徐本と頗る異なつた処があつて、往々 一切経音義に引く所の文と却つて一致する処がある。 莫友芝は それについて、二徐本と対校し、唐写本説文木部箋異と云ふ本を作つて、世に公にしたが、その他の学者も、皆 これについて重要な研究をした。 中にも劉毓崧は、書中の文字の缺画から考へて、この本が唐の元和十五年(西紀八二〇)に書かれたものであると云ふことを論断した。 その外 張文虎、方宗誠 及び友芝の子 彜孫、縄孫等の研究は、皆 木部箋異に収載されてあるが、その収載されないもので、又 呉雲の篆体に関する研究が、原本の跋に存在してゐる。 その篆体は、後漢の曹喜以来の脚の長い書風で、秦の李斯、又は王莽時代の篆書とは異つて居り、唐に於ても 李陽氷以後の篆体とも異なり、この本の篆体に近いのは、古くは魏の三体石経、若しくは唐の〔山+吾〕台銘である。 又 その楷書は 唐の石経の書風に似て 柳公権頃の書風と見られるものである。 処が上思議にも、我が宮内省に蔵せられる篆楷千字文の断片は、この本と 篆書、楷書共 酷似してゐる。
 余が始めてこの本を見たのは、明治四十三年で、敦煌写経研究の為め、狩野、小川両博士、濱田、富岡両講師と、北京に派遣された時に、端方氏を訪問し、その豊富なる書画金石等を見せられた。 余は 莫氏発見の説文木部が、今何処にあるかと問ふた処が、端方氏は 自分の収蔵に帰してゐると 云ひながら、直ちに出し示されて、余に跋語を求められた。 その唐写の風味が、莫氏の板本と比べられぬ程 精妙であるのに驚いた。 その後もこれを忘れたことはなかつたが、その翌年、端方氏は革命乱の為めに、四川で横死したので、この本の行衛が非常に気にかゝり、大正六年に又北京に行つた時に、端方氏の親友である景賢氏に、この本のことを尋ねたらば、それは今 自分の収蔵に帰してゐると云はれた。
 その後になつて余が外遊中、景賢氏が死去したと云ふことを聞いたので、この本の散佚に帰せんことを慮り、北京にゐる知人に、若しもこの本のことについて聞く所があつたならば 必ず報知するやうにと依頼しておいた処が、昨年の十月頃 果たしてその知人から、この本が売物に出たと云ふ報が来た。 その価格などについて交渉して居り、愈々定つて金を送つた頃、京津間の戦乱の為め、余の書簡が一ヶ月程遅れて北京についたので、その間に一時は他の支那人の手に帰したのである。 然るに 戦乱の為めに、郵送の危険を慮り、ついに北京公使館を煩はして、外務省を経て、余が受取つたのは 本年二月である。 かくの如くして、六十余年来 支那で有名な古写本、余が十七年来 夢寐にも忘れなかつた無二の説文古本が、余が手に帰したのである。 今日では支那でも 敦煌その他西域地方の古書が世に出て、仏教以外の経籍も、唐写本のみでなく、六朝時代のものまでも世に出て来たけれども、支那最古の辞書であるこの説文、それがよし九十行ばかりの断片であるとは云へ、これに匹敵するものは、これまでまだ一枚も世間に出たことがなかつた。 日本では従来、梁陳の間に(西紀六世紀の頃)顧野王が編した玉篇が 辞書の最古のものとして、その時代の写本が存在してゐるので、学界では非常に珍重せられて居つたが、説文に至つては 故平子鐸嶺氏が発見した二行程の古本の影写本があるのみであつて、その古本は矢張りこの唐写本と同種のものであるの存してらしく見えるが、余りに僅かの断片に過ぎないのを遺憾としてゐた。 然るに今度この本が手に入ることになつたので、殆ど太牢の味をなめることが出来るやうになつたのである。
 この本は 上にも云ふ如く、既に幾多の支那学者の研究を経てゐるけれども、尚ほ研究すべき余地がないとは云はれない。 その一つは、この書の反切に関することである。 支那の学者も皆 その反切が、全く二徐本と異つてゐることには、気がついて居るのであるが、只この本の反切が、凡そ何時頃のもので、説文の反切として、どれだけの価値があるかと云ふことを、明かに論じたものがない。 今 一見して已に知り得る処は、この本の反切が顧野王の玉篇とも異つて居るであらうと云ふことである。 我国のみに存する原本玉篇には、木部が欠けてゐるので、直接に引合すことが出来ないが、高山寺に蔵する、弘法大師の著と云ふ篆隷万象名義は、玉篇から抄出されたものと考へられ、その原本玉篇の存してゐる部分は、全く万象名義の反切と一致してゐるので、万象名義の木部によつて、玉篇の木部の反切を知ることが出来るが、これを対校して見ると、合するものが至つて少なく、異なるものが多い。 恐らくは この説文の反切は、玉篇以前の反切であつたらしく、それは今の説文に全くない、直音(同音の他の字を用いて表すこと)で以つて現はしてゐる字が往々あることによつても、その音を現はす古い方法が残つてゐることを考へさせられる。 殊に その中に 「桓」字に丸の直音を附してゐる処から見れば、漢末三国頃の発音らしく思はれるので、この本の直音反切が、説文に附せられた最古のものではないかと云ふことを思はしめる。 その他も直音反切の上から、一字々々研究したならば、更に得る所があるかも知れぬ。 追ては この本をコロタイプにして世に公にし、専門学者の研究に委ねたいと思つてゐる。
 以上は この本の由来、並びにその学問上の価値に関する一班である。

(大正十五(1926)年七月「書物礼讃」 第四冊 )




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