風土と歴史


  地理的な位置

 チベットと言う場合、主として二種類の分類の仕方がある。一つは中国領チベット自治区を指す場合と、チベット人が居住しているか、もしくはチベット文化が行き渡っている地域を指す場合とがある。すると中国の青海省や雲南省の一部、インドのラダック地方や、ブータン、ネパールの山岳地帯も含まれてしまう。チベット自治区に限れば、西は国境紛争が生じたカシミール地方、南はネパールやブータンがあり、平均の標高が三千六百メートルのチベット高原が広がっている。ヒマラヤやカラコルムなどの大山脈に囲まれ、また長らく鎖国政策が採られていたため、二十世紀の後半に至るまで、外部との交渉は乏しかったと言っていい。


  歴史

 古代のチベット人は、観音の化身である猿と、妖精の化身である猿の仲から、自分達の民族は生まれたと考えていたらしい。七世紀頃に吐蕃王朝が国内を統一した。ソンツェン・ガンポ王の時代に、唐王朝の王女文成公主が嫁いできた時に、初めて仏教がチベットに伝えられた。もともとチベットにはポン教という民俗宗教があり、当初は仏教と激しく対立をしていた。その後、サムイェ寺でインド仏教と中国仏教(禅)の論争が行われ、インド仏教の優位が認められると、本格的にインドの後期密教がチベットに伝播した。インドの行者、パドマサンバヴァがもたらした古派密教は、ニンマ派の密教として、主に在家の行者によって伝えられてきた。その後、ラン・ダルマ王の破仏によって、一時仏教は衰退してしまう。
 その後、新訳の経典がチベットに伝えられ、ヨーガによる神秘体験を重視するカギュ派と、元朝の庇護の下に勢力を拡げたサキャ派が力を持つが、旧来のチベット仏教の改革に乗り出したのは、ゲルク派の祖とされるツォンカパである。インド仏教中観派の論理学と戒律を重んじ、顕教を必修として重視する姿勢は、その後のチベット仏教の主流となる。
 観音の転生活仏とされるダライ・ラマの制度は、そのゲルク派から生まれた。歴代の中でとりわけダライ・ラマ五世は、強力な権力の下に政教一致の政策を取った。その後清朝に支配されるようになったチベットは、インドに進駐したイギリス軍の攻撃も受ける。清朝が倒れると、ダライ・ラマ十三世はチベットの独立宣言を行うが失敗した。
 第二次大戦後、中華人民共和国が成立すると、チベット領有を宣言した中国政府は人民解放軍を進駐させる。一九五九年、急速な社会主義化への恐れと漢民族に対する反感から、ラサで暴動が発生し、ダライ・ラマ十四世はインドに亡命する。中国政府は阿弥陀仏の転生活仏とされ、中国と融和的な態度を取るパンチェン・ラマを、チベットの指導者の地位へと据える。それとともに、寺院をはじめとする特権階級の財産を没収し、農民へ分割するようにした。毛沢東による文化大革命により、チベット仏教は壊滅的な打撃を受ける。その後、多くの有名な寺院では修復が進められているが、村々にはそれ以後廃寺となった瓦礫が、寂しく雨風にさらされている。
 ラサなどの大都市では、近代化が推し進められており、街並みを見る限り中国の一地方都市といった観がある。チベット人の風習は、寺院への巡礼者や農村の暮らしの中には色濃く残っている。

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