ディドロの芸術論
高野敦志
ディドロの『サロン』の中で、最も面白いのは一七六七年に書かれた、プラトンのイデア説についての言及です。ディドロの論理は紆余曲折しており、慎重な読みを通してでなければ、彼の立場を的確に捉えることは出来ません。ディドロは一応、プラトンがたてた論理的図式を尊重します。それを簡略化すると、以下のようになります。
真理………個々の事物………作品
(第一段階)(第二段階)(第三段階)
この図式自体を、ディドロが信じているわけではありません。「しかし、第一のモデルは何処にあるのでしょう」と問い掛けているように、形而上学であるイデア説をそのまま受け入れてはいないのです。プラトンはこの図式を、芸術家を貶める武器にしました。ディドロの意見に最後まで耳を傾けないと、とんでもない誤解に陥ります。百科全書派の哲学者として理性を重んじ、先入観や盲信を鋭くついた彼が、プラトンの図式に沿って論を進めているのを見て、初め奇異な印象を得ました、というのも、プラトンの説では、何の根拠もなくイデアという架空の存在を想定し、この世界をそのコピーと考えるからです。その恣意的な前提に、現代フランスの哲学者、デリダはメスを入れていますが、ディドロほどの男がそれを鵜呑みにしているとは、ちょっと考えにくかったのです。
さて、彼の真意をつかむために、少しその論旨を追ってみることにしましょう。
「肖像画家と、天才であるあなたとの違いは、肖像画家が忠実に自然をありのままに表現し、好んで第三段階ら止どまるのに対し、あなたは真理、つまり第一のモデルを求め、努力を続けることで第二段階に達する、という点に本質的にあるのです」
こうして見ると、ディドロは我々の先入観を打ち破るために、プラトンの図式を援用しているに過ぎないことが、明らかになっていきます。
「美しい女の像を作りたい時、私はたくさんの女に服を脱がせます。女達はみんな、美しい部分と不格好な部分を見せてくれます。私は女達のそれぞれから、美しいものを取るのです」
ディドロは理想的な美を体現している女性が、この世に存在しているとは考えていません。現実の女性を写し取るだけだったら、単なる肖像画家、プラトンの図式では第三段階に止どまらざるを得ない、とするのです。そして、仮に理想的な美を想定したとしても、それは現実には何処か損なわれており、実在する個々の事物から優れた部分を抽出し、それを巧みに組み合わせることこそ、芸術家の使命である、と示唆しているわけです。この理想的な美はプラトンのイデアと似て非なるもので、それを創造するのは画家の方です。そこには、神の悟性が介入する余地は全くありません。デイドロの説く主張は、抽象的に聞こえるかもしれませんが、芸術家が美と対峙する際の秘訣を、端的に述べているのです。もちろん、イデア論に感じられる空疎な響きはありません。それを知らずに、古代芸術を模倣する芸術家に、ディドロは強い憤りを覚えます。
「古代芸術に基づいて自然を改良すること、それは見習うべき人を持たかった古代人とは、逆の道を辿ることです」
ここに至るまでの論の進め方は、実に見事だと言わざるを得ないでしょう。