仏教的一つの方法

このページのコンテンツはあくまでも私個人の個人的言葉・感想・考え、もしくはボヤキ等であります

 人生過ぎゆくのは早いもので、私も60を超えました。 正しく光陰矢の如し、少年老い易く学成り難し、絵描きを志して40年を超える今日この頃、もう一つ我が人生で40年を超えるのが、お酒と「お題目」との付き合いです。 「お題目」という言葉は、日本人であればかなりの確率で知られている言葉で、日蓮宗系のお寺とその信者において、お経と共にあるいは単独に唱えられる「南無妙法蓮華経」(『ナムミョウホウレンゲキョウ』と読む)の事です。 私はその関係の門徒や信者ではなく、家は新潟県にある曹洞宗の寺の檀家で、そこに墓があり、やがてはその墓に眠る事になっている訳ですが、何故かお酒と付き合い始めた頃からこの「お題目」とも、時にはどっぷり、時には切れ切れに、目標は嗜む程度に、毎日日本酒換算2.5合を守ろうと??あっそれはお酒か!!と、付き合って参りました。 その経験も、墓に入るときには何も残らないので、ここに一文を起こします。

 私とお題目との出会いは、「怨霊たたりの浄霊法」なる一冊の本でした。 それは高校時代の同級生であった友人のM君の父親で、当時心霊写真の鑑定家で有名になり、テレビにも出られた日蓮宗の僧侶の方が執筆された本でした。 詳しい経緯は覚えていないのですが、M君と共通の友人であったT君がこれがまたオカルト大好き人間であったので、彼の影響や彼にくっついてM君の実家であるお寺に何回か遊びに行ったのが縁で、その本にも巡りあったわけです。 内容は、写真に写った霊から受けた霊障・タタリを日蓮宗的手法によって取り除くと言うような話です。 その中にその手法の一つとして、お題目を唱えると言う事が出てきます。 実際のお寺における唱題(お題目を唱えること)は、法華経の内主要な何編かの経文を読経した後50回程度唱題するのが一般的もしくは日常的作法であるようです。 また、祈願祈祷の折には祈願祈祷文の後にかなり長く唱題するもので、その本の中にも『・・し、お題目を一万回唱題して、・・』とあります。 小泉八雲の本の中にも『・・三日三晩団扇太鼓と唱題の音が続き一際大きくなって・・ 』と出てきます。 日蓮御上人由の誕生寺には「蘇生曼荼羅」なるものがあって、御上人がその母お亡くなりになった時、その曼荼羅を描き、祈願祈祷したところ、母上が行き帰り三年の余命を得たことになっていますが、小泉八雲のその本の話では、『・・その声が一際大きくなって後泣き崩れた・・』そして残された子供が三味線を持って・・と言う様な話であった。 まあ日蓮お上人ならばいざ知らず、我々凡夫が少々唱えても大したことは起きないないことは事実ですが、「怨霊たたりの浄霊法」の本の中に、執筆者の修行時代の話があり、大変な貧乏の中、アイスクリーム売りのリアカーを引きながらお題目を唱え続けた行があり、金に縁のない私は心惹かれ、時々真似して、会社へ行く道中など自転車を漕ぎながら又歩きながら、小声で唱えるようになったのが始まりでした。 まあ最初はただ唱えるだけでしたが。
 その後今度は母親の関係で、S寺に行くようになりました。 その寺は変わっていて、ご住職が『法座』という名で神霊伺いをしてくれる寺でした。 まあ所謂『霊媒』によるリーディングの一種ということになりますが、日本にも世界にもそういった能力を持たれる方はいて、有名どころとしては青森県の恐山のイタコさんは昔からですね。 死者の霊を呼びその思い等を霊媒者の言語中枢機能において言語化することはほぼ同じですが、それぞれ作法や特徴があります。 リーディング対象の霊が不特定である場合と、特定の霊を介する場合とか。 恐山のイタコさんは前者の典型で、依頼者の指定の霊を直接呼ぶタイプ、シルバーバーチの霊訓の著者などは後者の典型と言えるでしょう。 S寺の場合は、それぞれ依頼者の家の守護神にお伺いを立てると言うもので、中間的タイプと言うべきでしょうか。 因みに我が家の守護神様は『八幡様』です。 我が家は母を中心に(父は反対の立場だったが黙認した)八幡様のお告げを求めてどっぷりとS寺に浸かり、最盛期には毎月、母に至ってはスタッフにまでなって通ったのでございます。 本当に貴重な体験でございましたね。 ホント多少疲れましたが。 最後はあまりに次から次へと現れる土地の罪障に矢尽き刀折れる感があってリタイヤする形になっておりますが。  この道に入りますと、まずは先祖筋のご供養などから始まるのですが、おおよそ人と言うのものは『縁によって生じ、縁によって滅する。 縁によって出会い、縁によって別れる』もので、『袖すれ違うも他生の縁』たまたま電車で乗り合わせるも、他生すなわち過去世のどこかで縁があると言うことで、ましてや家族・隣人・学校会社での友人知人・先生生徒・上司部下等々、どこまで行っても人間の世、現世でのそれぞれの関係の向こうにはそれぞれの過去世の縁が在る訳です。 それぞれの人の全ての時の時々の思いにはその時の縁による過去世の思いや、それぞれのその時々に抱える罪障の思いがダブリ。  病や怪我には過去世と現世での出会による罪障なるものの災いがあるものでございます。 人は縁によって生まれ、縁によって病・怪我を得、あの世へ帰って行くもので、其の事そのものは変えることは出来ないのでございます。 じゃあ何で祈るのか? 何ででしょうね? すがる思いでしょうかね、八幡様のお告げの中にも『頼るべきは法華経、すがるべきは守護神』なる言葉がありまして、まあただただおすがりするのみかも知れません。 でもたまには「九死に一生を得る」感はあるのです。 勿論、最後はあの墓に眠ることには変わりありませんが。
 霊媒として神霊にしろ死者の霊にしろ、霊体の方の思いを言語化するのは容易ではありません。 その能力は極めて稀にもって生まれるもので、修行すれば誰でも取得できる能力ではありません。 S寺の場合は前住職が中山法華経寺系列の一寺に信心し、その法を持っていた師匠からその死の間際に受け継ぎ、最初は自分と家族等に守護神のお告げをしていたのですが、守護神の命により開山されました。 最初随分ご苦労されたと聞きますが、晩年宗教法人化を見届けてご入滅され、その後は、娘さんが法と寺を受け継いで現住職として活躍されております。 さらにご子息が日蓮宗の僧侶として得度され、副住職として、お寺を継ぐ体制が整って居られますが、その法が続くかは分かっておりません。 一般には勿論、僧侶等仏教関係者においても相当の割合で、霊そのもの存在を否定する方が多い中、他宗派及び神道系他全国に広げても、S寺のように『家の守護神』を呼び出す法は60年生きてきて、未だ他に聞いたことがありません。 又、霊媒を通して霊言を得るとき、多くの場合『霊体を霊媒者の体内に招き入れ、体や意識を霊体に一時的に預け、本人の意識は少し離れた上方から自分を見ているような』所謂トランス状態にて行われると言われますが、そうゆう状態をそうそう長くやり続けられるものではありません。 又危険も多く、故に霊媒師と共に介添え人が付くケースも聞きます。 S寺でもだからこそ「守護神にお伺いを立てる」と言う法にしていると聞いたことがあります。 そんなこともあって、実に良い時代にS寺にお付き合いさせていただいたものだ感謝する所です。
因みに、全住職の言葉に忘れられない一言があります。 『一生懸命ご信心下さい、きっと儲かりますよ』 えっ儲かったかって? 何しろどんな占い等を紐解いても『金に縁がない』としか言われない男だからね、基本的にはこの40年間、毎月払うもの払うと1万2万もないような月日が続いているのですが、でもね、今でも町内では『障害のある人』で通る体を持って生まれ、大学や著名な先生につくこともない男が、会社に職を得、特に大病も得ず、40年間ほぼ毎日酒にありつき、ここ数年は各種展覧会の出品費用や本への掲載費用などを毎月多い時は10万以上も払い(=払える稼ぎがある、が、払っちゃうから金がない)、そのお陰で、本の中では芸術院会員の絵描きさんなどとも轡を並べることも在る。 つまり『画家なごやひろし』は九死に一生を得ている感は在る訳です。 まあ最後まで売れない画家で終わりそうですが。
 さて、本来このような事は卯建を上げて(ウダツを揚げる=商売等で成功するから)から言えば、リアリティーもあろうと言うものですが、何しろこのまま無名に終わる可能性も高いので、この時期にとりあえず書き残しておこうと思う次第です。 もっとも年に数十人来るか来ないかと言うホームページに、極めてその存在を信じる人が少ない霊魂や過去世の話なので、ムダ骨かも知れませんが、良くも悪くも貴重な法座を随分たくさん頂いたので、その感謝と報恩の思いで、この経験から得た事を言葉として纏めておきたいと思います。
 それは一口に言えば『法華経をもって供養する』方法が在るということです。 それも在家・普通の一般人等であっても、特に檀家にならなくても、基本的には出来る法です。 一般に死者の供養は仏教系ではお寺の専門行事で、S寺の法座のお告げ以外では、たとえS寺であっても『「塔婆を立て、読経をいたします」=(お布施を頂きます。)』と言う答えが返ってくる。 我が家でも、お盆になるとお坊さんが新幹線で来てくれて、仏壇の前で読経してくれるので、僕らは後ろに座ってお数珠を手にしてお祈りをする形をして待つ、いや一応感心しながら坊さんの読経を聞いているが、良い声だなあと思うものの何を言ってるかは分からない。 で、当然多少のお金を包み、次のお家へとお送りするのが、毎年変わらぬ夏の始まりを告げる我が家の行事であります。 勿論8月のお盆にはお墓参りに参ります。 が、それとは似ていて非なる方法があるのです。 
それは、一例としては次のように唱えることです。
怨念退散妙法帰依、罪障消滅即身成仏 ○○霊位、南無妙法蓮華経・・(百回くらい)
(おんねんたいさん みょうほうきえ ざいしょうしょうめつ そくしんじょうぶつ ○○れいい なむみょうほうれんげきょう)
これを朝晩毎日二回、三週間〜49日繰り返します。
これが法座において供養対象者が特定された場合の基本形ですが、「平家一門諸霊」とか「○○合戦諸霊」等対象者が集団である場合、三ヶ月とか半年とか続けることもあります。
一般に此の法における供養には、それぞれの方の過去世や現世での現地への訪問等の縁起が必要であり、対象者の名前や縁起などは、ご法座にて守護神様のご指導を得る必要があります。 でも自分の生きている間に亡くなった親族であれば、仮にご法座を得なくとも、親族が供養することは当たり前であり十分な縁起があるので、お試し下って結構かと思うわけです。
又、祈願祈祷するようお導きを得ることもあります。 その時はそれぞれの家のご守護神様に祈願します。
○○家守護の南無○○(ご守護神様の名)、○○得しめ給え、南無妙法蓮華経・・(百回〜千回)
例えば、我が家で誰かが病気になると、「ナゴヤ家守護の南無八幡大菩薩、○○病平癒(又は健康回復)のこと願い奉る、南無妙法蓮華経・・」と祈ります。 (尚、此の法で宝くじに当たった試しはありません、悪しからず) まあそれぞれの人が持つ運命は変わらないところでありますが、でも、八十歳でガンの手術の後、医者から「余命半年くらいだから最後は家族のいる家を味あわせてやってくれないか」と言われて我が家にやって来た母の叔母さんは、事あるごとにご法座で「過去世○○の時代は○○だったので、○○の供養を・・」又手術等にあたっては「手術の成功祈願・」「回復祈願」と、親子でどっぷりとお題目合戦を演じ、最後には「人には寿命に祈りの力を足して余命を得ることもできるが、それでも命尽きる定命というものがあるのです」と言われ、あっぱれ九十六才で旅立たれました。 う〜ん、半年が十六年・・三十二倍ですね。 だから思うのですよ、もし此の法によって「万民一堂に南無妙法蓮華経と唱えれば」不老不死は無理としても、平均寿命がもう十歳くらい伸びるんじゃないかと。
えっ、そんな法はいらない!国の財政を考えろ!て?
まあそうおっしゃらず、此の法にはお金は掛かりません、(法座は有料ですが)
 年取ればそんなに量は食べないし、最も、おいしものを少しづつ色々種類多く・・とは言われるけど。
ですが、問題は、現在ご法座は大変貴重なものなっておりまして、そう多くの人には行き渡らない事でございます。
《どうしても興味がある方は「宝珠のことば」をキーワードにネット検索下さい、S寺ホームページにたどり着くことでしょう》
そこで私は考えました。
 もしこの文をお読みの貴方のおウチに神棚があるとか、観音様・地蔵様・阿弥陀様・金剛様等に信心なさって居られればその神仏様をご守護神とし、もし明確でない場合、日本人である事を縁起として日本の祖神として「筑波特高大明神様」をご守護神として、自分又は自家を基点とする先祖供養と「太平洋戦争戦没者諸霊」のご供養をなさっていただけないかと
毎日朝晩(昼・夜でも、できれば毎日・時々でも・たまにでも・ホント久しぶりでも・一度だけでも OK)
「○○家守護の南無○○(筑波特高大明神・八幡大菩薩・観世音菩薩・地蔵菩薩・阿弥陀如来・金剛大師・七面大明神・等々)」
又は、「日本国守護の(南無筑波特高大明神・南無日蓮大菩薩」
「○○(個人名)もしくは○○家の面々、大難を小難に小難を無難に、除病延寿息災延命と守護せしめたまえ、」
《この祈願だけでもOKですが》
続けて
「怨念退散妙法帰依、罪障消滅即身成仏 ○○家代々の諸霊、その怨念無念、苦しみの重い、嘆きの重い、チクショーの思いを今一心にお題目を唱える思いに変えて即身成仏、南無妙法蓮華経・・(百回くらい)」
その後もう一つ
「怨念退散妙法帰依、罪障消滅即身成仏 太平洋戦争犠牲者諸霊、その怨念無念、苦しみの重い、嘆きの重い、チクショーの思いを今一心にお題目を唱える思いに変えて即身成仏、南無妙法蓮華経・・(百回くらい)」
以上を一回の祈りとします。
もし、お題目を唱えている時に声がつまり『何かワアーという感じ』にとらわれるようなら、その感じこそ罪障と呼ばれる死者の思いです。 その思いを自分の一心にお題目を唱える思いで上方へ流しやるような感じで、強く唱えてください。 負けると自分が霊障を受けますよ。 死者の思いに負けてはいけません。 又そういう方は多少霊感があります。 又霊感がある方で霊障にやられ易い方は一番上の祈祷だけになさって下さい。 もし万が一抜けなくなった場合はS寺他日蓮宗池上本門寺・中山法華経寺等に浄霊のできる寺を紹介してもらうことをお勧めします。 又逆に、数ヶ月から数年で、供養については自然にお題目がいらないような感じで止まってしまうようになれば、それは貴方を縁起とする供養が終わったと考えて終了なさって結構です。 特に先祖供養は早く終了するかもしれません。 そのような訳で危険性もあるので、誰でもと言う訳には行かないのですが、日本人はかなり多く、この日本の国に輪廻転生を重ねることが多いようですし、又戦後七十年と言うことで、そろそろ直前の過去世に戦争の因縁を持つ方々が体制を占め、且つ高齢者は自身の人生に実体験として、その縁起を持っておられわけで、これから予想される大震災の時代や、世界的なハルマゲドン的騒乱の時代に、貴方が・日本人がそして日本国が九死に一生を得て生き残るた為には、先祖・過去世・そして先の大戦の因縁・罪障をほどいておく事が大変重要あり、又一人二人では成し得ないので、ここに、この時代に、この日本に生きた縁を信じて貴方にお願いするものです。

平成28年吉日

なごや ひろし