氷の女神
高野敦志
薄暗い洞窟の中を、ヒロシは手さぐりで進んでいった。指先が触れると岩の壁からは、ぽろぽろと小さな砂粒が落ちてくる。どうしてこんな気味の悪い迷路に入り込んだのか、彼は不思議に思っていた。何かを探していたのだろうか。遠くに光が見えたので、ヒロシはつまずきそうになりながら、先へと道を急いだ。突然、目の前が真っ白になった。まぶしさに目が慣れると、自分がとてつもなく大きな、教会堂のようなドームの下にいるのに気がついた。天井からは多くのつららが、シャンデリアに似た形でつり下がっている。まわりの岩肌にも氷が舌のようにはりつき、そこから発する光で、地下の世界は真昼よりも明るかった。ここには絵本で見たコウモリも、毒のある虫たちもいなかった。すべてが凍りついており、透明なガラスの中で、シダやコケなどの草が緑色のまま眠っていた。
目を上げると遠くに、山ほどの大きさの女の後ろ姿が見えた。ヒロシは恐る恐る近づいていく。女の髪は数十メートルも垂れ下がり、そこに星屑を散らしたような氷の結晶が無数について、女の歩むたびに海のあぶくに似た音を立てた。あれはきっと、この洞窟を支配する女神さまなんだ、とヒロシは思った。髪が風にたなびくと、その星屑は宙を舞い、赤や青のほのかな光を放ちながら、きらきらとオルゴールの音を奏でて、こちらに向かって流れてくる。ヒロシはあの輝く霧に心を引かれ、手当たり次第につかまえようとした。氷の粒は掌を開くと、みな溶けてしまった。つかんでも、つかんでも……。ヒロシは自分のしていることが、何とも愚かしく思えてきた。悲しみはつのり、目から大粒の涙が落ちていった。それはたちまち小指の先ほどのダイヤとなり、彼の掌の上でみるみるしょっぱい水に戻っていった。その時、遠くにいた女神は、ゆっくりとこちらを振り返った。ヒロシは目を見張った。それはヒロシのお母さんだった。それも彼を生むずっと以前の、少女の頃の顔をしているではないか。
「お母さん!」
すると女神は口もとに微かな笑みを浮かべ、目で何かを語ろうとしている。それは言葉とならなかった。ヒロシは駆け出そうとする。女神は押しとどめるように首を振り、そして再び前に向き直ると、髪で海の歌をうたいながら、しずしずと遠ざかっていった。
「お母さん!」
ヒロシは大声で叫んだ。それは氷の柱に響いて悲しいメロディーとなり、女神の姿とともに彼方へ消えていく。遠ざかる影の下には、深い谷を刻んだ地下の川が流れている。水の表面は鏡に似て、天井の白い岩壁を映し出している。ヒロシは点と化した女神の方へ、足を踏み出していった。自分がその谷底に落ちるのも恐れずに。奇妙なことに、ヒロシは宙を走っていた。刃物のように削られた茶色の崖を見下ろしながら、あたりから光が消えていくのも気にかけずに。いよいよ闇が迫り、洞窟は先へ行くほど、つぼまっていった。やがてトンネルの出口が見えてきた。そこはすっかり日が暮れていた。明るい星が無数に群がっている。それを見たヒロシは、先程の氷の結晶のことを思い出していた。あれはお母さんが髪につけていたダイヤなんだ。気がつくと彼は、何もない宇宙空間に、一人ぼっちで浮いていた。そこには都会育ちの彼が見たこともない多くの、赤や青の星たちが息づいていた。あれはカシオペアだな……。北斗七星はどれだろう。天の中央には星屑を散らした天の川が、静かに音を立てて流れている。お母さんはあの川の先にいるのだろう。その時、ヒロシはもう二度と、お母さんには会えない気がしてきた。自分がどうして、あの洞窟をくぐってきたか、そのわけが分かってきた。
――お母さんは死んだんだ。
ヒロシの目に涙があふれていく。彼が悲しみにむせていると、どこか遠くから知らないおじさんの声が聞こえてきた。姿が見えないのにヒロシにはそれが、世界を造られた神さまであることが分かった。
「お母さんはどこへ行ったんですか」
「おまえの知らないところへ、だよ」
「お母さんは星になったんですね。ぼくは今まで、これほどの数の星は見たことがない」
「いや、消えてしまったんだよ」
「そ、そんなのひどすぎる!」
そう叫んだ時、ヒロシは自分がベットの中にいるのに気がついた。枕は涙でじっとり濡れている。彼は耳を澄ました。まな板を包丁でたたく音が聞こえ、ほのかにおみおつけの匂いもしてくる。ヒロシはうれしくなった。お母さんが死んだなんて嘘なんだ。その時、彼のお姉さんの呼ぶ声がした。
「ヒロシ、ごはんですよ」