らんだむ書籍館


表紙


目 次


   般若心経第二義注       幸田 露伴

   露伴先生の思ひ出       和辻 哲郎
   露伴先生と科学        中谷宇吉郎
   露伴のこと         なかのしげはる
   幸田成行先生御病歴、其他   武見 太郎
   終 焉             幸田 文

   露伴翁の言語研究       新村 出
   露伴の七部集評釈       頴原 退蔵
   蕉句、李詩、露注       鹽谷 賛
   露伴の輪廓          片岡 良一

   露伴先生行迹



「文學」
 昭和22年10月号 第15巻第10号
 露伴追悼号

 昭和22 (1947) 年10月20日、 岩波書店。
 A5版、紙装。 本文 66頁。


 この年、昭和22 (1947) 年に逝去した 幸田露伴についての、 「芸林閒歩」 第二巻第六号(1946年刊) に続く、追悼・記念号である。

 本号の一部紹介としては、和辻 哲郎「露伴先生の思ひ出」を掲げる。




内容の一部紹介




露伴先生の思ひ出

和辻 哲郎     空白

 関東大震災の前数年の間、先輩たちにまじつて 露伴先生から俳諧の指導を受けたことがある。 その時の印象では、先生は実によく物の味の解る人であり、またその味を 人に伝へることの上手な人であつた。 俳句の味ばかりでなく、釣りでも、将棋でも、その他人生のいろいろな面について さうであつた。 さういふ味は 説明したところで 他の人に解るものではない。 味はふのは それぞれの当人なのであるから、当人が味はふはたらきをしない限り、ほかからはなんとも致方がない。 先生は 自分で味はつて見せて、その味はひ方を他の人にも伝染させるのであつた。 例へば 解りにくい俳句などを「舌の上でころがしてゐる」やり方などがそれである。 解らうと焦つたり、意味を考へめぐらしたりなどしても、味は出てくるものではない。 だから 早く飲み込まうとせずに、ゆつくりと舌の上でころがしてゐればよいのである。 そのうちに、おのづから 湧然として味が解つてくる。 さういふやり方が、先生と一座してゐると、自然にうつつてくるのであつた。 そのくせ 今残つてゐる感じからいふと、「手を取つて教へられた」といふやうな気がする。
 先生の味解の力は非常に豊富で、広い範囲に亙つてゐたが、しかし 無差別になんでも味はふといふのではなく、かなり厳格な秩序を含んでゐたと思ふ。 人生の奥底にある厳粛なものについての感覚が、太い根のやうにすべての味解を支へてゐた。 従つて 味の高下や品格などについては 決して妥協を許さない明確な標準があつたやうに思はれる。 外見の柔らかさにかかはらず 頸つ骨の硬い人であつたのは その故であらう。
 何かの折に、どうして京都大学を早くやめられたか、と先生に質問したことがある。 その時 先生は次のやうなことを答へられた。 自分は江戸時代の文芸史の講義を頼まれたわけだが、いよいよ腰を据ゑてやるとなると、自分の好きな作品や作家だけを取り上げてゐるわけには行かない。 御承知の通り 江戸時代の戯作者の作品には実にくだらないものが多いが、あゝいふものを一々真面目に読んで、学問的にちやんと整理しなくてはならないとなると、どうにもやりきれないといふ気がする。 それよりも 自分の好きなものを、時代の如何を問はず、また日本と外国とを問はず、自由に読んでゐたい。 さういふわけで まあ 一年きりで御免を蒙むつたわけです。
 先生のあげられたこの理由が、先生の大学に留まられなかつた理由の全部であるかどうかは、わたくしは知らない。 しかし もしそれだけであつたならば、まことに惜しいことをしたと わたくしはその時に感じた。 先生が好きなものを自由に読んでゐられても、江戸時代の文芸史の講義ができなかつたはずはない。 況んや 先生の眼から見てくだらない作家や作品は、ただ吊前をあげる程度に留めて置き、先生が価値を認められる作家や作品だけを大きく取り扱つたやうな文芸史ができたならば、反つて非常に学界を益したであらう。 日本の文芸の作品は 世界的な広い視野のなかで もつと厳重に淘汰されてよいのである。 先生が思ひ切つてそれをやらうとせられなかつたことは、今 考へても 惜しい気がする。
 先生が京都で講義せられてゐたときのことを 後に成瀬無極氏から聞いたことがある。 成瀬氏は 大学卒業後まだ間のない頃であつたが、すでにドイツ文学の講師となつて居り、同僚の立場から先生を見ることができたのである。 氏によると、先生は非常にきちようめんで、大学の規定は 大小となく精確に守られた。 同僚の教授たちが怠けて顔を出してゐないやうな席にも、規定とあれば先生は必ず出席せられた。 何かの式であるとか、学友会の遠足であるとか、すべてさうであつた。 そばから見てゐると、あれでは窮屈でとても永続きはしまいと思はれた、といふのである。 先生は 学問の上においても同じやうにきちようめんな態度を取らうとして、それが窮屈なためにやめられたのである。 わたくしは その頃の京都大学の空気を知らないから、このきちようめんさが 外からの要求なのか、或は先生自身の内から出たのか、それを判断することはできないが、晩年まで衰へることのなかつた先生の旺盛な
探求心のことを思ふと、あのとき先生が大学の方へ調子を合はせようとせずに、自分の方へ大学をひき寄せるやうにせられたならば、日本の学界のためには 非常によかつたらうと思はれる。
 もっとも あの時代には、大学などを尻目にかけるといふことが 非常にいさぎよいことのやうに感ぜられた。 少くとも われわれ青年にとつてはさうであつた。 それほど学界のボスの現象が顕著であり、さういふボスに接近する青年たちは、当時の流行語でいへば、シュトレーバーだと見られた。 その後 三四十年の歴史が実証したところによると、さういふ青年の感じ方は 間違つてはゐなかつたといへる。 だから 先生がいち早く身をひかれたのは いかにももつともなのであるが、しかしまた それだけに先生の廓清的な仕事の余地もあつたのである。

 先生の探求心が晩年まで衰へなかつたことの 一つの証拠は 『音幻論』であるが、伝へ聞くところによると、先生 はあれを病床で口授せられたのだといふ。 先生は丹念にカードを作る人であつたから、調べた材料は相当に整理せられてゐたのでもあらうが、しかし あゝいふ引例の多い議論を病床で口授するといふことは、どうも驚くのほかはない。 恐らく あの問題を絶えず追ひかけてゐるうちに、頭のなかで議論のすぢ道ができ上つてしまつたのだらうと思ふ。 これは よほど粘り強い、頑強な探求心のしわざである。 勿論 そこには われわれの思ひも及ばない旺盛な記憶力が伴なつてゐるではあらうが、しかし 記憶力だけでは反つて雑然としてまとまりがつかないであらう。 雑多な記憶材料に一定の方向を与へ、それを整然とした形に結晶させた力は、あくまでも探究心である。
 言語の問題に関しては 先生はいつも活発な関心を持つてゐられた。 わたくしの僅かな接触の間にも、この問題について折にふれて教へられたことは、かなり多く記憶に残つてゐる。 漢字をいきなり 象形文字と考へるのは非常な間違ひで、音を写した文字の方が多いこと、同じ音で偏だけ異なつてゐるのは 偏によつて意味の違ひを表示したもので、発音的には同一語にほかならないこと、従つて一つの音を表示する基準的な文字があれば、象形的に全然つながりのない語に対しても、同音である限りその文字が襲用せられてゐること、などは、わたくしは先生から教はつたのである。 子供の時以来 漢字や漢文を教はつて来てゐても、右のやうな単純明白なことを 誰も教へてくれなかつた。 英語の字引をひいて must(1) must(2) などとあるのを面白がつてゐた年頃に、もし漢語を同じやうに写音文字にすれば、(1) (2) どころではなく (1) から (20) 、否 (30) ‥・ (50) と並べなくてはならないのだと知つたならば、よほど漢字に対する考へ方が違つてゐたらうと思ふ。 そこには 漢語のやうな単音節語特有の困難な事情がある。 日本語は 単音節語ではないのであるから、右のやうな困難を背負ひ込む必要はなかつたのである。
 さういふ類のことは 日本語についてもいくつか聞いたと思ふが、それらは大抵 『音幻論』のなかに出てゐるらしい。 そこに出ていないと思はれることで さしづめ思ひ出すのは、「なければならない」といふ言ひ廻はしについて 先生のいはれたことである。 この言ひ廻はしがひどく目立つて来たのは、ちやうど関東震災前後の時代からであつた。 先生は 「この上思議な」言葉がどこから出て来たかを色々と考へて見たが、どうもこれは 「なけらにやならん」といふ地方訛りをひき直したものらしい、といはれた。 この着眼には わたくしは少なからず驚かされたのである。 わたくし自身も この言ひ廻はしが著しく目立つて来たことには気づいてゐたが、しかしこれが格はづれの用法であるとは 全然思ひ及ばなかつた。 先生の説明によると、 「なければ」は 「なくあれば」のつまつたものであるから、「ならない」で受けることはできない。 「あつてはならない」 「なくてはならない」といふことはいへる。 しかし 「あればならない」 といふ人はなからう。 「もしさうでなければ かくかくであらう」といふのが 「なければ」の普通の用法である。 それは、「もしさうであれば、かくかくでなからう」といふ用法と対になる。 もつとも 後半の受ける方の文章はどう変つてもよいのであるが、とにかく 「なければ」 「あれば」 は 一つの条件を示す言葉であるから、それを「ならない」で受けることはできない筈である。 これが先生の主張であつた。 わたくしは いかにももつともだと思つた。 その後 わたくしは自分の書いたものを調べて見たが、やはり ところどころに使つてゐることを見出した。 さうして 「どこまでも追及して見なければならない」 といふ風な言ひ廻しが、 「どこまでも追及して見なくてはならない」 といふのと 幾分違つた語感を伴ふに至つてゐることをも 認めざるを得なかつた。 先生が 「なければならない《」 といふ言葉に出会ふごとに感じられたやうな 上快な感じを、わたくしたちは感じないばかりか、そこに新しい表現が作り出されてゐるやうにさへ感じてゐたのである。 しかしわたくしは、一度先生に注意されてからは、この言ひ廻しを平気で使ふことができなくなつた。 それでも上用意に使ふことはあるが、気がつけば直さずにはゐられないのである。 さういふことを わたくしはほかの人にも要求しようとは思はない。 どんな破格な用法を取らうと、それはその人の自由である。 日本語の進歩も 多分さういふ破格な用法からひき起されるのであらう。 さうあつてほしい。 しかし わたくしは破格を好まない。 さういふ点で 露伴先生の鋭い語感は 実際 敬服に堪へないのである。

 晩年の露伴先生に対しては、小林勇君(岩波書店幹部で、文筆家)が実によく面倒をみてゐた。 先生も恐らく 後顧の憂のない気持がしてゐられたことと思ふ。
 小林君の話によると、先生は最後に呵々大笑せられたといふ。 わたくしは それが先生の一面をよく現はしてゐると思ふ。



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