らんだむ書籍館



表紙



目 次


表紙画(平福百穂)
アララギ二十五巻回顧 (斎藤茂吉)
アララギ二十五巻概要
    ○
祝詞        (徳富猪一郎)
馬上顧聘の常勝将軍 (高島米峰)
短歌について    (西田幾多郎)
書翰        (吉村冬彦)
交遊二十年     (阿部次郎)
二十五周年を迎ふる「アララギ」
          (木下杢太郎)
アララギの伝統    (田邊 元)
京城より       (安倊能成)
「アララギ」     (小宮豊隆)
伊藤左千夫を怒らした話(森田草平)
文芸復興精神    (野上豊一郎)
アララギと私     (森田恒友)
オブザーバーとして  (山本実彦)
四分の一世紀     (柴田勝衛)
蕪    詞     (掛谷宗一)
天気にちなんだ歌   (藤原咲平)
島木先生のお墓   (正木上如丘)
雑    感    (岩波茂雄)
十余年前のアララギ  (池崎忠孝)
嗚呼二十五年    (佐藤春夫)
    ○
賀アララギ発行満二十五年歌(井上通泰)
アララギ二十五周年寿詞 (佐佐木信綱)
アララギの次の飛躍に餞す (久保ゐの吉)
アララギの二十五周年   (品田太吉)
祝    辞    (武田祐吉)
所    感    (澤潟久孝)
アララギ一号の記念写真を見つつ
           (正宗敦夫)
「阿羅々木」創刊の前後 (斎藤昌三)
学究的な一瞥     (小島吉雄)
小    感     (石榑千亦)
書    簡     (香取秀真)
創 業 の 難      (赤木格堂)
アララギ創業時代の思出 (石原 純)
研究題目覚書     (土岐善麿)
アララギの完成     (前田夕暮)
アララギの過去と将来  (川田 順)
「アララギ」と私     (相馬御風)
十九春詩集の中から   (室生犀星)
「アララギ」余論     (朊部嘉香)
アララギ随感     (尾山篤二郎)
我が感動       (依田秋圃)
思ひ出一二      (半田良平)
アララギ諸家の近業について(宇都野研)
今後のアララギに望むもの (尊馬完治)
アララギむかし話     (氏家 信)
アララギの現実主義   (西村陽吉)
アララギ、中村憲吉君、私 (吉椊庄亮)
あの頃の「アララギ」   (矢代東村)
「アララギ」の思ひ出   (浅野梨郷)
余 所 言       (臼井大翼)
アララギの現実的傾向に就て (早川幾忠)
アララギと私との関係  (岡野直七郎)
表現主義と斎藤茂吉氏 (岡山 巌)
アララギに関する私感  (大澤雅休)
思出一つ二つ     (三田澪人)
長崎の思ひ出を中心として(大橋松平)
悠久的な存在     (若山喜志子)
アララギの人々     (中河幹子)
一人の見た過現未   (釋迢空)

アララギ故人評伝
 (故人27名についての評伝。--省略)
    ○
アララギ気魄      (西尾實)
思ひ出るままに     (山宮充)
純文芸の伝統のために  (倉田百三)
斎藤茂吉先生と郷里とその歌(石川確治)
アララギの感       (蕨橿堂)
アララギの萬葉集復興に就いて(森本治吉)
アララギに対して     (小川千甕)
読アララギ十年     (矢沢邦彦)
思出         (両角雉夫)
二十五周年を思ひて  (清水謙一郎)
アララギ偶感      (金原省吾)
アララギは私の恩人    (横山重)
アララギ発達の由来   (藤沢古實)
アララギと私      (今井邦子)
思ひ出すままに     (築地藤子)
アララギと私      (中島哀浪)
アララギ的立場の限界について(大熊信行)
    ○
各地アララギ歌会略史 (省略)
    ○
アララギ叢書解題     (岡田眞)
沼津短歌会に就きて   (槙上言舎)
犬蓼短歌会の思出    (柳本城西)
行路詩社及び米吉忌   (廣野三郎)
六、七巻頃の思出断片  (飯山鶴雄)
追憶と小感      (鹿児島壽蔵)
追憶          (屋敷頼雄)
思ひ出       (奥村政治郎)
隻語録         (寺澤亮)
アララギの広告      (市毛豊備)
京都時代の思出     (西村俊一)
思ひ出すこと       (關卯一)
回想          (松島義治)
仙台アララギ会の思出   (藤森朋夫)
アララギの会員      (小野三好)
寸感          (村田豊作)
小感         (山中範太郎)
赤彦の手紙       (青井禊)
備後甲山町アララギ歌会の追憶(高木密二)
海外に在りて       (埴科史郎)
ジヤバより        (舟木愛子)
故会員石川孝君     (加藤七三)
アララギと神戸      (神田矩雄)
アララギ入門の頃      (辻村直)
北山へ来られた頃の左千夫翁(両角竹舟郎)
    ○
根岸短歌会の頃     (岡 麓)
苦境時代のアララギ    (平福百穂)
アララギ前半期の思ひ出  (中村憲吉)
    ○
編輯所便 其一     (斎藤茂吉)
編輯所便 其二     (土屋文明)
    ○
アララギ二十五巻作者総索引



「アララギ」
  二十五周年記念号


 昭和8 (1933) 年1月 発行。
 発行所 アララギ発行所。
 発売所 岩波書店。
 縦 23cm、横 15cm、本文 803頁。



 「アララギ」は、正岡子規(1867~1902)の没後、その門人達によって創刊された 短歌雑誌である。
 はじめ、伊藤左千夫が中心となり、その後、長塚節・斎藤茂吉・島木赤彦・中村憲吉・土屋文明 等に引き継がれた。


 「本文の一部紹介」としては、右の目次中にゴシック体で示した 西田幾多郎、岩波茂雄、奥村政治郎 の各文を掲げることとする。 なお、岩波および奥村の文中に 「久保田さん」「久保田氏」とあるのは、いずれも島木赤彦(本名:久保田俊彦)のことである。



本文の一部紹介





短歌について       西田幾多郎


 ベルグソン(Henri Bergson,?~1941,フランスの哲学者)は「創造的進化」に於て、動物的生命から植物的生命、さては物体運動の如きものに至るまで、物質面を破つて進展する飛躍的生命の種々なる形態を論じて、人間の生命は生命の大なる息吹であると云つて居る。 我々の生命と考へられるものは、深い噴火口の底から吹き出される大なる生命の焔といふ如きものでなければならぬ。 詩とか歌とかいふものは かかる生命の表現といふことが出来る。 かかる焔の光といふことができる。 物質面に突き当つた生命の飛躍が 千状萬態を呈する如く、生命には無限の表現がなければならない。 憙微たる暁の光も清く美しい、天を焦がす夕焼も荘厳だ。
 私は 何でも西洋の文物が東洋のものに勝れると考へるものでもないが、さらばと云つて 何でも東洋のものでなけらばならぬと考へるものでもない。 東洋の文化は東洋の文化として、西洋の文化は西洋の文化として、それぞれ他の有せない人間性の一面を現すものとして 尊いのである。 西洋画によつて南画の美を現すことができないと共に、南画によつて西洋画の美を現すことはできない。 而も 南画は南画として、西洋画は西洋画としてそれぞれに美しいのである。 自由な豊富な偉大なる芸術として、我々は西洋画の前に頭を下げねばならないと共に、南画は南画として 西洋画によつて現すことのできない深い人間性の一面を現して居ると思ふ。 我国の短歌とか俳句とかいふものは、文学上如何なる意義を有し、他の文学に比して如何なる位置に置くべきかの論は別として、兎に角 ユニック(unique)なものであると云ふことができる。 支那の五言絶句といふものも、短詩の形式に於てよく発達したものと思ふが、内容によつては 俳句の如きものによつて、同じ内容を一層よく言ひ表し得るとも考へることができる。 例へば、唐詩の 返照入閭巷、憂来誰輿語、古道少人行、秋風動禾黍(返照 閭巷に入る/憂来 誰と語らん/古道 人の行くことまれに/秋風 禾黍を動かす---唐・耿湋「秋日」)といふ詩は 「この道や行く人なしに秋の暮」(芭蕉)といふ句と殆どその内容を同じくするものと云ひ得るであらう。 西洋でもニ三行位の短詩といふものはないではないが、多くは概念的であつて、教訓的とか諷刺的とかいふものが多い。 短詩の形式によつてのみ言ひ表される 芸術的内容を言ひ表したものとして 我国の短歌の如くそれ自身の芸術的領域を有つものは少い。 短詩の形式によつて所有人生の内容を芸術的に表現するといふ如き芸術は、西洋には発達せなかつたと云つてよい。 短詩の形式によつて人生を表現するといふことは、単に人生を形式によつて人生を表現するといふことではなく、人生には唯、短詩の形式によつてのみ摑み得る人生の意義といふものがあることを意味するのである。 短詩の形式によつて人生を摑むといふことは、人生を現在の中心から摑むといふことでなければならぬ。 刹那の一点から見るといふことでなければならぬ。 人生は固より一つである。 併し 具体的にして動き行く人生は、之を環境から見るといふことと、之を飛躍的に生命の尖端から摑むといふこととは同一でない。 そのいづれより見るかによつて、人生は異なつた観を呈し、我々は異なつた意義に於て生きると云ふこととなるのである。 過去を忘れ未来を思はず、現在に即して見、現在に即して行ふと云ふのが 我々日本人の特徴である様に思はれる。 そこに 日本の長所もあれば、缺點もあるのであらう。 俳句は短歌よりも更に短いものであるが、俳句には俳句の領域があり、短歌には短歌の領域がある。 私は 短歌によつては極めて内面的なるものが言ひ表されると思ふ。 短歌は情緒の律動を現すものとして、勝義に於て抒情的といふべきであらう。
 嘗てホメロス(Homeros,古代ギリシャの詩人、ここではその作品)を読んで、私はその素朴なる中に、能く深い人情の機微に触れ、且つ事物の描写の精緻なるに驚いた。 ホメロス以来 文学は如何程進んだのであらう。 シルレル(Friedrich von Schiller,1759~1805,ドイツの詩人・劇作家)がホメロスは詩の海だと云つたのも尤もだと思つた。 萬葉といふものに就いて学ぶべき所は その純真なる所になければならぬ。 素朴的と云ひ客観的といふも、既に一種の外殻たるに過ぎない。 殊更らしい萬葉調は 却つて非萬葉的といふべきである。 我国の短歌といふものは 形式が簡単であるだけに 何人も容易に試み得る如くに考へられる。 併し それだけに却つて内容の充実したもの、鍛錬したものでなければならぬ。




雑感       岩波茂雄


 寿命の短い雑誌界に於て、アララギが二十五年も続いたといふ事は 気持のよいことである。 単に永続きしたといふばかりでなく、当初より一定の主張と上動の態度とを持し、俗にも媚びず世にも阿らず操守を一貫したといふことは 洵に尊いことでもある。
 今でこそ 誰もかれも萬葉を説くが、その流行らない昔に於て アララギ同人は萬葉を信奉する故をもつて 「かも」の連中などと冷笑されたものである。 當時として歌の終りに「かも」をつけることは珍しかつたのである。 しかし アララギ同人は側目もふらず萬葉に終始して、「かも」を歌ひ続けて来た。 精進の力は恐ろしいもので、「かも」を歌ふ者が一人ふえ、二人ふえ、今ではいやしくも歌を作る者は、「かも」をつけることが常となつて 昔 悪口を云つた者まで 競つてその真似をするやうになつた。 今日 萬葉全盛時代が出現してその精神が宣揚されその歌風が普及されるやうになつたのは 一にアララギの偉大なる功績によるものである。
 歌道に精進するアララギ同人の態度は 恐るべき程 厳粛である。 私は 新詩社の規約の中に「来る者は拒まず、去る者は追はず」 といふ一條のあつたことを記憶するが、アララギは来る者をも無条件には許さない程の厳格さを持つて居た。 入会を望んでも その人の歌道に対する真剣さに欠くるところがあれば、今少し勉強して来るべしと云つてこれをしりぞける。 彼はしきりにに来たがるが未だ会員にはさせられないといふことは 赤彦からしばしば聞かされたことである。 平福画伯なども門弟に対してなかなか厳しいさうであるが、すべてアララギの態度は会員に対し厳格であつて、今の学校の先生が生徒の機嫌取りをするやうな素振は微塵もない。 歌壇におけるアララギの態度は、教壇における故内村鑑三先生の態度に似通つてゐる。 多くの教会は会員の質を選ばず、数を多くするため頻りに洗礼などしたがるものだが、内村先生はこれに反し 一場の講演に列席させるにも一定の期間 自分の雑誌「聖書の研究」を読んだものでなくてはならぬと云つて 聴講の特権を与へなかつたものである。 然るに 来聴を歓迎する教会に集る者は少なく、聴講を拒絶する内村先生の講演には 数百人の信者が押かけて行くといふ有様であつた。 アララギも同様に峻厳なる態度をとりながらも、会員はいつの間にか増して 斯界の最高位となり、萬葉の歌風は一世を風靡し、同人の苦節二十五年は漸く酬いられて 今やアララギは歌壇の王座を占むるやうになつた。 過ぎし日 困難を排して辛うじて発行し その都度 久保田さんが十数部を携へて私の店頭に列べに来られた當時を顧みて 今昔の感に堪へない。
 軽佻浮薄な現代に於て アララギはめづらしい程 物堅い存在である。 愚直とでもいはるべき程 律儀な団体である。 私の店で碌碌発売の責務をはたさないのに、同人諸氏から口を揃へて感謝されるので 痛み入る。 当然の吾々の労力に対して、私及び店の者まで百穂画伯の絵を戴く如き 手厚きことをされて恐縮したこともある。 曽て結城哀草菓が山形県から始めて上京して、アララギ発行所に久保田さんを訪ねることがあつた。 上野駅に着するや 駅前より当時麹町にあつた発行所を訪ふべく電車に乗つた。 ところが 途中 神保町といふ車掌の声を聞くや 発車間際の電車から飛び降り、私の店を訪ねられた。 郷にある時から、アララギが岩波書店の世話になるといふことを聞いてゐたので 一言お礼を言はんが為に 俄に電車を降りて来たといふのである。 私はその初対面の結城さんのカルサン(袴(はかま)の横幅を狭くしたもの。西欧人の服装に倣ったもので、この語も外来語に基づくという)姿を 今でも忘れる事が出来ない。 かかる事が 現代式と甚だかけはなれたアララギの調子であり 歌風である様である。
 私とアララギとの関係は久保田さんに依つて親密に結ばれたのであるが、それ以前 一高時代本郷の盛春堂で「馬酔木」を見たことがある。 第一 名前のめづらしい点が注意をひいた。 貧弱な雑誌ではあつたが、犯すべからざる一種の風格を具へて居つたことを朧気に記憶する。 これがアララギの前身であることは ずつと後に知つた事である。 私は同郷の先輩としてまた親しい間柄の伊藤長七、矢島音次両氏などの友人の一人として 以前より久保田さんを知つてはゐたが 郡視学を止めて上京され、アララギに専念するやうになつてから一層親しくなつたのである。 此間に国へ行く時だつたか帰京の時だつたか判明しないが 二人で高崎まで汽車に乗つて来て、急に思ひ立ち 途を転じて伊香保に遊んだこともある。 又一緒に筑波山に登つたこともある。 久保田さんにたのまれてアララギの発売所となつたのは、私が古本屋を開業した翌々年の大正四年で、その前の年大正三年が私の処女出版、夏目先生の「心」を出した年であつた。 発売所になつたその年には 赤彦の「切火」も発行したのであつた。 その後ずつと 私はよく発行所に出入したものである。 代々木の原で落馬して 當時代々木にあつた発行所に担ぎ込まれた事件などもあつた。 また代々木の発行所で思ひ出す一つのことがある。 床の間に掛けてある萬葉仮吊の「寂志左乃極爾堪弖天地丹寄寸留命乎都久都九止思布(さびしさの/極みに堪へて/あめつちに/寄する命を/つくづくと思ふ)」 といふ左千夫の歌を久保田さんから読んでもらひ 非常に感激した事がある。 これは私の愛誦する陳子昂(初唐の詩人)の詩 「前上見古人後上見来者念天地之悠悠独愴然而涕下(前に古人を見ず/後に来者を見ず/天地の悠々たるを念ひ/ひとり愴然として なみだ下る)」と同様の境地を歌つたもののやうであるが、此歌は此詩よりも更に私の心境にせまるものがあつたから、赤彦から教へられ二度ほど口ずさんで 私は思はず涙を催したのであつた。 この歌は それ以来私の愛唱の歌の一つとなり、赤彦が書いて八ヶ岳の麓に建てられたその歌碑の石摺りは 今も愛蔵して居る。
 私とアララギとの関係は以上のやうな次第であるが、私は歌も作らないのに 何となくアララギ同人とは親類のやうな親しみを持つて居る。 気が合ふとか性が合ふとかいふ点があるらしい。 萬葉の精神や、写生の説は知らないが、自分の内部にアララギ精神と共通するものがあるのではないかと思ふ。 歌も作れない自分が、発売のことからアララギに関係し、又これを機縁として、岡、平福、斎藤、中村、土屋諸大人を初めとして、同人諸君子の知をかたじけなうするに至つたのは 自分にとつてこの上もなく幸である。 ただ 歌道に全生命をなげうち、アララギの為に心身を傾倒した赤彦が、多くの志を遺して早く此世を去つたことは如何にも残念であり、何としても淋しい。 アララギ今日の盛運を更に永久に支持して、彼の地下の霊を慰めることは 同人諸氏と共に自分の務めの一つであると思つて居る。
 人間の社会に武陵桃源は期待すべきでないかもしれないが、アララギの集団だけは少なくともそれに近いものである事が望ましい。 人生至るところ誤解あり、確執あり、虚栄あり、偽善あるが、アララギの領域だけはかかる繋縛から放たれて あくまでも純真であり、あくまでも素朴であり、自由と平和の溢るる歌壇に於ける清教徒の楽園であることを冀ふ。 万有の生々たる限り 天地に歌は尽きないであらう。 人の世に歌の滅びざる限り 私はアララギの成長を祈つて止まない。




思ひ出       奥村政治郎


 アララギの二十五周年を迎ふるに当つて、私のやうな者が誌上に感想を述べるのは、甚だ面はゆく感ぜられるのであるが、然し歌作を続けて来たと来ぬとに拘らず、又 作物の到れると到らざるとの別なく、苟も会員としてアララギに結ばれて来た者にとつては、此際 回顧してそれぞれに感慨洵に深いものがあるべきだと思ふ。 私は大正二年六月中旬の頃、諏訪へ遊びに行つて、久保田氏に勧められて会員になつたのであつた。 上諏訪布半旅館で、私は久々で顎鬚ののびた久保田氏の顔を見た。 その頃 郡視学の任に在つた久保田氏は「役所へ一寸行く用がある」といつて一旦去られたのであるが、暫くして電話で「待つて居るから来い」とあるので、旅館を出て巴屋といふ料理屋へいつてみると、久保田氏はそこに居られて、それから色々の話があつたのである。 「明治時代には信州からは一人のふりかへられるやうな人物を出さなかつた」と言はれたことや、藤村や女優須磨子の話の出たことも記憶してゐるが、アララギの歌風について教へられたことは 殊に深い感銘となつて刻まれたのである。 それからアララギ六月号を貰つて 小縣の任地へ帰つた。 翌七月には、ともかくも数種をものして送つた。 大正三年一月に、子供が重い病気をして、その時できた歌を送ると、久保田氏から葉書が届いた。 「御示しの歌 悉く面白く 詞よりも真実性の勝ち居候事 歌を生動せしむ 以後盛に御送り被下度候 アララギ少しの障りにてまだ出ず 遺憾に存候 併しもう近く出で可申候御感想御聞かせ被下度候 小生少し頭疲れ 深入りして考へる事出来ず 困入候」 とあつた。 自分はこの懇切なる激励の文面に対し 非常に感激したのであつたが、久保田氏は此頃 アララギの為に、随分と屈託をされ苦労をされて居られたことが察せられたのであつた。 久保田氏から退引ならぬ勧誘を蒙つて、私の諏訪郡へ転任することになつたのは 此年の四月であつた。 久保田氏の退職して、いよいよ東京へ移られたのは この月の十日であつた。 小石川上富坂いろは館に久保田氏を御訪ねして、その時 斎藤先生にも初めて御目に懸つて、御両人の御供をして某牛肉店へ行つたことをおぼえてゐるが 此年のことではないかと思ふ。 諏訪に居る間も、松本へ転じてからも歌は碌々作れなかつた。 松本で胡桃沢氏の御厄介になつたことは 忘れることが出来ない。 以後八九年間 歌作は全然中絶の姿であつた。 尤も 雑誌は見て居り 関心は失はなかつた。 長野に長く居る間に、同僚に松井氏あり小野氏ありしたのであるが、自分は駄目であつた。 久保田氏 大正十五年の三月没せられて、何とも言ひ得ない悲痛のおもひを味ひ、その年の八月 心を振ひおこして歌作を始め、土屋先生の御指導を仰ぎ、勉強しつつ今日に及んでゐるのである。
 上諏訪の巴屋の二階で、久保田氏から諄々と訓へられたことが、肺腑に徹してゐながら 何分続けて歌作ができなかつたことは遺憾であるが、二十年アララギから蒙つた恩恵は 実に深く大きいものであつたことを熟々思ふのである。 私は遅鈊な人間であるが アララギによつて歌作はしてもしなくても、生活態度の上に重大なる影響を受け、常に心の弛緩を許されないやうな雰囲気を感じ、アララギが自分に修養の道場であつたことを有難く思ふのである。 アララギの先輩先進は当初より、その標榜するところ、主張するところが明瞭であり、顕著なものであり、然してその標榜するところ主張するところに飽くまでも忠実であつて、これがために善戦と健闘とを続け来つたのである。 アララギの先輩先進は 実にその嚮ふべき目標を、その進むべき標準を、言論に於てまた歌作に於て示し教へて 後進を導き育んで来たのである。 歌の道に志す一人として、私は真に希求せざるべからざるものを アララギによつて希求し得て来られたことを衷心より感謝するものである。 萬葉を宗とせる正岡子規の短歌革新の大事業が、之を継承せる馬酔木、次で起れるアララギの苦行により 漸く達成するに至り、その歌風歌壇の主潮流をなすの地位を占め、勢力隆々として世を風靡するの概あるアララギが 今年満二十五年を迎へ、愈々無限に進展せらるべき前途の祝福さるるを慶び、これに連る者として、ますます奮起して悠久なる短歌道に向つて邁進すべきを思はざるを得ない。



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