ジョルジュ・バタイユ年譜



一八九七年〜

フランス中部、ピュイ・ド・ドーム県のビョム市に生まれる。父は盲目だった。ランスの高校へ進学する。結核のために復員する。

一九二〇年 二三歳 

妻となるシルビアと出会う。

一九二二年 二五歳 

古文書学校を首席で卒業する。ベネディクト会修道士の下に滞在し、司祭職を志すも、信仰に疑念が生じて棄教する。

一九二三年 二六歳 

ニーチェの著作との出会い。その後、バタイユはニーチェに魅せられるようになるが、その信奉者となったわけではない。

一九二四年 二七歳

国立図書館のカビネ・デ・メダーユに配属される。『アレチューズ』誌に古銭学に関する論文を寄稿する。サン・ドゥニ地区の売春宿で、ミッシェル・レリス、アンドレ・マッソンらと、或る雑誌の刊行を計画する。

一九二六年 二九歳

ボレル博士に精神分析の治療を受ける。それについて暗示させる記述が『眼球譚』の中にある。シュルレアリストと接触するが、運動に参加することはなかった。

一九二八年 三一歳

ロード・オーシュ(排便する神)の筆名で『眼球譚』を刊行する。

一九二九年 三二歳 

ジョルジュ・アンリ・リヴィエールとともに『ドキュマン』誌を刊行する。シュルレアリストとの断絶。同誌でブルトンを偽の革命家であるとこき下ろす。二人は後に和解するが、再び仲違いする。

一九三一年 三四歳 

『太陽肛門』を刊行する。『ドキュマン』誌を離れたバタイユは、『社会批評』誌に寄稿する。

一九三二年 三五歳

コジェーブによるヘーゲル講義に出る。『社会批評』誌にレーモン・クノーとともに、「ヘーゲル弁証法の根底についての批評」を書く。後に『内的体験』の中でヘーゲル的労働の否定性に対し、用途なき否定性を対置させる。それは非生産的消費や『呪われた部分』で示される無償の部分のテーゼに対応する。

一九三三年 三六歳 

コレット・ペニョとの出会い。バタイユはロールの名で著作を出版させる。彼女は放埒な人生を送ったが、その美しさはそれを見抜く者にしか分からなかった。彼女のように一徹で純粋な女性はいなかったという。バタイユはモースの『贈与論』に強い影響を受けて、『社会批評』誌に「消費の概念」を発表する。その中で彼は非生産的消費や消尽、供犠、ポトラッチについてのテーゼを展開する。それらはバタイユが自著の中で最も重要と考えた『呪われた部分』で、再び取り上げられることになる。また『社会批評』誌に「ファシズムの心理的構造」を発表する。

一九三四年 三七歳 

トロツキー主義者の団体の一員となる。健康上の不安から休暇を取り、禅やヨーガなどの東洋的なイニシエーションに参加することで、『内的体験』や『瞑想の方法』を生み出す閃きを得る。

一九三五年 三八歳

革命的知識人の闘争同盟である『コントル・アタック』を、アンドレ・ブルトンらとともに設立する。しかし、ブルトンとの和解は一時的なものにとどまった。グループは『コントル・アタック手帖』を出し、オーギュスタン河岸の屋根裏部屋に集まった。そこは後にピカソのアトリエとなる。グループは翌年、内紛のために解散する。

一九三六年 三九歳 

アンドレ・マッソンに捧げられた『青空』の完成。この物語は生の可能性を明らかにし、激しい情熱の瞬間を呼び寄せる。それがなければ、作者は並はずれた生の可能性が見えないのだと、バタイユは一九五七年に刊行されたこの本の序文で述べている。ロジェ・カイヨワやミッシェル・レリスとともに、「聖社会学会」を設立する。またアンドレ・マッソンの挿し絵入りの『アセファル』誌を発刊する。それは第三号までしか出なかったが、後日ピエール・クロソウスキイらとともに秘密結社を作ることに結びつく。この結社は一九三九年まで続き、社会のメカニズムを狂わし、供犠を行うことを夢想していた。ただし、メンバーのいずれも生け贄になることを望まなかったので、羊の喉を切って殺すことになったという。

一九三八年 四一歳 

ロールの死。悲嘆に暮れたバタイユは病に伏せて人を避けた。国立図書館で多くの書物を読んだ。この時期までは、彼は実名では一冊も本を出していなかった。ヨーガの初歩を身につける。それについては『内的体験』の冒頭の数ページで、分析と批評を行っている。新たに肺の病にかかり、パリを去ってノルマンディーに居を構える。後ちにヴェズレーに移り、一九四九年までそこにとどまる。

一九四一年 四四歳 

『マダム・エドワルダ』を、ピエール・アンジェリックの筆名で刊行する。

一九四三年 四六歳 

『内的体験』初版の刊行。「私は哲学者ではない聖者だ。でなければ狂人だろう」と書いたバタイユを、サルトルは「新しい神秘家」として呼んで、辛辣な批判を浴びせる。「夜」「非・知」といった言葉で実体化された「無」は、汎神論的な陶酔を呼び起こしているに過ぎない、というのがサルトルの主張である。

一九四四年 四七歳 

『有罪者』と『大天使のように』を刊行する。

一九四五年 四八歳 

『ニーチェ論』を刊行する。

一九四六年 四九歳 

『クリティック』誌を発刊する。ディアーヌ・ド・ボーアルネと再婚する。

一九四七年 五〇歳 

『ハレルヤ』『瞑想の方法』、『詩への憎しみ』などを刊行する。

一九四八年 五一歳 

『宗教の理論』を書く。(死後に遺稿として刊行される。)

一九四九年 五二歳 

『呪われた部分』の刊行。図書館の仕事に戻る。

一九五〇年 五三歳 

『C神父』を刊行する。サドの『美徳の不幸』の序文を書く。「人間というものが意味する根底へと至ることを望む者にとって、サドを読むことは薦められるばかりでなく必要なことである」

一九五一年 五四歳 

オルレアンに転居する。

一九五五年 五八歳 

『ラスコー、または芸術の誕生』および『マネ論』を刊行する。

一九五七年 六〇歳 

『文学と悪』と『エロチスム』を刊行する。

一九五九年 六二歳 

『ジル・ド・レの裁判』への序文を書く。

一九六一年 六四歳 

『エロスの涙』を刊行する。

一九六二年 六五歳 

『不可能なもの』(『詩への憎しみ』を改題し増補したもの)の刊行。全身不随のままパリで死す。死の床の中でバタイユは「こんなもんさ」と語っていたという。『内的体験』の中でバタイユは「結局、死への転落は汚らしいものだ」と書いていた。

一九六六年

『わが母』(遺稿)の刊行。

一九六七年

『死者』(遺稿)の刊行。




主要参考文献

アラン・アルノー、ジゼル・エクスコホン=ラファルジュ共著『バタイユ』
スィユ社の『今日の作家』シリーズの一冊


戻る