『C神父』試論
高野敦志
ジョルジュ・バタイユの数少ない小説の中で、ここでは彼の思想との関わりが明確に読み取れる『C神父』について、ささやかな私見を述べてみることにしよう。人間の知性にとっての限界である「可能事の極限」に達することに、その生涯を捧げたと言っていいバタイユは、「未知」のことを「既知」の言葉に矮小化することなく把握しようと、その執筆活動を通じて格闘し続けたわけだが、「未知」の対象のうちでとりわけ不可解極まりないのが「死」の問題であった。「理性」ではとらえ切れぬ現象、例えば「恍惚」もその根源をたどれば「死」の問題と関わってくる。男女のセックス一つを取ってみても、それは孤立した自我意識の喪失を目指しており、その結果として子孫を残すということは、自身がやがて死にゆく存在であることを前提としている。にもかかわらず、人間は自らの死そのものを体験することは出来ない。それだからこそ、他人の死の中におのれ自身の死を見る「供犠」が、バタイユの関心を強くとらえたというわけである。相手を生け贄にするこの儀式を通して、その場に居合わせた者に死の効果が行き渡ることで、日常における自我の枠は打ち砕かれて、人々の間に「交感」が生まれてくるのである。この殺害行為は「悪の絶頂」へと彼らを否応なく追いやっていく。バタイユにとって悪によってもたらされる「交感」こそ、文学の生命を支える根幹なのであった。宗教がかつて担っていた役割を今や文学が負っている、という考え方が生まれたのも、「神の死」を唱えたニーチェ以降の時代に生きる我々にとって、人間らしく生きるには「交感」が不可欠であるという、バタイユの信念があったからに他ならない。
前置きはその位にして、実際に『C神父』の内容を分析していこう。1950年に刊行されたこの小説は、シャルルとロベールという双子の兄弟の物語である。その全体の構成に目を向ける際に、その入り組んだ内容に注目する必要がある。第一部は「刊行者の物語」で第二部・第三部は「シャルル・Cの物語」、第四部は「C神父の手記」、そして第五部がまた「刊行者の物語」である。なぜこのような複雑な構成で出来ているのか。その謎を解く鍵はどうやら、主人公が双子の兄弟である点に存するようである。そして刊行者は外部から二人の運命を観察する立場にある。物語の冒頭近くで双子の兄弟の関係は、以下のように歯に衣着せぬ調子で描かれている。
「ロベールは私(刊行者)を魅惑した。彼はシャルルを滑稽化したような瓜二つの人物で、いわば法衣に身をやつして打ちひしがれたシャルルだった」(1)
「私(シャルル)は目がきいて本心を偽り感じのよいこの男(ロベール)を見た。かつて私は彼のことを自分自身の分身だと考えていた。彼は聖職のおかげで、他人ならぬ自分自身を偽る力を得ていた」(2)
兄ロベールは聖職者であり、この小説のタイトルになっている『C神父』である。彼は自らの欲望を隠すのに長けており、偽善的な信仰生活を送っている。一方、弟のシャルルは兄を深く愛している反面、その偽善的態度が我慢ならず、兄を堕落させるためにさまざまな挑発を行い、結果的に破滅へと導いていくのである。
或る日二人は教会の塔に昇る。その時、幻覚にとらわれたシャルルは自殺未遂を犯す。第二部の初めに出てくるこの事件の描写では、バタイユの好んで使うおぞましい表現ばかりに目を奪われそうになるが、彼がそれを描こうとしたそもそもの意図を見失ってはなるまい。
「私(シャルル)は梯子で宙吊りになっていた。制服を着た死刑執行人に囲まれて、瀕死の状態となった兄を見た。怒りと息苦しさが入り交じり、際限もなくみだらな叫びをあげ、糞便をたらし膿を出して……新たな残忍さへの期待の中で、苦痛は著しく増大し……しかしこの感情の乱れの中で、神父への憐憫が脈打っていた。私自身息詰まりながら脈打っていたのだ。塔の中での墜落は、宇宙をめくるめく深淵に変えていた……私は実際に落ちた。しかし、からくも危ういところで神父が腕の中に私をとらえた」(3)
この場面においてシャルルはロベールを自殺の道連れにする誘惑にかられたのであるが、「兄への憐憫」によってそれを果たせなかったのである。自分一人で死ぬこともなく、かえって兄に助けられることによって。この一瞬の出来事においてシャルルの目には「死」が「めくるめく深淵」と映ったわけである。孤立した人間にとって時として死が魅惑するものとして現れることがある。例えば愛する人と別れるくらいなら、むしろ死を選ぶ若者が少なからずいるように。自我という閉塞状態から逃れるべく、シャルルは自らの分身であるロベールとの間にある壁を、何としても取り除こうとしているのではないか。たとえ二人の生命が危機にさらされようとも。悪こそ強烈な交感を打ち立てる、というバタイユの主張を、ここで思い出していただく必要がある。ロベールを破滅の危険に追いやることは、とりもなおさず、彼の偽善的な面の皮を剥がすことを意味する。そうして両者の断絶を解消することで、塔の底への墜落のわずかの間、彼との一体感を得ようとしたのではないか。一瞬の恍惚のために兄の命までを犠牲にしようとする欲望には、『内的体験』で語られている「供犠」のテーマが、ほとんどそのままの形で現れていると思われる。仮に兄を殺害するだけであったら、シャルルは一瞬の恍惚の後にまたこの世界に一人取り残されてしまうだろう。この恍惚が一過性のものではなくなるためには、供犠によってロベールとともに、シャルル自身も死ぬ必要があるに違いない。ただし、恍惚を感じる主体も失われれば、すべては無に帰するだけかもしれないが。こうして死の誘惑に駆られたことで、ロベールとの断絶を解消しようというシャルルの欲望は、否応なく高じていくことになるのである。そこで直接相手の生命を危険にさらさずに、精神的に破滅させようという試みがなされていく。つまり、兄を自らが生きている破廉恥な世界に引き摺り下ろすことで、聖職者としては命を絶たれるように。物語の前半で描かれているシャルルの意図は、二人の生を保ちつつ放縦な世界において連帯感を得る、という点にある。そこまで読み進めたところで、この二人が双子の兄弟であることを忘れてはなるまい。シャルルにとってロベールは、自らの意識の内部に存在する不透明な部分、としてとらえられている。分身であるロベールにそれが投影されているわけである。ロベールの偽善的態度によってそれが不透明と映っていることと考え合わせれば、それを暴くことによってシャルルの意識は疎外状態から抜け出せるのでは、という推測が成り立つ。
ここで『エロティシズム』で提出された、「禁忌」と「侵犯」の弁証法を思い出してみよう。消極的な感情に支配された時には「禁忌」に従い、感情が積極的な時にはそれを「侵犯」する、という。ところで一人の作家の小説を、その思想的背景から解釈する際には、それなりに慎重な態度が要求されるのが常である。彼の説く抽象概念を登場人物にそのまま当てはめて考えるほど、安易な解釈はないとの批判も十分に心しておく必要がある。ただし、バタイユのように文学作品と思想的な著作が相互に緊密に関わり合っている場合、小説を独立したテクストとして扱うことも出来ないわけだ。登場人物の行動がいかなる思想的背景のもとに展開されるか。これはあくまで仮説に基づく推論であって、文学作品を解釈する上でのヒント以上の価値はない。とは言っても、その仮説によって作品がうまく説明できた場合、それは読みの一つの可能性として提示する意味はあるだろう。こうしたことを考慮に入れた上で、ロベールとシャルルの兄弟の運命を、『エロティシズム』が提起した問題の観点から読み直してみよう。聖職者として自らの情熱を隠し、社会一般の道徳に基づいた「禁忌」に従うロベール。破廉恥な生活をも厭わずに、「禁忌」を「侵犯」することで、情熱に身を任して生きるシャルル。「禁忌」と「侵犯」という概念を、仮に二人に当てはめて論を進めていくことにしよう。
ロベールをいかに堕落させるか。シャルルの関心はかねがねそこに集中していた。そこで彼はロベールに、娼婦エポニーヌと肉体関係を持つように迫るのである。なぜなら先に述べたようにロベールが、「信心家の歓喜という孤独」に閉じ籠もっていたからである。シャルルの分身であるロベールの面の皮をはがすことで、シャルルの心理も疎外状態から解放されるはずである。『内的体験』に関わる問題について、再びここで触れておかなければならない。孤立した人間は自我という閉塞状態から逃れるために、「一つの対象」を求めるのを余儀なくされる。孤独であるのはロベールの場合とて変わらないのだが、彼においては「信心家の歓喜」が、そうした認識を妨げているように読みとれる。一方、率直なシャルルは、その「一つの対象」としてロベールを選んだものと考えられる。というのは、自我はおのれの外部でしか解放されないからである。ただし、この場合の対象は「自分の情熱から生み出したものである」ともバタイユは書いている。ここでは『C神父』が双子の兄弟の物語であることを思い出しておこう。『内的体験』で語られた「一つの対象」が、もはや外部と感じられないほど自身に近接した場合、自我の解放はやはり不可能となるだろう。その「一つの対象」が自身から余りに遠い存在である場合には、この対象は自我にとって無縁なままに止どまる。バタイユにとって「一つの対象」は、「外部」として感じられると同時に、「自分の情熱から生み出した」と感じられるほど、近接したものでなければならない。シャルルにとって分身であるロベールは、この難しい条件を程よく満たしているものと考えられよう。
さて「対象」を見いだしたシャルルにとって、ロベールがあくまで「対象」としての位置に止どまる限り、二人の間には「交感」は生じはしないだろう。「悪の絶頂」としての他者の殺害こそ、最も強烈な「交感」をもたらすのは先に述べた通りである。それに対して自殺は自我からの解放はさせてくれるものの、「解放」されたことを感じるべき人間自身も同時に消滅させてしまう。
「まれに人間は自らに死を与えることが出来る。絶望した人間のようにではなく、祭りの山車の下に堂々と身を投げるヒンズー教徒のように。しかし、自身を解放するまで行かなくても、我々は自身から或る一部を解放することは出来る。我々のものである財産、または余りに多くの絆によって我々を結び付けており、それから我々を区別出来ないもの、つまり、我々の同類を解放することは。確かにこの供犠という言葉は、人間がなにがしかの財産を自らの意志によって、破壊的な力が猛威をふるう危険な領域の中に投じることを意味する。こうして我々は嘲笑っているものを犠牲にし、いかなる不安もなく我々には軽度と思われる或る種の失墜の中に、そのものを投げ捨てるのである……」(4)
こうして考えていくにつれて、ロベールを堕落させる試みの中に、二つの意図が見いだせる。偽善家であるロベールの面の皮をはがすことで、彼に投影されているシャルル自身の「禁忌」の要素を「侵犯」すること。というのは、「侵犯」の意味を担っているシャルルは、「禁忌」を守るロベールの人格を「侵犯」することで、分身であるロベールとの分裂状態を解消し、孤独や疎外感から解放されるからである。もう一つ考えられるのは、ロベールを犠牲にしてしまうことで、シャルルは彼の死の中に自らの死を見つめ、心理的に自我という閉塞状態から解放されることだ。そこからシャルルの内部に、新たな葛藤が生じてくるものと予想される。ロベールとの和解が成立した時点で彼に対する攻撃をやめ、二人でより良く生きていこうとする願い。それと矛盾している欲望とは、ロベールを現実に死に追いやることで、死によってもたらされる自我からの解放を、観客の立場から体験しようとする密かな悪意である。
『C神父』という文学作品を『エロティシズム』に見いだされる構図に即して解釈し、ロベールを「禁忌」に、シャルルを「侵犯」に当てはめようとするやり方を、牽強付会であるとして退ける向きもあるかもしれない。そこで私の仮説を裏付けるような記述を、この辺でお目にかけておきたいと思う。娼婦エポニーヌと肉体関係を結ぶように、ロベールに対して説得しているシャルルは、すでに自身でも彼女とみだらな関係にあった。ロベールは聖職者である立場から、彼女を軽蔑して近づこうとはしない。エポニーヌにとって二人は瓜二つであるので、自分を避けるロベールの姿を見かけると、シャルルから軽蔑されているような錯覚に陥る。ほとんど同じ顔をした二人の人間から、或る時には愛され、或る時には蔑まれるような混乱に、彼女の意識はとらわれている。双子の兄弟の正反対の態度は、彼女にとってはあたかも一人の人間の中で生じているように感じられる。
「……丸で彼女の内部や前で世界が二つに割れてしまい、その二つがどうしてもかみ合わないみたいなんだ」(5)
ここで分裂した世界の一方は「禁忌」に、他方は「侵犯」に位置づけられるのではないか。世界は本来一つの全体像を持つべきであり、分裂して二つの働きとして現れたとしても、その両者は相互に関わり合っているはずだ。それと同様に双子の兄弟のうちのそれぞれにも、表面には現れない隠れた望みがあるはずである。それはロベールにおいては、抑圧されたみだらな欲望なのである。
ところで『エロティシズム』の中で、バタイユは「禁忌」は犯されるためにある、と主張している。ロベールが守る「禁忌」は「侵犯」されなければならないわけだが、「侵犯」は「禁忌」の補足物である、という命題をここで想起しておく必要がある。つまり「禁忌」を保持するためにこそ「侵犯」は存在するのであり、それによって社会の秩序が維持されるという側面も無視できないのである。『C神父』という物語においても、シャルルがロベールと和解して生き続けるためには、過度に働く「侵犯」の力を押さえて、再び「禁忌」の効力を確立しなければならなくなる。ロベールを精神的に破滅させることで、彼との和解をなしとげたシャルルは、無際限な「侵犯」を避けるためには、今度は自身が「禁忌」を守る立場に追い込まれていく。そこから先に触れたシャルルの葛藤が生じるわけである。一度成立した和解は長くは続かないだろう。二人の兄弟がそれぞれ担う役割が入れ換われば、シャルルの心は再び孤立の状態に陥るに違いないのだから。
ミサを執り行う最中にロベールは倒れる。シャルルとエポニーヌの脅迫は、ロベールの体を硬直させてしまったのである。神父が祭壇の段から転げ落ちたことを境にして、双子の兄弟の役割はすっかり入れ換わってしまう。シャルルはロベールが担っていた「禁忌」の世界に立ち返る。ロベールが放縦な生活を始めて「侵犯」の領域に入り込んで来たために、シャルルは「神のみもと」に戻ろうとしてあがき始める。
「この喜劇は法も神ももはやなく、境界も消え失せた世界の中に希望によって投げ捨てられた、無意味で露骨な人間の悲惨さえ語っていたのだ。私(シャルル)は欲望と恐怖が彼(ロベール)を悪の側へ引き入れているのを感じた。私は苦しさの余り調子が狂ってしまった。不信心な兄の代わりに私が神のみもとに戻らなければならなかった」(6)
ここに至るまでの経緯を見る限り、『エロティシズム』で展開された「禁忌」と「侵犯」の弁証法に沿って、物語は進んでいるように見えるだろう。そして兄を脅迫していたシャルルは、今度はエポニーヌと肉体関係のあるらしい肉屋に命を狙われることになる。ロベールが長らく感じていたはずの苦悩を、今度はシャルルが担わなければならなくなったのである。
「恐らくその時ロベールを急き立てるものは何もなかった。とにかく知りたい、という思いに逆らうこの無気力に自分一人で苦しんでいたのだ。私(シャルル)は野卑に兄をもてあそび、訳も分からず面白がっていたのを恥じていた。役割は代わってしまっていた。彼の無関心が今度は私の苦悩をもてあそんでいたのだ」(7)
「自分の破滅の中に私(シャルル)を巻き込まざるを得なかった彼(ロベール)の残酷さを、私は呪い始めていたのである」(8)
読者は奇妙なことに気づくに違いない。兄を破滅に追い込んだのはシャルル自身ではなかったか。それが結果としてシャルルを道連れとして巻き込んだとしても、責任を兄にかぶせて呪うことなど筋の通ったこととは言えまい。ただしここで思い出さなければならないのは、シャルルにとって兄は分身なのであり、自分の一部として考えられている点である。それと同時に兄がシャルルにとって「外部」であるのは言うまでもない。或る夜シャルルは幻覚を見る。それは迫りくる自身の破滅を予感したものに違いない。
「私は息詰まり時を待って眠りに落ちた。凄まじい雷鳴で私は目が覚めた。雨が強く吹き付けているのが聞こえた。この雨を通して稲妻の光が、死線を越えて生き延びるような印象を与えていた。丸で数世代も前から死んでいた私が、この死んだ雨水、死んだ雷鳴に他ならず、私の死はあらゆる世代の死と混ざり合っているかのように」(9)
人間は現実にはおのれ自身の死を体験することは出来ない。この場面においてシャルルは、幻覚という形ではあるが自身の死後の世界を見ている。これは不可能な欲望なのであり、だからこそ滑稽なほど我々の関心を引いてやまないのだ。ところが「未知」の対象を言葉で表そうとする場合、何よりも理解することを優先する余り、人はそれを矮小化してしまいがちだ。バタイユが哲学に限界を感じるのもそのためである。「未知」を「未知」のまま言葉で表すため、彼はイマージュ豊かな詩的な表現に頼っている。『内的体験』が思想的な著作であるにもかかわらず、詩的な比喩を多分に内に含んでいるのも、こうした事情によるのである。しかも小説というジャンルは、この種の探求に絶好の場を提供するのである。小説の中で語られる思想は、あくまで登場人物に帰属させられるものだからである。言い換えるなら、小説で語られる思想が偏見に満ちた見識を疑わせるものであったとしても、作者はその責任を登場人物に帰することが出来るのだ。これはあくまでフィクションに過ぎないのだ、と。それだけ作者は自由に、未知の問題を心の赴くままに論じることが許されているわけだ。
『C神父』の中ではロベールの死後、シャルルは自殺することになっている。一見するとロベールの死に責任を感じたシャルルが自らの命を絶った、と解釈できないこともないだろう。ただここまで『エロティシズム』の「禁忌」と「侵犯」の弁証法に基づいて、物語の構造を考えてきたので、それに即して双子の兄弟の最期をとらえ直してみよう。ロベールが堕落してシャルルが「神のみもと」に戻るまでは、二人の担っている役割が入れ換わっただけで、「禁忌」と「侵犯」の相互補完的な図式を、この小説は忠実になぞっているように思われる。ところが「侵犯」が「禁忌」と支え合うという性格を捨てた時、言い換えるなら『エロティシズム』でバタイユが説く「無際限な侵犯」が起こった時、「暴力」は「禁忌」の枠からあふれ出し、そのエネルギーが尽きるまで秩序を徹底的に破壊するに至るのだ。儀式などによって死がはらんでいる「暴力」が吸収できない時、この「無際限な侵犯」は生じるのである。『C神父』において弁証法的な図式が崩れるのは、ロベールが命を落としたためである。「禁忌」と「侵犯」の相互補完性は、ロベールの死を境にして成立しなくなる。二人の役割が交替することによって、「禁忌」の立場に移ったシャルルは、ロベールによる「禁忌」の「侵犯」が無際限となり彼の死は実現すると、自身の足場を奪われることになるのである。「禁忌」は「侵犯」によって支えられているのであるから、一方の原理が消滅すればそれに依存することで成立していた対の原理も失われ、両者の上に成り立っていた秩序も回復不能なまでに破壊される。双子の兄弟の一方が死ねば、もう一方も人間として生きることが出来なくなる。
「無際限な侵犯」という例外を認めながらも、『エロティシズム』は全体として、弁証法的な図式で構築されているように思われる。ブランショはバタイユにおける「侵犯」という概念を、「根本的に手の届かぬ所にあるもの」と規定している。ブランショはバタイユの「侵犯」を、バタイユが主張するような「禁忌」との相互補完的視野のもとでは見ていない。むしろバタイユが生涯のテーマとして扱っているのは、「無際限な侵犯」の問題である、と解釈していると思われる。バタイユが文学の中で扱っている「侵犯」というテーマは、ブランショが考えるように、人間の制御することが出来ない「未知」の力なのではないだろうか。その最大のものが死に関わる「侵犯」と推定されるのである。つまり、この種の無際限で非・弁証法的侵犯こそ、バタイユが生涯かけて究明しようとした問題ではなかろうか。物語の途中まで読む限りでは、『エロティシズム』における弁証法的構図に沿って、話を進めているように見せかけながら、それを最終的に不成立に終わらせている所に、バタイユの本性が現れていると考えられる。ロベールが徹底的に堕落したことで「無際限な侵犯」の力に触れてしまった双子の兄弟は、「根本的に手の届かぬ所にあるもの」を前にして、破滅へと突き落とされていくのである。幻覚を見る時のシャルルの意識は、もはや後戻りできない所に来てしまった人間の絶望を表現してはいないか。
注
(1)バタイユ全集第3巻(ガリマール社版) p.241
(2)同 第3巻 p.255
(3)同 第3巻 p.257
(4)同 第5巻 p.114
(5)同 第3巻 p.277
(6)同 第3巻 p.312
(7)同 第3巻 p.299
(8)同 第3巻 p.300
(9)同 第3巻 p.307〜p.308
主要参考文献(邦訳があるもの)
ジョルジュ・バタイユ著
『C神父』
(若林真 訳 講談社)
『エロティシズム』
(澁澤龍彦 訳 二見書房)
『内的体験』
(出口裕弘 訳 現代思潮社)
モーリス・ブランショ著
『終りなき対話』
(清水徹 訳 筑摩書房)
『思考の賭け』
(清水徹 訳 筑摩書房)