芸術は愛である



 十代の終りの頃、まだ漠然としてはいましたが、芸術家を夢みる様になった私は、ふと『芸術は愛である』と思いました。 それは多分にある有名な芸術家の言葉に触発されての事ではありましょうが、当時は『写真を撮るにしても、絵を描くにしても、それは人が何かを愛することの一つである。』と考えていました。 
 当時あまり体力や金銭に恵まれたとは言えなかった私は、高校を卒業後、大学にはいかず、父親の仕事を二年ほど手伝った後、その伝手である工場に勤めに出るようになりました。
 その傍ら、市内の絵描きさんに手ほどきを受けたりしながら、油絵や水彩画を描くようになり、徐々に将来は絵筆で身を立てるようにしようと考える様になりました。
 そんな中で、ゴッホやセザンヌに始って、ピカソ・マチス・シャガールと連なる西欧の巨匠方の絵を、東京の展覧会で直に見る機会を得たことが、私に大きな示唆を与え、何時しか、彼らの芸術性を学び、彼らの絵に負けない絵を描きたいものだと思う様になりました。
 とは言え、追えば追うほど遠くなって行く日々、掴んだと思う手の中に消えている彼らの芸術を、自分なりにひも解く糸口となったのは、ある古本屋で見つけた「油絵のマティエール」と言う1冊の本との出会いでした。
 それからちょうど七年後、三十七歳になったある秋の日、いつもの様に自らの絵を模索して、思い悩んでいた私は、白く塗られた1枚のキャンバスに、まるで下描きの様に薄く、お汁描きで一人の座っている裸婦の絵を描きました。
 その描き終わった絵を見ている時、ふと『お前の絵はこれでいいんだよ』と言う声を聞いた様に感じたのです。 
 それが切っ掛けで、クリーム色の地塗りに薄描きで描くことを思い立ち、「浜辺のミミ」は生まれました。
 私にとって、それは自分のスタイルと言える統一性のある一連の絵を描けるようになった、最初の絵となりました。
 この絵に表れる一人の女性像は、一口に言えば自分のビーナス像であって、日本人のフォルムにより新しい自分なりのビーナス像を作りたい、と言った考えに基づくものです。
 ところで、私の描く絵に出てくる女性は、その多くが微笑んでいますが、それには多少の思いがあります。
 その思いは二十代の半ば、ある写真をモチーフに絵を描いた時に始りました。
 その夏、私は偶然、広島長崎の原爆被爆写真展に立ち寄りました。 話には聞いていたものの、まとまった形でその時の様子を伝える写真を見たのは、初めてでしたから、なんとも言い表すことの出来ない強い印象を受けました。
 カタログのようなものを貰って帰り、中から2枚の写真を元に絵を描きました。
 1枚は、被爆後焼け野原と化した町角に、一人のモンペ姿の女性が立ちすくむ図で、大変な悲しみの中に必死に誰かを探す表情を捉えたものでした。 そして一枚は、同じく焼け野原の瓦礫の前に、防空頭巾を被った小さな男の子がまるでお地蔵様のように、胸の所におにぎりを持ち、ただ呆然と立っていました。
 涙もろい自分の性格のせいもありますが、描いてるうちに涙が止まらなくなりました。 それでも何枚か描いたのですが、どうしても涙流さずにはいられず、ついに描きかけの絵の前に、『二度と悲しみの絵は描かないぞ』と誓う様につぶやいたのです。
 それ以来ずうと、たとえ微かであっても微笑んでいる状態であろうとしています。 対象が女性像であればもちろんですが、またそうでなくとも絵が何か微笑んでいる様な感じでありたい。
 たとえば、主に1995年に始る平面化された一群の絵は、表情としての微笑みが口元などの微妙な曲線の具合で現れることから、一枚の絵を構成する全ての線は微笑みを持ち得るのではないかとの考えに生まれました。
 絵全体が微かに微笑んでいる、そしてそれが、悲しみや憎しみを少しでも和らげることが出来たならばと思うのです。
 『憎しみを憎しみで終わらせることは出来ない、それが出来るのは愛だけである』との言葉がありますが、芸術がたとえ僅かでもその「愛」足り得たらとの願いから、今でも「芸術は愛であるべき物」と胸に記するものです。