悪、交感、そして言葉

高野敦志



 ジョルジュ・バタイユ。二十世紀フランスの作家にして思想家。ニーチェとヘーゲルに触発されて、人間の可能性の極限を探求した男。キリスト教への熱烈な信仰を捨てて、恍惚と死の中に個人がもはや個人ではなくなる世界を垣間見た苦行者。シュルレアリスムに接近しながら、その離反者を結集したブルトンの好敵手。哲学者と呼ばれるのを拒絶して、自らを聖者と位置づけて知の枠組みの中に取り込まれまいとした強固な意志。そしてそれを体現したかのような苦悶のうちの壮絶な死。バタイユという人間を一言で定義するなど、何人たりともなしうることではない。彼について語ろうとするのは、そのほんの一面に触れることでしかない。バタイユという名を聞けば、多くの方々はシュルレアリスムの色彩が濃く、一見ポルノ小説の体裁を取った『眼球譚』や、双子の兄弟の奇妙な死を扱った『C神父』、星空の下での墓場でのセックス、という異様なクライマックスへと至る、彼が書いた小説の中ではもっともポエジーを感じさせる『青空』などを、思い浮かべる方が多いのではないかと思う。けれどもここで僕はバタイユの作家としての一面、それも彼が書いた数少ない文学作品についてではなく、文学とはそもそも何であるかという根本的な問題をめぐって、彼がいかなる考えを抱いていたかをたどることにとどめる。それをもっとも端的に教えてくれるのは『文学と悪』と題された一連の評論である。では早速本題に入っていくこととしよう。その中でバタイユは文学を次のように定義している。
「文学は交感(コミュニケーション)だ。交感は誠実さを要求する。つまり、厳密な道徳というものは、悪を認識するという共犯関係からの視点の中で与えられ、それが強烈な交感を打ち立てるわけである」(1)
 バタイユにとって文学とは、孤立した人間が世界や他者と結びつく契機となるためのものだ。一般の社会道徳は善の中に人間を縛り、世界を構成する要素である悪から、我々の目をそらせようと躍起になっている。世界のありのままの姿に触れるためには、社会道徳を無反省に受け入れるわけにはいかないだろう。それというのも、日常の生活で悪として退けられているものの中にこそ、本来の道徳は認められるかもしれないからだ。
「私はもはや善を悪にではなく、善とは異なる『道徳の絶頂』を、何ら悪と関わらぬ『衰退』に対置しようと思う。その悪の必要性が逆に、善の様式を規定するのである」(2)
 バタイユが『ニーチェについて』の中で述べているのは、力あるものはしばしば悪として規定されてきたが、厳密な道徳の見地からすれば、「絶頂」の位置にあるということである。悪とは一般に「衰退」と考えられがちだが、本来はむしろ、「道徳的絶頂」と関わりがある。ここにニーチェの考えたキリスト教道徳による、価値観の転倒を見ることが出来るだろう。キリスト教は弱者のための道徳を流布させ、それによって本来称揚されるべき強さを忌避しようとしている、と考えられているわけだ。さて、交感を打ち立てるのが悪とされるのであるなら、その最たるものはキリスト教徒にとって、キリストの処刑であるに違いないだろう。
「十字架にかけることで、人間は悪の絶頂へと到達する。だが、その絶頂に達するまさにそのためにこそ、人間は神から分離されたままであるのをやめるのだ。そこで人間の交感が悪によって確実になる、ということが分かる。悪を欠いた人間存在は自己の内に閉じ籠もり、自立した球体の中に閉じ込められてしまう」(3)
「生には多数の交感の可能性がある。しかし、この可能性がたまたま欠けるようなことがあったら、その時倦怠によって明らかになるのは、自己の内に閉じ込められた人間の虚無である。もし彼がもはや交感しなければ、分離された人間は虚弱になり、衰弱しつつ、(漠然と)自分一人ではもはや存在していないことを感じる。この内面の虚無は出口なしで魅力なく彼を不快にするばかりだ」(4)
 こうして見てくると、人間は悪に関わるという意識の中で、他者との交感が可能になる、ということが明らかになる。文学は虚構という限定された枠の中ではあるが、悪に触れ他者を傷つけるという空想のうちに交感を与えてくれるわけである。バタイユにとって文学が交感であるからには、悪が不可欠なものであることはお分かり頂けたと思う。ではその悪とは具体的にどんなものなのだろう。
「サディズムこそ悪である。物質的利益のために殺すことは、本当の悪ではなく、殺害者が期待される利益を越えて、打撃を与えることを享受する限りで、純粋な悪であると言えるのだ」(5)
 ここにバタイユの探求した「供犠」の観念を見いだすことが出来る。供犠とは古代から行われている「生け贄の儀式」のことである。ここで見逃してはならないのは、他者に対する攻撃が単なる快楽としてではなく、相手の死の中におのれの死を見ようとする動きと、密接な関わりを持つ点である。
「常に死が、少なくとも、持続の中に幸福を求める孤立した個人というシステムの破壊が、断絶 ─それがなければ何人も恍惚の状態に達することのない─ 断絶を導入する。断絶と死というこの動きの中で常に見いだされるのは、人間の無垢と陶酔感である」(6)
 交感によってこそ人間は、孤立による衰弱と社会道徳による束縛から解放されるのである。一方、それに対する善はどのように考えられているか見てみよう。
「善は共通した利害への配慮の上に打ち立てられており、本質的には未来に対する配慮を意味している。崇高な陶酔、幼少期における『衝動』に類似した陶酔は、すべて現在のうちに存する。子供の教育の中で、現在の瞬間を偏愛することは、一般に悪であると定義されている」(7)
 善とは社会的な利益を最優先にし、将来なしとげられるはずの目的のために、今この瞬間を犠牲にすることである。バタイユの求めている体験は、善とは真っ向から対立するものであろう。彼は「企ては実存のもっと後への延期である」(8)とも言う。「企て」はすぐさま「労働」という問題に結びつく。こうした観点からだけでも、バタイユが文学作品のテーマとして、何を扱うかが予想されてくるはずだ。労働によって生きる現実世界の原理は、悪による交感といった非日常的な世界と対立している。彼が描き続けてきたのは、交感を求めんがために、破廉恥な真似をもためらわない人間の姿である。悪のうちでその最たるものは殺人であるが、彼がエロチックな描写を好んで描くのも、死との関わりにおいてである。したがって、日常の世界をそのまま忠実に描くレアリストの態度は、到底彼には受け入れられるものではない。
「レアリズムは私に、間違っているという印象を与える。暴力だけがそうしたレアリストの体験の貧困さ、という思いから逃れさせてくれるのだ。死と欲望のみが息を詰まらせ止める力を持っている。過度の欲望と死のみが真理に達することを許すのだ」(9)
 こうして見てくると、バタイユが世俗的なものに矮小化されている世界の全体像に疑問を呈し、隠されてきた聖なる部分を、世界に復権させようとしているのがお分かりいただけたと思う。

 描かれるべき対象が明らかになってきたところで、次にバタイユの言語観に触れてみよう。彼はその生涯において、言葉ではうまく言い表せないものを表現しようと苦闘していた。その意味で書くという行為は、彼にとって矛盾をはらんだものだったに違いない。なぜかといえば、言葉というものは我々の生を表現するどころか、歪めてしまう危険さえあるからである。それに対する強い疑念を、バタイユが抱いていたことも見落としてはなるまい。
「したがって、語ること、考えること、それは冗談を言うのでもない限り、実存をごまかすことだ。つまり、それは死ぬことではなく、死んでいるのだ。それは我々が日常うろついている、火の消えた沈滞した世界の中へ進むことだ」(10)
 聖なるものを欠いた日常生活は、それが世界の全体像を表していない、という限りでは生気を失ったものである。ところで、我々が用いている言葉すべてについて言えることだが、とりわけバタイユの母語であるフランス語は、理性的な言語であるとフランス人自身によって考えられてきたし、理性に反するものを排除する傾向が現に強いように思われる。我々日本人が何気なく書いた文章が、その非論理性によってうまくフランス語に訳せない、という経験をされた方も多いのではないか。言葉が論理に忠実であろうとすればするほど、言葉で表現できる範囲は何らかの制限を受けることになる。うまく言葉で表せないものは、単に無視されるかあたかも存在していないかのごとく扱われてしまいかねない。言葉に対するこうした絶望感は、以下の文章でも容易にうかがうことが出来よう。
「認識するとは次のようなことを意味する。既知のことに結び付けること。未知のことが他の既知のことと同じである、ということを把握すること」(11)
 我々は理性的な言語を用いる限り、この知の円環から抜け出すことは出来ない。その言語に対する信頼の上に成り立っているものこそ、「知」に対する愛、すなわち「哲学」という学問である。
「私はお話ししました、哲学は労働であり、したがって信頼である、と。哲学はたとえ疑いがある時でも、初めに見込まれた結果を常に前提とします。そしてとりわけ、哲学が可能であるということを少なくともまずは前提とします。しかし、我々はもっと先に進まなければなりません」(12)
 哲学が労働であること、また、哲学が対象が未知のままであることを認めないために、既知の領域から出られず、未知のことを既知に結び付ける作業に終始すること、その二重の観点から哲学はバタイユの期待を裏切ることになる。そこで「哲学」に絶望したバタイユは「文学」の言葉、とりわけ「詩」の言葉に、人間の理性の限界を突き破る可能性を見いだそうとするわけである。
「詩は既知のことから未知のことへと導く」(13)
 詩においては「意味されるもの」は、必ずしも規定され得ないことに彼は注目するわけである。表現し難い事柄であっても、比喩によって暗示することは出来るだろう。初めから既知のことに矮小化してしまうことなく、書き進める過程で未知のことを見つめ続け、知り得ないと考えられていたものまで、把握可能な範囲を広げていく努力は出来る。この問題に関して、ジャック・デリダは次のように指摘している。
「確かにバタイユは時として、詩的で恍惚とした聖なる言葉を、『明白に意味を示す言説』と対立させる」(14)
 人間の知性や論理は、隷属的な労働である哲学との関連で発達したものであるが、バタイユの求める聖なる世界を表現し得る詩的な言葉は、「意味されるもの」に縛られない限りで自由ではある。ただし、問題はそれほど単純ではない。というのも、バタイユが求めているような特権的な言葉が、その期待に応えられるものであると考えるのは、余りに素朴すぎるきらいがあるからだ。それに関して、デリダは次のように続けている。
「しかしこの至高の言葉は、他の言説、明白に意味を示す言説の傍らで展開される、他の(言説の)連鎖ではない。一つの言説しかないのだ。その言説とは意味のあるものだ」(15)
 この二種の言説とは仮に立てられた区別であり、現実には一つの言説が存在するだけである。ただし、この一つの言説の内に、哲学的・詩的といった二極の傾向が認められるのである。両者の違いはその度合いによるものに過ぎない。バタイユは文学作品を書き、哲学的研究にも携わったわけだが、言語の内にある二つの傾向は、彼の著作にあっては混在している。つまり、小説の内部に作者の思索の跡が認められ、思想的探求がイマジネーション豊かな言葉で語られているのである。デリダは詩的な言葉を、明白に意味を示さない傾向から、日常用いられている言葉と一応は区別している。彼は前者を至高の沈黙、後者を分節言語として考えている。
「分節言語を排除することで、至高の沈黙は、したがって、或る意味では、意義作用の源泉としての示差性とは無縁なのである」(16)
 なぜ至高の「沈黙」なのか。それは詩的な言葉が、明白に「意味されるもの」を表さない点にある。明白な指示対象がある、というのが、言語に対する暗黙のうちの了解であり、それを詩的な言葉は違反している、という意味で「沈黙」なのである。これは思想的探求をする上では障害となる反面、既知の概念に縛られずにすむ、という利点がある。詩的なイマージュに頼ることで、哲学は既知の円環から逃れられる可能性を持つ。ただし、その内容を把握しないうちに書く、という態度は、思いもかけぬ成果が期待できると同時に、その概念を論理的に立証出来ないばかりか、全く見当違いの答えに導くかもしれぬ、極めて危険な賭ともなるのである。

 こうした思考の賭に対して、バタイユ自身の見解を的確に表現している一節が『内的体験』の中にある。そこでは彼が二種の言語の間で揺れているのがよく分かる。
「もし私が『一人の人間はもう一人の人間の鏡である』と言えば、私は自分の考えを表現したことになる。しかし、もし『空の青は幻のようだ』と言う時は、そうではない。もし私が『空の青は幻のようだ』と、自分の考えを表現する者の口調で言えば、私は滑稽な者となる。私の考えを表現するためには、個人的な見解が必要だ。私の漏らす本心はこうだ。つまり、見解など重要ではない。私は我身を尖塔へ運ぶことを望むのだ」(17)
 先ずここから読みとれることは、彼の詩的言説に対する好感であろう。それは哲学的言説への根深い不信感の表れでもある。言葉で表し難いことを、いかに言葉で表現していくか。問題は再びそこに戻ってくるのである。言葉というものが、十分な表現能力を欠いているなら、それが表現する「個人的な見解」など、当てに出来ないではないか。しかも、すでに既知の内容となった「見解」を表現する必要など、未知のものを理解しようとしている彼にとって重要だろうか。それは単にその内容を他者に伝達する行為でしかない。バタイユは未知のものを知るためにこそ、ペンを手にしているわけである。もし、言葉でそれを知ることが出来なかったら、詩的なイマージュに頼ることで、それに触れることを願うのだ。「我身を尖塔へ運ぶ」ことで、未知の対象へ身を投げ出す方を選ぶのである。
 ではその未知の対象への接近は、詩的言説によって果たして可能なのだろうか。彼は小説『C神父』の中で、イマジネーション豊かに、この可能性を考察している。そこでは対象を描こうとする執念と絶望感が、彼の求める恍惚の感覚をもって表されている。
「私はばかみたいにぼんやりと、文学が出会っている困難を、正確に表現する方法を思い描いた。その対象とは完璧な幸福であり、道路を突き進む車のようなものだ、と思った。私は先ず、この車の左側に沿って、流星のような速さで追い越すことを期待して進むだろう。この車はその時、いっそう突き進んで少しずつ私を逃れ、エンジンを全速力にして私を引き離してしまう。車が引き離す正しくこの時こそ、追い越すことへの、そしてついて行くことへの無力を知らしめることで、作家の追求する対象のイマージュとなるのである。この対象は把握されることなく、努力のぎりぎりの、せっぱつまった緊張において、言葉から逃れるという条件でしか、作家の対象とはならないのである。少なくとも私は、速い車に引き離されることで幸福に達した。もしこの幸福が私の手に届かないものと見えていなかったら、結局私から逃れていってしまっただろう。というのは、速い車の方は何も把握することはないが、一方それについて行く遅い車の方は、速い方から後退しているような印象を受けるその瞬間に、真の幸福を意識するのだ」(18)
 このように作家は追求する対象のイマージュを、言葉を用いて追い続けることしか出来ない。この対象は「せっぱつまった緊張において、言葉から逃れ」てしまう。その対象から「引き離されることで幸福に達した」という意味は、バタイユの思想を考える上で見逃すことが出来ない。これは逆説的な響きを持った表現である。引き離されることで、どうして幸福に達するのだろうか。それは我々の力の及ばぬ対象こそ書くに値するからである。そうでない対象は把握された瞬間、既知のものに矮小化されかねないからである。もし作家が対象を描写可能なものの範囲で満足していたら、未知のことを既知のことに結びつけるだけで良しとする哲学者と、同じ誤りを犯すことになりはしないか。実際は前進しているにもかかわらず、見かけ上は速い車の方から後退しているような印象を受ける。このイマージュの中にこそ、バタイユの幸福感は巧みに暗示されていないだろうか。少なくとも、作家が言葉と格闘している最も理想的な姿がそこにはある。言葉という不完全な手段を用いて、作家は未知の対象を追い求めなければならない。そこにはいささかの妥協は認められない。対象が逃れ去るために、彼は一時的には無力感に襲われるかもしれない。対象から遠ざかっていく錯覚にとらわれながらも、実際には言葉によって前進を続けているのである。この錯覚が幸福感をもたらすのはなぜか。可能な限り対象を追う姿勢は、最後まで貫かれているからである。結果的に敗北したとしても、初めから既知のテーマで満足するような屈従は味わずにすむ。更にこの錯覚はその対象がそれだけ我々の力を越える、追求に値するものであることを証してくれる。バタイユの晦渋な態度がそこで明らかになってくる。哲学の限界を越えるために詩的イマージュに頼るものの、それによって対象を描き切る可能性を初めから認めていないのである。ただし、哲学が描き切れないその先へ、イマージュは運んでくれるというのである。そこに投げ出された作家は対象が走り去っていくのを見る。人間にとっての「可能事の極限」まで、ともかく彼はたどり着いたわけである。

 バタイユの思考が妥協を許さない、厳格なものであることがお分かりいただけたと思う。彼は安易な結論を頑として退け、一応出た解答も突き詰めて問い直すのを忘れない。上で述べた詩的言説の限界に関しては、次のような言葉の中にもさらに見て取れる。
「詩的イマージュは、たとえ既知のことから未知のことへと導くにしても、未知のことを具体化する既知のことに結び付いており、詩的イマージュは既知のことを引き裂き、この引き裂きの中で生を引き裂くにもかかわらず、既知のことによって維持されている。だから、詩はほとんど完全に失墜した詩、隷属的領域から抜け出した(高貴な、荘重なものとして詩的な)イマージュの享受であるのは真実であるとしても、未知のことへの接近である、内的な破滅からは拒まれているということになる」(19)
 物事を根源まで突き詰めていくと、どうにも解決し難い地点に至ってしまうものだ。思索を押し進めていく限り、バタイユの提出した疑問に誰でも突き当たってしまう。とはいっても、ここでもう一度確認しておく必要がある。未知のことを既知のことへの依存から引き離すことが、果たして人間に出来るだろうか、という根本的な問題である。これは詩に限られた問題ではない。既知のことが介在していなければ、たとえば死というものでさえ、その片鱗すらうかがうことは不可能なのではないか。我々は他人の死によって、おのれがやがては死ぬ存在であることを知る。未知のことを未知のまま手にすることなど、ほとんど絶望的であるとしか言いようがないのである。書く者にとっては、先に述べた「可能事の極限」を目指していくことしか、残されていないのではないだろうか。
 更にバタイユは詩を書く際の危険を挙げている。これは詩を書くという行為をする際に、よほど心しておかなければとらわれる罠である。
「供犠執行者、つまり詩人は、たゆみなく破滅を言葉のとらえ難い世界へもたらすことで、文学上の宝を充実させることにすぐさま疲れてしまう。そのように詩人は運命づけられているのである。もしその宝に対する嗜好を失えば、彼は詩人であるのをやめるだろう」(20)
 詩人にとって頼りに出来るのは、自身がつづる言葉だけである。未知のことを可能な限り歪めずに詩の中に取り入れることは、言葉によって成立している詩の世界そのものの存立さえ、破滅の危機にさらすことになるのだ。そこで詩人は選択を迫られることになる。あくまで未知のことを見つめ続けた場合、書くことによって得られるはずの文学上の宝は、失われてしまうかもしれないという恐れを抱いて。詩人が哲学者と異なる点は、未知のことを既知のことに矮小化しないところにあった。この詩人の立場を貫くためには、破滅を覚悟した上で、あくまで未知のことを未知のままに表現しようという、絶望的な努力が要求されているのではないか。
「詩の非意味の上にそびえることのない詩は、空虚な詩、美しい詩でしかない」(21)
「詩への憎しみ、憎しみのみが、真実の詩に到達するように私には思えた」(22)
 バタイユの要求する、この厳格さは何を意味するのだろうか。詩をぎりぎりのところまで追い詰めていく態度は、書く者としての自戒として解釈すべきものかもしれない。言葉で表し難いものを言葉で表すためには、詩の言葉でさえ必ずしも有効ではない。未知のことに目を向け続けることは、詩を芸術作品に仕立て上げようとする態度と対立する。その困難な可能性にバタイユは賭けているのである。未知のことに近づくために哲学に絶望したバタイユは、今度は詩にも厳しい判断を下さざるを得なくなる。というのも、詩的な言説を用いることで、未知のことを既知のことに矮小化する誤りは避けられるように見えても、詩の限界を常に意識した上でなければ、それは真実に触れるものとはなり得ないからである。残された道はその限界を打ち破るべく、生のある限り書き続けることにあるのだろう。

 注
(1) バタイユ全集(ガリマール社版) 第9巻 p.171〜172
(2) 同、第6巻 p.42
(3) 同、第6巻 p.43
(4) 同、第6巻 p.46〜47
(5) 同、第9巻 p.176
(6) 同、第9巻 p.183
(7) 同、第9巻 p.179〜180
(8) 同、第5巻 p.59
(9) 同、第3巻 p.101
(10) 同、第5巻 p.59〜60
(11) 同、第5巻 p.127
(12) 同、第8巻 p.202
(13) 同、第5巻 p.157
(14) ジャック・デリダ「エクリチュールと差異」(スィユ社版)p.383
(15) 同、p.383
(16) 同、p.386
(17) バタイユ全集(ガリマール社版) 第5巻、p.82
(18) 同、第3巻 p.275
(19) 同、第5巻 p.170
(20) 同、第5巻 p.172
(21) 同、第3巻 p.202
(22) 同、第3巻 p.101


 主要参考文献(邦訳のあるもの)

 ジョルジュ・バタイユ著

『文学と悪』(山本 功 訳 紀伊国屋書店)
『内的体験』(出口裕弘 訳 現代思潮社)  
『有罪者』 (出口裕弘 訳 現代思潮社)
『ニーチェについて』(酒井 健 訳 現代思潮社)
『眼球譚』 (生田耕作 訳 角川書店)
『C神父』 (若林 真 訳 講談社)
『青空』  (天沢退二郎 訳 晶文社)

 ジャック・デリダ著

『エクリチュールと差異』
(三好郁朗 他訳 法政大学出版局) 

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