冒頭の一句
高野敦志
ルイ・アラゴンに『冒頭の一句または小説の誕生』というエッセイがある。それによると彼は少年の頃、自分の秘密を紙に記すという習慣を持っていたという。ある時アラゴンは不思議なことに気が付いた。「ぼくの秘密がほとんど幾種類もの歌がもつれ合ったようなものになり始めた」という事実に。当時のアラゴンはそれを当惑の目で捉えていたのだが、それこそまさに、彼が小説というものに手を染めるきっかけとなった出来事だった。
作家としてのアラゴンの手法は「語と語の、あるいは音と音の出会い、語呂合わせの必然性、非論理の論理、語と語の衝突が起こった後の承認などによって」書き進めていく、というものだ。それに関連して「ぼくにとって小説とはすべて解剖台の上のコーモリ傘とミシンの出会いだったと言ってよい」と述べ、ロートレアモンの『マルドロールの歌』の一節を引き合いに出したり、ルーセルの言葉遊びによる筆法の影響を指摘するところなど、シュルレアリストだったアラゴンの一面を彷彿させる。綿密な構想を組み立ててから書くというより、「冒頭の一句」から思いも寄らなかった世界が展開していく、といった方法が彼にはふさわしいらしい。頭に出来上がった世界を言葉に移すのではく、ペンを握りながらも書物を前にした読者と同じ位置に自らを置き、書くことによって一歩一歩想像力の世界へ踏み込んでいくのである。
小説を書き進める段階においても、神経の集中が最も必要とされるのは、毎晩ペンを握った瞬間、一行目を書き出す時ではないだろうか。それをうまくこなせば、自ずと言葉の方が姿を現してくれるというのは、ものを書く者なら誰でも感じていることだろう。沈黙の世界から聞こえてくる、その密かな声に耳が傾けられるかが、創造の喜びにあずかれるか否かの分かれ道となる。
アラゴンが語る「冒頭の一句」は、これと同等のことを言っているのだろうか。シュルレアリストとしてブルトンとともに、無意識の世界にある種の知の可能性を見出だしていたアラゴンであるから、「冒頭の一句」から小説の全体が生まれた、と語るのは読者に対するポーズであり、一種の誇張と捉えた方がよいだろう。ただし、作家の無意識のうちでは、いまだ言語化されていない曖昧な形で、一つの世界が形成されていくと言う点には、十分に留意する必要があると思う。それを言葉に変えていくのは論理ではなく、むしろ文と文のつながり方、言葉と言葉の音の響き合いであって、連綿とあとに続くはずの言葉の始まり、つまり「冒頭の一句」をいかにつかむかに、全てはかかってくるというわけである。