バックナンバー1 平成23年の徒然に

 平成23年が早くも半分以上過ぎてしまい、「あらもう・・」「あらもう・・」とため息ばかりの今日この頃ですが。 今年はアラブ諸国の騒乱に始まり、東北関東大震災そして福島原発の事故と続いて、梅雨の集中豪雨、世界でも大きな事故事件が相次ぎ、これでもかと言う感じですが、なんとか無事乗り越えたいところです。
 しかしながら千年ほど前のある方の日誌によると、東北で今回と同程度の津波を記録した地震の後、三年くらいの間は大きな地震が相次いだとの事、たしか飢饉も起きたと聞いたような気がします。 なんとも不安な話ですが。 今回はこれで収まってほしいものです。 ここは一つ、日本の神々と仏様に「日本国国土安穏万民和楽」とご祈願致すところです。 

 ところで日本の神様と言えば、最近友人から1冊の本を借りたのですが、その本によると古代にユダヤの部族の一部が日本の国にやってきて、日本の現在祭られる日本の神々とその神社そして天皇家の形成等に大きく影響を及ぼしたとの事、一口に言うと「日本の神道はユダヤ教を元としていて、天皇家は渡来したユダヤ民が起こした王家であり、代々の天皇は何らかの形でその子孫である」という論調の本です。 たとえば八幡神社の神はご存知八幡様ですが、その本では八幡様は渡来したユダヤの民『秦氏』の神=ヤハウェが源であるとの話です。
 その八幡様は法華経と法華経行者を守る神としても知られていて、その時『南無八幡大菩薩』と呼ばれます。 なぜか私の家はその『南無八幡大菩薩』を家の守護神「八幡様」としてお祭りしております。 
 そこでこの本の説を我が家流に解釈すると、

 『ユダヤの神であった八幡様はエジプトに攻められて国を失い逃げたユダヤの民の一部の者たちをこの日本の地に導き、この地を約束の地と定め、母なる神“神功皇后”の元に応神天皇としてお生まれになり、自ら現人神となって大和の国を作られた。 その後、 宇佐の地の行者の元に姿を現し、「我はこれ日本人皇第十六代誉田天皇広幡八幡麿なり、我が名は護国霊験威身神大自在王菩薩と言う」と託宣された。 すなわち八幡大菩薩としてお出になられたのです。 以後日本国を神として守ってこられた。』 

と解釈できるわけですね。

 大自在王菩薩であるわけですから、仏様に帰依されておられ仏法、特に法華経に縁深いようで、鎌倉時代には、「お題目」を提唱された日蓮御上人を法難からお救いになった件は有名です。
 因みに「扶桑略記」なる書では、八幡様がはじめて宇佐の地にお出ましになられたのは第二十九代欽明天皇(539〜571)三十二年(571年)とされていますが、この同じ571年に欽明天皇の孫として聖徳太子がお生まれになったわけで、それ故か聖徳太子は八幡様の生まれ変わりと言う人もいました。 
 また、仏教が日本に伝来したのは538年との説が有力との事です。この日本における仏教普及の最初のころは、それ以前の神道とその信心をめぐって争った時代であったわけですが、聖徳太子は神道と仏教がその根本が同一であることを見抜いた上で仏教を持って国を治める道を選らばれたわけです。 この友人によれば仏教(特に法華経)の元は旧約聖書であるとのことですが、だとすると神道と仏教とキリスト教およびユダヤ教(さらに言うとイスラム教も)皆おおもとは旧約聖書で一緒と言うことになり、聖徳太子がその根本は同一と考えられたのも当たり前といえますが、日本・欧米・イスラム圏とそれぞれその後の歴史はご存知のとおり大きく異なっているわけですね。 日本においては『その根本が同一である』との理念が、その後神仏習合を生み仏と神が多くの場合セットで祭られる事で、信心の争い無く共に興隆することを得る事につながったと思いますが、その影には八幡様の要所要所での託宣による導きも大きな意味を持ったと思います。 
 すなわち、まずは最初の宇佐の地での託宣は、短く言えば「我は応神天皇であり、且つ菩薩である」との意を持ち、天皇家の祖神みずから菩薩であるとの話は以後代々の天皇が仏法を持って護国をなすのを当然の成り行きとすると同時に、神道と仏教の融合を象徴し神仏習合を最初の託宣に示唆していると言えるわけです。 次に有名な託宣は、天平勝宝元年(749)奈良東大寺の大仏鋳造のおりで、このときは宇佐から禰宜の尼を遣わして「八幡神が天神地神を従えて銅の湯を水とし、わが身を草木土に交えて大仏鋳造しよう」と託宣されたと伝えられています。 そうして、781年には仏教保護・護国の神として八幡大菩薩の号を挙げられ、以後寺院の鎮守として勧請されることが多く全国に広まったとの事です。
 そういえば我が家の“家の宗旨”は曹洞宗で、菩提寺は新潟県長岡市の寺ですが、すぐ隣が八幡神社で、一応現在は塀で仕切ってあます。 でもきっと昔は塀が無かったのでしょうね。 それが明治の時「廃仏毀釈」によって分離されたのでしょう。

 「廃仏毀釈」はなぜ行われたのか? それは長い間もうひとつピンとこない疑問の一つでしたが、今回の友人からの借本では、“明治天皇の考え”の中に『皇室はユダヤの流れであり、神道はユダヤ教が元になっている、キリスト教の方が正しい』と言ったような考えを持っていたとの事で、だとすると、なるほどなと思いますね。
 『ユダヤ教』でなくて『キリスト教』であったのは、幕末から明治にかけて当時の政治を動かした人々に、色々と指導的立場にあった宣教師の方が、キリスト教に改宗したユダヤ人であったことも影響したとの論旨ですが、 またその当時の情勢を考えると、文明という面では欧米の方が圧倒的に進んで居ったわけで、その文明を生み育てた政治・文化等社会の土台としてキリスト教の方が優れていると見えたのでしょう。 たしかに、無から有は生まれないわけで、「一切は空である」とか「唯ひたすら御すがりする・・」と言った方向性より、「人は神の子であり、神はその意思を持って万物を作られた、その子である人間は・・・」と言った指向性のほうが新しい物は作られやすいわけで、結果的に物質文明は発達しやすい。
 しかしながら、「地球温暖化」等の地球規模での環境の変化は、この西洋型物質文明の世界的な発達が一つの要因であり、結果的に人類滅亡とも言われる状態になる可能性がどんどん大きくなってゆく。 つまりめぐりめぐって“人類滅亡の元であった”とすれば、それはいったい何なのかです。

 でもそれ自体はもう誰にも止められない、日本であっても江戸時代には戻れない。
 私は思うのだが。 ここ百年ほどの地球環境の変化は確かに西洋文明の発達による部分が大きいと思うが、それを云々しても手遅れであり、すでに地球は過去何回か繰り返された自然のプロセスに入っていると思われる。 すなわち“二酸化炭素が増える=>温暖化する=>北極圏の永久凍土が溶ける=>含有メタンの放出や泥炭層の分解などにより、大量のメタンガスがでる(メタンは直接的にも二酸化炭素よりも温暖化効果が高いとされているが、大気中では遅かれ早かれ酸化されて水と二酸化炭素になる)=>又温暖化する・・を繰り返して加速度的に進行し、かなり短期間ではあるが、大気中の酸素濃度がさがる可能性が大きい。 現在大気中の酸素濃度は21%との事だが、人間が呼吸できる限界の酸素濃度は18%、差は3%しかないわけです。 勿論長い年月(数千年)の中では回復していく物ですが。 人間(おそらくは多くの地上の哺乳動物も)はほんの数分でも18%以下の低酸素状態で死んでしまう物なのです。 一般に人間の場合、二呼吸ぐらいで意識を失い、十数分その状態にいればほとんど死んでしまいます。 またこの自然のプロセスの一場面にはおそらく、ある夏の盛りか終わりごろ広大なツンドラ地帯で一斉にメタンが噴出し自然発火、広大な地域が数週間程度火の海に包まれ、かなり低い低酸素で逆に高濃度の一酸化炭素を含む空気の塊が出来る、一帯は上昇気流すなわち低気圧地帯に、上空に舞い上がったその気団は近くの高気圧帯に降りてくる。・・と言うシナリオが在るのではないか、そういえば何かの予言に空から大魔王が降りてくるとか何とかと言うのがあったな。 ついでに言えば恐竜が絶滅したのもこの同じようシナリオも有り得るね、つまり隕石がユカタン半島に衝突したとき、あの辺り(メキシコからアメリカ南西部)の地層に良く見られる天然ガスを含む地層を覆っていた岩盤に多くの亀裂が発生し、一斉にガスがもれ火が付いた、つまり巨大なガスタンクが爆発炎上したような感じ、ほんとに短い間ではあったろうが、低酸素高一酸化炭素の気団が大気中を駆け巡り、デカイやつは皆死に絶えた。 と言うシナリオ、まあ恐竜はどうあれ、ここ数年突然ニュースになり始めたツンドラ地帯の夏の状況は氷が解けて沼が出来そこからポコポコとメタンが湧き出て、山火事も発生していると言った状況を伝えています。 北極圏の温暖化を示すと思われる指標の一つである北極海の氷の面積を示すグラフも年を追うごとに基本的に年々低下してきており、今年も同時期において最低記録を更新しつつ推移しています。
山火事はまだ線で燃えています。 線や点で燃えている場合は大魔王にはならないが、この地域にはメタンハイドレイドが地表近くあるところもあり一部地表に露出している画像を見たような気がする。 そういった物が広大な一地域として一斉に燃えたらと想像するとあながち在り得ないシナリオではないと思えるのですが、まあ良い子の皆さんはまねして想像しない様にしてくださいね。

 振り返って江戸時代を考えて見ると、燃料は薪又は炭でした。 どちらも木を切って作りますが、必ず株を残しそこから又育った木を使うわけです。 照明は菜種油とろうそくでした。 どちらも植物の実で、全て国内で育てられていました。 つまりCO2サイクルと言う観点で言えば完全サイクル型であったわけです。 しかしながらその生活実態はというと残念ながら厳しい物があり、人口は江戸時代約三百年間三千万人ほぼ横ばいに推移しています。 人口と言うのは出生数と死亡数の差が増減となるので、その人生の内容は5人生まれて平均1人しか成人せず(乳幼児死亡率が高かった)伝染病などによる死亡さらに姥捨て山などに代表される人為的間引き、家督相続の制限(農業生産量などはほぼ一定であったので、分割相続していくと誰一人生きて行けなくなる)による渡世人化した者の行き倒れ(今で言うホームレス化した人々の死)等々生きることは死と正しく裏表であった時代だったわけです。 物理的には当然であろうけれども、現代人的心情では耐え切れない所もあるわけです。 かく言う私もこう暑くなるとエアコン無しでは生きていけない人種で、自分のいる部屋はエアコン付けっぱなしで省エネどこ吹く風なのよね。 真にまずい話ですね! まあ結局どうせ死ぬときは皆同じと腹をくくるしかないのかもしれません。

 そうなると今度、問題は上手にあの世に帰ることですね。 人は縁在って生まれ縁在って病やケガを得てあの世に近づいて行く、一切は縁によって生じ縁によって滅すると申します。 この世において唯一つの真実は諸行無常であり、人において在ると見ることが出来る一切は空であり、人において一切は色として存在している。 まあ仏教的世界観の一端ですが、あの世に帰るとは人が死んでその霊体が霊界に帰ることを意味します。 霊界と言っても、物理空間的場所と言うよりは次元の違いとして想像するほうが良いかもしれません。 人が死ぬと霊体と肉体は分離します。 霊体は念を保持していますが、念そのものは基本的に人間の思考の結果による物で、死ぬと新たな念は生まれません。 つまり霊体単独では死んだときの自分の念を変更できない状態になります。 そこで仏教は葬式などの儀式を通して死者の霊を供養します。 その第一は死者の霊に自分が死んだことを自覚させるそして霊界へ帰るよう説得する。 念とは思いでもあるので死んだ人の思いを祈る人の思いによって、すこしその方向性を変えるのです。 あの世に帰る方向に。 念が有ること自体は変えられないが、その思いの方向は生きる者の祈りによって変えられるのです。 祈り方は様々でありこれだけしかダメという事はありません。 しかしながら死ぬ時の状態によってはそう簡単に人の祈りに耳を貸さない者もいます。 たとえば刀を持って相手と戦い、今まさに相手の刀が我が身を貫いた『おのれ!畜生!』と叫んでいる人に、ちょっと肩をたたいて「貴方は死にますよ、あきらめも肝心ですよ」といってもハイ解りましたと言う人はいません。 ただひたすら生きたい死にたくない助けて〜と叫び狂う者も。 まあ人生色々、死に方も色々、その瞬間の思いを完全にコントロール出来る人はいないわけですが、あまりに強い思いの場合、中にはうまく霊界に帰れず、不成仏霊としてさまよったり、その死の場所に留まり地縛霊化する者もいます。 不成仏霊や地縛霊化して長く供養されないと霊魂としての特性を失い魑魅魍魎の類となり消えて行くます。 それが真の魂の死であるかもしれませんが。

 神霊世界は人間から見て、その観測結果は1つの存在として感じ取ることも出来るが、個々の神々の集合としても感じ取ることが出来るものであり、人が「一神と観るか、八百万の神と観るか」は人の解釈の違いであり、神霊界側から見て大して変わりは無いように思います。 万物には霊が宿る、もしくは霊宿りて存在となる。 この宇宙には宇宙の神が、太陽系には太陽を中心とした神が、地球には地球の神が、地上には地上の創世の神が居られて、そうして地球上の生命の楽園と言うべきここ数億年の状況があったわけですが、2万年位前、とある神様がこの地球上に現れて、一人さびしかったのか、現在原人と呼ばれる種族から遺伝子操作して自分たちによく似た娘を作りました。 たいそう気に入って可愛がっていたのですが、別な仲間の神様に食べられちゃったのです。 「ぼ!ぼくの大切なイブちゃんを食べちゃだめ」と言ったのですが、すでに遅く、骨だけに、もう一度良く考えて作り直せばよかったかも知れませんが、とにかくお気に入りだったので残った骨からまたイブちゃんを作ったのですね。 その後その神様が天上界にお帰りになって、イブの子孫が増えていった。 そうすると天上界での人間の評判は必ずしも良くない、地上に一人勝ち状態で、創世の神様が御造りになった地上の生命の楽園を次々と荒らしてゆく。 そこで神様は使いを立てて人々の教育を始めました。 ところが人はあまり神の言うことを聞かない。 ついには「神なんかいない」という者まで現れて、全ては自分たちの物だとしてあらゆる物を食い尽くしてゆく始末、神様は困って父なる神に助けを求めると「お前が作ったのだからお前が何とかしろ」と言われ、何とか救う手立ては無いかと考えるものの、人間界の有様はすさまじく、神様なんかどこ吹く風、、神が先に在って、人を作ったのであり、人が神を作ったわけでなく、人のためだけに神が在るわけでない、創世の神は人のためにこの地球や太陽そして宇宙を作ったわけでないのだが、最近では「人は生まれながらに自由で平等であるのだから、やりたいことだけやればよい、やりたくないことはしなくていいんだ」とまで言う人も、けれどもこの大自然の中の一つの存在としてある人間が、そんな考えでまともに生きていけるわけはないと思いませんか、 第一にしてチョット大きな津波でも来れば結局どうしようもないじゃない、旱魃に襲われて国を出た難民に自由と平等があるか? まったく困った物だ。 この困ったチャンは西洋物質文明の根底にあるキリスト教的世界観の中に流れ育ってきた物だ。 『人は神の僕であったが、神の作った楽園を罪人として追われた、しかしその原罪をキリストさんが背負ってくれた。 だからわれわれには罪は無く神の前に自由だ平等だ・・・』と、最初はまだ“神の前に”が付いていたが、やがて人間中心主義の流れに押され神の名は消えていき、ただの自由と平等になった。 もっともその平等も機会のみで後は力あるものだけの自由がはびこっているともいえますが。 

神様は今泣いているように思います。 
「ごめんなさいね、我が子供たちよ、全ての者に我が祝福を授けたいと願ってきたが、もはや叶わない」と
で、神様はどうするか。
『そうだ!最後の一縷の望みをかけて、もう一度あの方にお願いしよう』
そう、億年の時を超え、あまたの星々の高等生物を教え導いてきたあの方に
と言うわけでいわゆる仏陀は近々再臨されるかも知れません。
その時「汝ら寸心を改め、南無妙法蓮華経に帰依せよ」と言うかどうかは判りませんが。
でもそれが人類に与えられる最後のオポチュニティーとなるでしょう。 

       

 この絵は「海の風景」と名づけた一連の連作の一枚でありますが、千葉県安房小湊付近の風景です。
 この絵の中央付近切通しの向こうに見える岬が入道ヶ岬、道は岬の手前でトンネルを潜り、少し下りて誕生寺裏手に出る。
 道端の草は誕生寺に通じる道の傍らに芽吹き、名も無く茂り、花咲き、そして枯れる。
 人もまたその様に生きていけたらよいのかも知れません。

平成23年8月吉日 徒然に
なごや ひろし

平成25年10月14日 蛇足
 酸素減少による人類の危機リスクについて
先に本文中で18%という数字を上げていて、あたかも酸素濃度18%の空気ではすぐに人が死んでしまうように記述されていますが、科学的には誤りです。 18%という数字は労働安全衛生法に定められた作業環境基準でそれ以下の環境で作業してはいけませんと言う値です。 とある学者さんのホームページのデータでは16%位から自覚症状が出始め、10%以下あたりから生命の危険があるようになっておりました。 そりゃそうです。 18%で意識障害が出るようなら、気付いた時にはすでおそく・・で、逃げられないので、作業基準としては、十分に回避可能で且つ危険性が迫っていると言う段階を限界としているわけです。 またよくこの頃、新聞等で高い山に登った人を紹介するときに「酸素が半分」などとやや強調気味に記述されることが多く、それはあたかも酸素濃度が薄くても大丈夫だと思えるわけですが、この場合、気圧が低い分通常の一呼吸あたりの呼気の体積に含まれる各分子の数が少ないことを意味していて、その構成比率に変化はないわけです。 だから単純に機械的に考えれば単位時間あたりの呼吸量を増加すれば酸素摂取量の恒常性は保たれるので、呼吸器系及び赤血球の増加や変化等循環器系の低酸素順応により、比較的長期に行動できる訳で事実4500M付近まで人間の住む村があるとのことです。 
 では一体何故18%と書いたのか? まず第一に呼吸は酸素勾配を必要とする、つまり内と外とで酸素濃度にある一定の差が必要なです。 血液内で酸素を運ぶのは赤血球中のヘモグロビンですが、肺において赤血球及びそのヘモグロビンが直接外気と接触するわけでなく、肺胞内の毛細血管内において血管外壁の細胞及びそれを包む粘液を通して侵入してきた酸素を吸着し体内のいずれかの場所においてその酸素を離すことでいわゆる呼吸と言うシステムが成り立っているわけで、つまり酸素は最初自分で粘液中に入ってくるのです。 粘液のネバネバが酸素を補足しているかもしれないが、そしたら今度は体内に対しても酸素を手放さないので、結局この体の内と外での酸素循環の関係は、海と大気の関係によく似ている。 途中の推論を省くが、体内における平均酸素濃度は外気の酸素濃度に比例的に変化する可能性が高い。 外気=大気中の酸素濃度が1%減ると結果的に体内の平均酸素濃度も1%近く減る、もともと大気中酸素21%で排出される呼気の酸素濃度は16%程度と言われる。 呼吸の平均的なサイクル時間から見て排出呼気中濃度と肺胞内粘膜組織の酸素濃度にまだ若干の勾配が残っているはずだ。 液体内の酸素濃度と気体内での酸素濃度を同一の%で言うことは科学的でないが、常に一定の環境で接する気体と液体ではそれぞれの内部に含有する共通気体成分のそれぞれに対する比率は時間の経過の中で平衡に達するので、便宜的にこの問題を気体としての酸素濃度%で考えると、肺胞内粘膜組織の酸素濃度おおよそ15%相当、これが大気20%時では14%になる可能性が高いと思うわけです。 差は1%ですが、14分の1は7%、14分の2は14%、これくらいは確かに人間の低酸素順応能力による循環器系機能向上の範囲内かもしれません。 しかし当然限界があるわけです。 これが第一の理由
 第二は、人間はホモサピエンス、ホモ族霊長類の中でサピエンス(知恵)を持つ者です。 そのサピエンスを失ったら存続可能でしょうか? 誰もがすぐ結論に達するでしょうが、たとえ現在ジャングルの奥地に裸族として暮らしていらっしゃる方々も、条件が揃えば大学教授になりうる。 つまり人としての基礎的ポテンシャルは変わらない、逆に言えば裸族として生存もサピエンス無しでは成り立たない、人類がサピエンスを継続できないとき、単に現文明の崩壊のみならず、人類滅亡の時なのです。 ホモサピエンスとして進化した人間にはもはや単なるホモ族中の一動物には戻れないのです。 そこに人体中もっとも酸素を必要とし低酸素に弱いとみられる脳の存在性が絡んでくるのです。 まずは胎児として母体内での成長、そして乳児・幼児として成長、児童・学生としての成長、さらに現文明維持ではその後の研究開発能力維持、そのいずれの場面においても低酸素環境は影響を及ぶすでありましょうが、特に私が危惧するのは、妊娠出産過程における胎児脳への影響です。 なぜかというと、大きくなってからならば脳といえどもある程度のダメージに対して抵抗性や回復性及び代替え性を持っていますが、胎児の時は特に小さな病変・ダメージがその後の一生消えることのない変化をもたらすことが多いのです。 そして胎児の呼吸システムは胎盤を通して母体の間で酸素と二酸化炭素をやり取りします。 ということはここに第二の酸素勾配が必要です。 それを司る一つの要素には胎児ヘモグロビンと成人ヘモグロビンの酸素吸着能力の違いがあるようですが、おそらくは肺の内腔表面ほどではないにしろ多少の酸素勾配が存在しておるでしょう。 その二つの勾配をたよりとして胎児は母体内に生き成長しているわけです。 その頼りとする酸素勾配は母体と外気における差に比べて決して大きくはないはずで、結果的に人類は大気中酸素濃度低下何%までサピエンスを維持できるか?との問いに、思っている以上にその幅が小さい可能性があると危惧するのです。
 ホームページを検索しますとここの所この問題に対する文書が多く出されてきて嬉しく思っているのですが、それだけ人々の関心も高くなっているのでしょう。 今のところCO2増加による温暖化に重点が置かれていますが、前よりもCO2増加と相関関係にある酸素濃度低下にも多くの情報が載せられるようになったと思います。 やはり注目するのは波照間島及び落石での実測値のデータでなんでも計測が20年を迎えたとのこと、ここ十年特に観測データも信頼性高くなってきているようです。 今のところ大気中の酸素濃度は年4ppm程度の減少にとどまっておるようで1%減少するには2500年かかる計算になるわけでちょっとホッとしているわけです。 というのも少し前までは波照間島のデータとして二十年前くらいのデータしか検索できず、逆に世界の化石燃料消費量はここ十年に掛けてかなり増加しており原油換算及びそれから出される酸素消費量による減少率とかなりかけ離れていて心配したのです。 計算上人類の活動では近年一年間に10ppm分くらい消費していて、それは年々増える予測であります。 もしそのまんま10ppmづつだと1%減るのに千年、20ppmでは500年ですからね、人として考える必要が出てくるわけです。 結果的にそのデータや文献から見えてきたのは、まだ地球は酸素を作り続けてくれているということと、海の酸素含有量が思いのほか多い、そして海と大気の間で酸素はかなり抵抗なく速やかに移動し平行に達するようだということです。 その結果人間の酸素消費量がそのまま大気中酸素濃度の低下とはならずに済んでいるのでしょう。 科学者の皆様にはぜひ今後もその叡智をこの問題に傾注くださることをお願いする次第です。