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表紙 |
目 次
画題としての詩仙 幸田 露伴 露伴翁を頌す 新村 出 京都帝大教官時代の露伴先生 青木 正児 幸田先生 阿部 次郎 露伴の運命観 岡崎 義恵 灯火汲水の労 幸田 成友 幸田先生 小宮 豊隆 幸田露伴先生(歌) 斎藤 茂吉 たゞに仰ぎて(詩) 佐藤 春夫 伊東の先生 佐々木茂索 太田の思ひ出 小宮 豊隆 隣人としての露伴先生 山崎 達男 露伴先生の眼 菅沼 明 雑記 幸田 文 曠野集の評釈について 土橋 利彦 自撰年譜 編輯後記 |
内容の一部紹介 |
伊東の先生
佐々木茂索 空白
先生にはじめて御目にかゝつたのは、いや 御見うけしたのは、かれこれ二十年の昔になる。 当時わたくしは 荊妻を連れて、伊豆の吉奈温泉に ものを書きに行つてゐた。 そのとき偶然 別の宿に先生の奥様が御滞在と聞いた。 先生はと訊ねると、先生は近々 奥様を御迎へにいらつしやる筈 といふことであつた。
わたくし達が引上げるのと、先生御夫妻の御帰京とが また同じ日であつた。 のみならず、修善寺へ出るバスも、そこから東京へ帰るのも、凡て同じ車室であつた。
わたくし達は先生だと知つてゐる。 しかし、先生の方では御存知ない。 幾度か吊乗つて出たいとも思つたが、そんな気軽なことは出来ない。 黙つて、失礼にならぬ程度で、先生に注意してゐた。
先生は バスの中でも汽車の中でも、風物の移り変る毎に 奥様に何事か説明して居られた。 伊豆の名産の山葵のことも 椎茸のことも、委しく説明して居られた。 当時は まだ丹那トンネルがない時代で、汽車は 沼津から御殿場を廻つて国府津に出るものだつたが、この沿線でも、名所にせよ 名物にせよ 何一つもらされたものはなかつた。 わたくし達は 唯々先生の博覧強記に感歎してゐるばかりであつた。
これから数年経つて、文芸春秋で 「先生に物を訊く座談会」を催した。 このとき、日本橋の浪華家楼上で、わたくしは始めて先生に引合せられたのである。 談笑のうちに、先年のことを申上げると、先生は莞爾とせられて、あ、さうでしたか、あのハイカラの奥さんと一緒で、とわたくしよりも荊妻ゆえに特に記憶して居られたらしい 御口ぶりであつた。
これを機縁に先生を御訪ねしたいと時々思ひ立つたが、こちらに用意も学問もなくて 「物を訊く会」が 一向ものを訊くことに成功してゐなかつた愧かしさも手伝つて、到頭 御邪魔せず仕舞になつた。
また幾年か経つて、先生が文化勲章を御貰ひになり、その祝賀会が東京会館であつた。 どういふ訳か わたくしの如きにも案内状が来たので 光栄に思つて当夜は席末をけがした。 会衆は七八十人位で 知つてゐる人も多かつたが、わたくしは小さくなつて 将棋の木村名人と専ら話をしてゐた。 先生の将棋の強いことは 以前から知つて居り、わたくしも少しは指すから 木村名人と将棋を中心にして先生の御噂を食卓の片隅でしてゐたのである。 主卓では次ぎ次ぎに人が立つて 先生の文勲を讃へてゐた。 聞いてゐると、誰も彼も実によく先生を愛読してゐる。 わたくしは 先生を崇敬することでは人後に落ちぬつもりだが、この人々ほどには先生を読んでゐないなと、また赤面した。 これぢや 到底小石川へ御邪魔にあがる資格はないとあきらめた。
それからまた何年か経つた頃、友人水中子(この友人に対する筆者独自の愛称であろう)が ちよいちよい先生のところへ御邪魔して 色々と御話を聞いて来ることを知つて、実は驚きもし 羨ましくも思つた。 それで今度は 水中子の蔭にかくれてわたくしも御邪魔してみようかと思つたりしたが 結局やめることにした。
昭和十九年になつて 文芸春秋の牧義子(前出「水中子」と同様の愛称であろう)が来て、今のうちに先生から聞けることは聞いておきたい、それに就ては先生を伊豆の何処かの温泉にでも連れ出す必要がある、さういふ費用を社が出すだらうかと尋ねた。 わたくしは、出すだらうから話してみたまへ、若し出さんなら わたくしが立替へてもよい、君の立派な仕事になるのだから やりたまへと答へた。 わたくしは前年から伊豆に隠居してゐて、副社長といふ肩書だけで 実務は何の関係もなかつたのである。 だが 此話はそれなりで 牧義子は東北へ疎開してしまつた。
戦争も終つて 昭和二十年の秋、先生が疎開先から伊東へ来られたといふことを知つた。 隣家の車谷子が先づ知つて 教へてくれたのである。 車谷子(これも前出同様の愛称であろう)は、先生は おそばが好きだから、おそばを持つて行つたら 大変およろこびになつたと云つた。 わたくしも 何かよろこばれるものを持つて行きたいものだと思つた。 よしんば さういふものが入手出来なくても、例へば避暑地などで、気軽になじみになり易いのと同じ心理で、わたくしは狭い伊東同志だといふただそれだけのことで、今度はいよいよ先生を御訪ねしようと 簡単にきめた。 それでも まだまだ引込思案でゐると、車谷子が 先生は腎臓がお悪くてそれには牛乳が相当量欲しいのだがどうかならぬかと云つて来た。 わたくしは喜んで、町の有力者に話して 兎も角 牛乳が入手出来るやうにした。 大臣なんかばかり大事にしたつて仕方がないよ、かういふ先生を粗末にほつておいては伊東町の不吊誉だよといふ様な、つまらんことを町長や助役に云つた。
こんなことがあつても まだ伺ひそびれてゐると、先生の召使はれてゐる老婦人が拙宅へ御禮に見えた。 これには弱つてどうしようかかと思つてゐると、友人 鈊達子(これも筆者独自の愛称であろう)が芭蕉真蹟といふ幻住庵記を持参して、これを先生に御見せして呉れないかといふ。 あれこれ御邪魔する理由が出来たので、それで 決然先生を御訪ねした。 昭和二十年十二月二日のことである。
松林館といふ宿の二階、二畳の次の間から通ると、先生は白い絹の寝巻で 褥上に坐つて居られた。 文化勲章以来だから 十年ぶりで御目にかゝるのである。 先生は老いられた。 赧ら顔、白い髯。 子供じみた形容を申して恐れ入るが、わたくしは帰宅すると、先生は仙人みたいだと荊妻に云つた。 荊妻も 先生が快よくいろいろ御話し下さつたことを聞いて、ひどく喜んでゐた。
先生は わたくしの持参した幻住庵記を展べられたが、視力は既に その細書を御読み分けになれぬらしい。 暫く手にして居られたが くるくると巻かれた。 先生は わたくしが真贋を質しに持参したものと思はれたらしい。 さういふ風のお口ぶりに恐縮したので、急いで大声で、御退屈しのぎに御目にかけたに過ぎない と断つた。 先生は 甚しく耳が遠くなつて居られるのである。 先生は笑はれて、耳も目もだめになつたのでね といふ風に云はれて、お話は自然に 幻住庵記を中心に流れ出した。
流布する活字本と、この芭蕉真蹟といふ一巻とは 文字の相違などもあるので、そんなことから、記の中の翠薇などを早速取上げられ、翠薇は山のよいかげんに高いところを謂ふので、薇に山冠を附けたりするのはサルだよと云はれた。 (高声を張り上げて聞き返すのも憚られたので そのまゝにしたが、サルとは猿であらうか、猿とは猿智恵といふほどの意味であらうか、わたくしは其時 そのやうに解しておいた。 薇の字から 微に移つて、首陽山の薇を ワラビ と邦訓してゐるが、伯夷叔斉だつて ワラビを喰つて生きてゐられるものじやない。 あれは野豆の一種だよ。 薇は さるすべり といふもの、銀薇は 白いさるすべり さ。 一体 文字といふものは 訳の分つたもので 草冠にしたところで 艸は下から持つて行つたので 竹は上から持つて来ただけのことさ。 後世のサルが別のものだと誤つたから 艸は著にして 竹冠は箸にしたりしたのさ。 着著箸みな いちじるし さ。 (かういふ御話が滾滾と続くのだが ノートは持つてゐず、持つてゐても取出すのは非礼であらうし、素手で受けとめる用意はなし、殆んど身につかなかつた。 記憶に残つたのをこゝに書いてはみたものゝ 誤解がさぞ多からうから この辺でやめておく。)
先生は 話の途中でくたびれられたか 老婢の手伝ひで 横になられた。 其間に部屋を見廻すと、どうやらこの部屋は陽光も十分でない模様で、雨もりでもしたのか、ひとゝころ 畳のぐずぐずになつたところなどもあり 其処に尿瓶めいたものがおかれ ご起居の上自由がまざまざと分つた。 書籍は 僅かに両三冊、床の間にあるきりであつた。 この時は 一時間ほど御邪魔して辞した。
それから数日して 武者さんが暖香園に来られたので 今度は一緒に先生を御訪ねした。 武者さんの声はよく透るし、それに話好きだから わたくしは殆んど傍聴してゐる形ちであつた。 話柄は主として時勢のことであつた。
それから また数日経つて 某日ぶらりと武者さんが拙宅へ来られて、けふ先生を訪ねて来たと 其あらましを語られた。 それによると 先生は今月末を以て一先づ市川の仮宅に引上げる筈だが、出来るなら三月頃迄は伊東に滞在したいと語られた由。 文子が来いと云へば行かねばなるまいがと、甚だ心残りらしかつた由。 わたくしは 武者さんの話を聞いてゐるうちに 何か心がくらくなつて来た。 武者さんは けふは拙宅へ陶器などを見に来られたのだが、どうも興味が起きぬらしく、しきりに先生のこと、経済問題、世相などを話した。 この日は 土橋利彦氏も来られて、先生はけふは非常に元気だと告げた。 土橋氏とは初見である。
翌日 わたくしは先生を訪ねた。 先生は けふも甚だ御元気に御見受けした。 土橋氏とも 伊東を引上げられることに就て話し合つて 辞した。 当地で越年されることになつたらしかつた。
大晦日に年末の御挨拶に伺つて 御上自由だと聞いて 餅など御恥しい程 少々御届けした。 拙宅でも 今朝やつと搗けてきた始末である。
明けて昭和二十一年、元旦に伺ひそびれると そのあとは客来が続いたりして、つひ御無沙汰してしまひ、十六日になつてやつと御訪ねした。 この日も先生は御元気で、先日は将棋を指したと云はれた。 盤も駒も粗末なものでと云はれるので、すぐ近所の石龍子(これも前出同様の愛称であろう)のところから やゝ上等のを借りてお届けしたりした。 そのうち 先生のますます御元気の機に、一番御願ひしたい下心があつたのは 勿論である。 いづれにせよ 将棋を指されるやうになられたのは、ひどくうれしかつた。
一月二十五日であつた、土橋氏が来訪して 幸田延子さん(露伴の妹、音楽家)が危篤になられたから 先生は明日にも引上げられるかも知れない と告げた。 わたくしは驚いて 翌日先生を訪ねた。 先生は愈 明朝を以て当地を引上げられ 途中令妹を見舞れて 其儘市川へ赴かれることに決つた由。 先生は歩行が利かない。 東京での乗物はどうであらうか。 土橋氏に嘱せられる儘に 東京へ電話を試みたが どうしても通じない。 後日聞くと 相手の菊池寛氏の電話は まだ復旧してゐないのであつた。
翌二十七日 わたくしは一番列車で上京、すぐ菊池邸に赴いたが 折悪しく日曜で 運転手がゐないといふ。 菊池氏は其辺で偶然見つかるかも知れぬから 探しに行かうといふ。 二人で雑司谷の大通りに立つたが 一台も通らぬ。 その間に 菊池氏は 文芸春秋を休刊にしようと思つてゐるといふ風なことを云つた。 わたくしは 不賛成の旨を答へたりした。 そのうち 氏を訪ねて来た婦人も加つて やつと通りかゝつたトラックを呼びとめ、九段下の旧軍人会館へ走らせた。 こゝには氏の知る進駐軍の軍医が居り、この人に頼んでアンピュランを出して貰はうといふわけである。 必ず出して呉れるといふ菊池氏の保証であつたが、折りの悪い時は悪いもので 其人もゐないのでは どう仕様もない。 わたくしはがつかりした。 着流しの上にオーヴアを羽織り、有合ふ靴をつつかけてといふ風体で、トラックに乗つてこゝまで来て呉れた菊池氏に厚く礼を述べて わたくしは新橋駅へ急いだ。 ガードのあたりで拾へるかも知れぬと探したが それも見つからぬままに時間が来たので、わたくしは駅上まで馳けて行つた。 着いたばかりの列車から 先生は土橋氏に背負はれて 下りて来られた。 土橋氏の父君が荷物を持ち 駅員も親切に手伝つてゐた。 先生は 一先づ駅長室の長椅子の上に横になられた。 着物の裾から足が寒そうに出て 足袋がむやみに白い。 土橋氏は持参の小夜着を まめまめしくきせかけてゐる。 一月といふのに 此の大きな男子の額に汗がたれてゐた。
わたくしは土橋氏に委細を告げて、二人は急いで 何等かの手段を講じに外へ出た。 丁度 人力車が二台来た。 交渉すると 承知した。 先生を また土橋氏は背負つて来て お乗せした。
かうして先生は、先生が若い頃にお乗りになつた古風な人力車で、焼跡の寒い風の中を 紀尾井町(前出・幸田延子が入院中の病院所在地)の方へ遠ざかつて行かれた。
終
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