円をめぐる断章

高野敦志



 ジェラール・ド・ネルヴァルが晩年に発表した短編集『火の娘たち』(一八五四)の中で、ヴァロワ地方の風土と思い出を抒情豊かに、そして神秘的なタッチで描いたことで特に愛され、また物語の時間的な枠組みにとらわれず、魂の奥底から湧きいずるままに回想していく手法により、後のプルーストにも影響を与えたと思われる作品が『シルヴィ』である。その中でもっとも美しく描写されているのは、夢うつつの境で遠い過去を振り返るうちに、幼友達のシルヴィの思い出が、いま一人の女性アドリエンヌへと移りゆく場面であろう。


 私たちの踊りの輪に、アドリエンヌと呼ばれる一人の背が高く美しい金髪の娘がいるのにもほとんど気がつかなかった。と、不意に踊りの規則の具合で、そのアドリエンヌは私と二人きり、輪の中央に立たされることになった。二人の背丈は同じくらいだった。私たちは口づけするように言われ、それとともに踊りと合唱はひときわ活気づいて旋り旋るのだった。命じられたとおりに口づけをしながら、私はおさえ切れず、彼女の手をかたく握った。彼女の金色の髪の長い捲き毛が、私のほほにかすかに触れた。このときからのことだった。かつて感じたこともなかったふしぎな心の動揺が私をとらえてしまったのは。

(入沢康夫 訳)



 僕はこれを読むと、ラフカディオ・ハーンが『知られぬ日本の面影』で描いて見せた、明治の頃の盆踊りの情景を連想してしまう。それはレコードで流される騒々しい曲もない、人々の笑い声が聞こえてくるような、のどかなものだったに違いない。


 めぐる月のしたで、踊りの輪のまんなかにいるわたしは、魔法の輪のなかにいる人間のような気がした。ところで、まさしくこれは妖術である。わたしは魅せられた。妖怪じみた手ぶりや、拍子をとりながら滑るように運ぶ足どりや、とりわけ異様な袖のひらひらするさま ―熱帯地方の大きな蝙蝠が飛ぶように、幽霊のように音もなく、ビロードのように滑らかな袖の舞に、魂を奪われてしまったのである。いや、これまでに夢にみたことのあるもので、これにたとえられるものはない。わたしのうしろにある古い墓場や気味の悪いお迎えの燈籠を見たり、今のこの時刻や場所にまつわる妖怪じみた話などを思い出して、なんだか亡霊にとりつかれたような、なんとも言えずピリッとするような気持におそわれた。いや、そんなことはない。音もなく揺れうごき織るように進むあの優美な姿は、今夜白い燈籠をつけて迎えられた冥土の人々ではないのだ。ふいに、小鳥の呼び声のように美しく朗らかな顫律にみちた一曲の歌が、娘らしい口からさっと流れだしてくる。すると、五十人のやさしい声がその歌に和した。

 揃うた 揃いました 踊り子が揃うた
 揃い着てきた 晴れ浴衣

(田代三千稔 訳)


 高校一年生の夏に祖母が病死した。身内が死んだのは初めてだったので、心が受けた衝撃はすさまじかった。その頃の自分には、死というものの意味がまだ十分には分からなかったのである。葬儀が終わった夜、僕は夢の中で祖母に再会した。その魂は言い伝えにある通り、生前と変わらぬ姿を取っていた。しばらく語り合った後、別れを告げた祖母は踊りの輪に加わった。その輪はぐるぐる回転し始め、やがて黄昏の光の中に溶けて見えなくなった。
 なぜ人は輪になって踊り、かくも踊りというものに魅せられるのか。それは一人一人孤立している人間が、お互いを隔てている柵を取り払い、一つの円になることへの、深い思いが反映しているからにほかならない。ユング流に解釈してみるならば、踊りの円は動くマンダラであり、その中に加わっている人は世界と一つになっている。これは集団への埋没を必ずしも意味しない。暴動が発生した時に見られるヒステリックな衝動とは異なり、一人一人の個性は失われることなく、全体の中でおのれの位置を保持している。それは法輪が示すような完全な知恵の存在を示唆している。

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