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南方熊楠 「南方随筆」



表紙



口絵写真
〔説明〕 大正九年八月二十三日、南方氏は
小畔四郎氏(粘菌分野での熊楠の門下)と携
へて高野山に粘菌採集に赴き、一乗院に宿り
飲み且つ談じて 数日を送られた。 写真は
二十六日に 同院で撮影したものである。
向つて左方は 南方氏、同右方は 小畔氏。




目 次


 編者序
 論考
  本邦に於ける動物崇拝
  小児と魔除
  西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語
  秘魯国に漂着せる日本人
  厠神
  四神と十二就て
  詛言に就て
  牛王の名義と烏の俗信
  龍燈に就て
 俗伝
  山神 「オコゼ」魚を好むと云ふ事
  イスノキに関する俚伝
  睡眠中 霊魂抜出づとの迷信
  通魔の俗説
  睡人及死人の魂 入替りし譚
  臨死の病人の魂 寺に行く話
  睡中の人を起す法
  魂 空中に倒懸する事
  鯤鵬の伝説
  神狼の話
  千年以上の火種
  親が子を殺して身を全うせし事
  鹽に関する迷信
  田螺を神物とする事
  水の神としての田螺
  女の本吊を知らば其女を婚し得る事
  桃太郎伝説
  アイヌの珍譚
  鰲と雷
  泣き佛
  鹽を好まぬ獣類
  人を驢にする法術
  葦を以て占ふこと
  富士講の話
  猫を殺すと告て盗品を取戻す事
  琵琶法師 怪に遭ふ話
  孝行坂の話
  幽霊の手足印
  鳴かぬ蛙
  眼と吭とに佛有りと云ふ事
  山の神に就て
  蛇を駆逐する呪言
  親の言葉に背く子の話
  河童に就て
  河童の薬方
  生駒山の天狗の話
  熊野の天狗談に就て
  子供の背守と猿
  時鳥の伝説
  ウジともサジとも
  葦を以て占ふこと
  紀州俗伝
 附録
  郷土研究記者に与ふるの書




 昭和 18 (1943) 年 7月。
 荻原星文館。
 B6版、紙装。 本文 440頁。



 民俗学者、博物学者・南方熊楠 (慶応3(1867)年~昭和16(1941)年)の、生前に刊行された著作の一つである。

「本文の一部紹介」 としては、右の目次における「秘魯国に漂着せる日本人」 を掲げる。
 明治初期の多事多端の折、この日本を出でて、海外の意外な地で活躍した日本人が存在したことに、驚かされる。
 ここに言う秘魯国とは、南米西部の Peru(ペルー)共和国のことである。



本文の一部紹介


   秘魯国に漂着せる日本人

 英訳 Ratzel 'The History of Mankind', 1866 vol. i. p. 164 に 東西両半球間 過去の交通を論じ、
 「日本と支那より 西北亜米利加に漂着せる人あり。 又 米国の貨品が布哇(Hawai 、ハワイ)に漂着せる例あり。 然れども南半球に至りては、高緯度に有て 風と潮流が西より南米大陸に向ひ、赤道近くに随ひ、風潮並びに南米より東方に赴き去り、凡て東半球と南米間に人類の彼此往来有りし確証実例なし。 たゞ民俗相似の点 多きより推して、曽て斯る交通 有たるを知るのみ。」
と述べたり。

 未開の民が、風と潮流に逆うて弘まり行きし例あるは、第十一板 「エンサイクロペヂア・ブリタンニカ」(Encyclopaedia Britannica 、大英百科辞典) 巻二十二、三四頁に、多島海人 古へ航海に長じ、其辺の風と潮流 主として東よりすれども、時に西よりする事有るを利用し、遂に遠く多島海諸島に移住せる由を言へり。 Daniel Wilson,'Prehistric Man', 1862,ch. vi &. xxv. に、南太平洋に太古 今よりも遥かに島数多かりしが、人間が東半球より西半球に弘まりしは、第一 多島海より南米に移りて 秘魯中米等の開化を建立し、第二に 大西洋を経て西印度中米 「ブラジル」等に及ぼし、第三に 「ベーリング」海峡及び北太平洋諸島より北米に入りし者の如しと説きたり。
 今 東半球の赤道以北よりすら、嘗て南米に漂着せる人の絶無ならざるを證する為に、予の日記の一節を 略ぼ原文の儘(まま) 写し出す事 次の如し。

 明治廿六年七月十一日夕、龍動(London、ロンドン)市 「クラバム」区 「トレマドリ」街二十八館主 美津田みつだ瀧次郎氏を訪ふ。 此月六日 皇太孫「ジヨールジ」(現在位英皇)の婚儀行列を見ん迚(とて)、「ビシヨプスゲイト」街、横浜正金銀行支店に往し時 相識と成し也。 此人 武州の産、四十余歳、壮快なる気質、足芸を業とし、毎度 水晶宮等にて演じ、今は 活計豊足す(生計は満ち足りている)と見ゆ。 近日 西班牙(Spain、スペイン)に赴き 興行の後 帰朝すべしと云ふ。 子 二人、実子は既に帰朝、養子のみ留り在り、其人 日本料理を調へ 饗せられる。 主人 明治四年十一月 本邦出立 支那印度等に旅する事 数年、帰朝して三年間 京浜間に興行し、再び北米を経て欧州各国より英国に来り、三年前より今の家に住すと 云々。 旅行中見聞の 種々の奇談を聞く。 西印度諸島の事、大抵 予が三四年前 親く見し所に合(あわさ)り、氏 秘魯国に住しは 明治八年十二月にて、六週間計り留りし内 奇事有り。 平田某次郎と云ふ人、七十余歳と見え、其甥三十余と見えたり。 此老人 字は書けども、本朝の言語 多く忘却しぬ。 美津田氏一行 本邦人十四人有て、毎日話し相手に成し故、後に九分迄 本邦の語を能するに及び、此物彼品を日本にて何と言りや抔(など)問たり。 兵庫辺の海にて風に遭ひ 漂流しつ。 卅一人乗たる船中 三人死し、他は安全にて秘魯に著(着)せり。 甥なる男 當時十一歳なりし。
 其後 他は尽(ことごと)く没し、二人のみ残り、老人は政府より給助され、銀行に預金して暮し、甥は可なり奇麗なる古着商を営み居れりと。 老人も 以前は手工を営みし由、健全長寿の相(徴候)有て、西班牙人を妻(めと)れりと。 其 乗来りし船は、美津田氏一行が著せし三年前迄、公園に由来を記して列し有りしが、遂に朽失せぬ(「朽失せり」であろう)。 美津田氏一行 出立に臨み、醵金して彼人に与へ、且つ 手書して履歴を記せしめ、後 桑港(San Francisco、サン フランシスコ)に著するに及び、領事館に出せしに、秘魯政府に照会の上 送還せしむべしと也。 以後の事を聞及ばずと云ふ。 一行 「リマ」市を離るゝ時、老人も送り来り、名残惜げに手巾を振廻し居りしと、美津田氏等 桑港に著せし時、在留の邦人 纔(わずか)に三人、領事 柳谷と云ふ人 親ら旅館に来訪されたり云々。
   美津田氏は 質直上文の人なれば、仮名付の小説を能く読みたり。 其談話は 一に記憶より出し故に、誤謬も多少有るべきと同時に、虚構潤色を加る事無しと知らる。 又 予が日記には書かざれど、確かに美津田氏の言として覚ゆるは、件(くだん)の老人に帰国を勧めしに、最初中々承引せず。 吾等 既に牛肉を食ひたれば 身穢れたり。 日本に帰るべきに非ずと言ひしとか。

 件の美津田氏は、其後 二子(共に養子也。日記の文に一人は実子とせるは謬(あやま)り也。)倶に違背して 重き家累を生じ、自ら帰朝するを得ず。 更に 「もと」と名くる一女(邦人と茶種との間種(この意味、不明)、芳紀十五六、中々の美人也)を養ひ、龍動にニ三年留り居、予も一二回訪しが、其後の事を知らず。 右の日記に書留めたる外にも、種々 平田父子の事を聞きたるも、予 只今記憶悪く成て、一筆も留めざるは遺憾 甚し。 近頃 柳田國男氏に問合せしに、柳谷謙太郎氏 明治九年十月九日より十六年三月三十一日迄、桑港領事として留任せりと答へらる。 因て考るに、美津田氏一行、九年正月中 「リマ」を出立し、諸方を興行し廻り、其年十月後 桑港に著きたるならん。 「ブラジル」 「アルゼンチン」 等に到りし話も聞きたれば、斯く思はるゝ也。

 序(ついで)に述ぶ、右の日記 二十六年七月二十二日の條に、
「美津田氏宅にて 玉村仲吉ちうきちに 面会す。 埼玉県辺の人。 少時 足芸師の子分と成り、外遊中 病で置去られ、阿弗利加沿岸の地 諸所多く流寓、十七年の間、或は金剛石坑に働き、又 「ペンキ」塗り抔(など)を業とせし由、 「ズールー」の戦争に英軍に従ひ出で、賞牌三つ計(ばか)り受用すと。 予も其一を 見たり。 白蟻の大窠等の事 話さる。 日本語 全く忘れしを、近頃 日本人と往復し、少しく話す様に成れりと。 龍動の西南区に 英人を妻とし棲み 二年有りと也」
と有り。 所謂 「ズールー」の戦争は、明治十二年の事にて、「ナポレオン」三世の唯一子、廿三歳にて 此軍中 蕃民に襲はれ犬死せり。 當時従軍の玉村氏 廿歳計りの事と察せらる。 日本人が早く南阿の軍に加はり、多少の功有りしも 珍しければ付記す。 明治二十四年頃、予 西印度に在りし時 京都の長谷川長次郎とて 十七八歳の足芸師、肺病にて「ジヤマイカ」島の病院にて 単身 呻吟し居たりし。 斯る事 猶ほ 多からん。

(大正元年十月 人類 二十八巻)




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