徒然に

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 今年は平成30年ですが、来年平成31年には、新しい年号になるとのこと、平成時代はちょうど30年間続いたことになりますね。 それにしても「光陰矢の如し、少年老い易く学成り難し」を地で行くような我が人生、半世紀を超え、還暦を超え、山また山というよりは、谷また谷の人生、ああ〜また昭和が遠くなって行く。 

 ここ3年ほど「芸術界」なる本に出させて戴いておりまして、今回3回目と言うことで、「ふりかえる少女」油彩F6号を掲載させていただきました。 この本自体は、出品作家から協賛費なるものを取って出版し、全国の公立の図書館等に寄贈するすると言う、結構この世界では沢山ある本の一つですが、営業さんの言うことには、少し変わったプレミアが付いておるとのことで、『それぞれ県の教育委員会において採用を決めると、それぞれの作家のページを1枚物のプリントにして、公立学校の道徳の授業で参考資料と使わせてもらう』という話です。 正直ほんまかいな!という感じなのですが、又、僕自身コミニュケーションルートの少ない人間なので、今現在営業さん以外からの情報は得ていないのですが、三年目もこうして掲載頂き、まんざらとも思えないので、学童期における児童のみなさんに対するアートの有効性について、その可能性を少し科学っぽく、私の仮説として記しておきたいと思います。

 人間はその活動を脳においてすべてを判断し活動しています。 昔は「理性と欲望」「意識と無意識」「心と体」等々、ともすると対立し、そこに何か別個に存在しているかのように考えられて来ましたが、昨今の脳科学の発展は、『人間の活動の全ては、脳における情報処理の結果と、それらにより動かされる身体の動きの総和である』事と、『脳の部分部分はそれぞれ特定の機能を有し、それら機能の総合的連携により、ある時ある所でのある人のその瞬間における、思い・考え・対応等の情報処理結果が作られている。 そしてその処理結果が、、世において「良い・悪い・愛・欲望・善・邪悪・・等々」であっても、それを導き出した脳の、その処理結果にキーとなった機能部分の神経細胞に、善なる細胞・悪なる細胞・・があるわけでない。 (それはパソコンのハードとソフトに関係に似て、全ての情報はハード上では「1」あるいは「0」を表す電気的信号等のある集まりである)』事とよく似ていると思います。 つまり人間の脳は要するに情報処理システムであると言えると思います。 勿論基本的に違う点も多々あって、たとえば、データの物理的存在形態としての電気的信号が、コンピューターでは0と1のデジタルであるのに対して、人間及び生物に於ける脳及び神経系では、電位差等の何らかの電気的な量の強弱が、大きな意味を持つアナログデータであるとか。 又、コンピューターの場合、個々はそれぞれ人間が設計し、製造して生まれ、その時点で各部及び全体のパフォーマンスは決められた性能を有し、壊れるまで変わらないわけですが、人間の脳の場合、母胎内で胎児として脳としての分化から成長し初め、変化し続け、おおよそ百年ほど活動を続ける独立系にして変化し続けるシステムであることなどです。 実際の脳における機能や機構その連携等は非常に専門的な知識の集合体となり、その深さや量は一人ですべてを把握することは困難でありましょうが、システムとしてみると、その機能・動作等を説明のために単純化する「モデル化」が可能です。 そこでそのモデルの一案を考えてみました。

「人間が考えている」ということの脳における処理システムの基礎モデルの一仮説

人は一般に、自分には、有意識と無意識部分があり、そのうち「有意識」が人間の主人であり、自分あると思っています。 しかし、情報処理という観点で考えて見ますと、無意識世界における、各種感覚器官より絶え間なく通知される信号を意味化する、すなわち認識化に膨大な処理が行われていて、脳の機能及び処理の大半が使用されており、意識はその認識されて意識界上に現れたシンボルと、記憶領域(短期・中期・長期)記憶データ等との瞬間的リンクの流れとして存在していると思われる。 別に例えれば、「無意識界と言う水の面に、外界から感覚器によって信号化された情報の流入により波が立ち、その波に揺れる小舟が意識と言う自我である」と表現すると、どこで聞いた話になりますが、ある意味、昔の方の知恵が今科学的根拠を得る時代になったということでしょう。 すなわち意識つまり考えると言うことは、無意識界における「何らかの認識」を元にしている、そしてその「認識}の多くは「無意識の情報処理」によって作られている。 と言えましょう。 尚、勉強や研究・すでにデータ化された情報の記憶・思考の結果の記憶等、論理的有意識の活動の結果得られた「認識」もある訳ですが、今回この思考モデルは、成長過程にある児童の皆様とその成長過程に対するアートの有効性を考えるための極めて基礎的なモデルを想定するので、と言うか、そこまで踏み込むと僕の頭ではついて行けないので、割愛させていただきます。 正直「この絵はいくらか?」とすぐに考える様になられますと、売れない僕のアートはあまり感動しない訳で、所謂著名な作家様の「美術作品」の方が多くの関心を集めると言うものでしょう。
 さて、この私の仮説では、結局人間行動を作る意識は全て無意識下に生まれる「ある認識」から始まると考え、その『認識を作る無意識下の処理』を、この論の中では「認識システム」と呼ばせていただきます。 (尚、一般に「認識システム」と言うと、コンピューターを使って、画像情報などの中から一意の《特定の》対象を選び出す事ができる装置及びソフトをさします) 
 この人間の認識システムとはどういう物かと考えるとき、最も一般的にしてわかりやすいのは視覚情報ではないでしょうか、例えば、今私はパソコン画面の前にいます。 ブラインドタッチはできないので、目は画面と手元のキーボードを行ったり来たりしています。 その都度我が認識システムは、画面上の編集部分の少し手前の数文字と変換しつつある文字を、目から送られた画像データの中から文字として認識し、さらに言語データとして脳裏に提示してくれます。 変換された文字列が言語として意味あるものになり、今自分がそこに文章の一部として画面上に置こうとした物である事を確認すると、反射的に目は下のキーボードへ向かいます。 認識システムは次に意識した文字から、対象のアルファベッドの位置をやや大まかではあるが記憶から引っ張り出し、殆どは瞬時に他の部分を見ることなく、対象のキーに目の照準を合わせ、手指をコントロールして打鍵操作を行います。 必要な文字列を打鍵すると、指はエンターキーを押し、ほぼ同時に、目は又画面上の編集部へ視線を写し、・・と続くわけですね。 次に頭を右に回してみましょう。 画像が周囲の部屋の片隅へと流れていきます。 その瞬間・・白い物体―《御神酒入れだ(空の)》・・ちらっと赤い―《コカコーラの缶だ》・・白いやや小ぶりの角ばった―《ああ、あの本だ》・・外は―《カーテンの色=薄暗い》―何時だ―《時計=3時近い》・・そこで僕は考えるわけです、『あっもう夕方だ、ビールを買いに行かなくっちゃ』とね。 まあその様に、我々は毎日起きてから眠るまで、「見る・聞くー>知覚するー>認識するー>考えるー>行動する」を常に連続して繰り返している訳ですね。 勿論、無意識下の認識システムにとっては視覚情報は対象の一つでしかありませんが、あくまでもアートの可能性を探る、人の認識システムの基礎モデル一考として、もう少し視覚情報に於ける認識を中心に、言葉を進めてみたいと思います。 
 我々のこの認識システムはいつ頃から活動を始めるのでしょうか。 それは多分胎児として母胎内にいる出生数ヶ月前くらいではないでしょうか、人は出生時にオギャーと一声泣き呼吸を始めるようですが、これはどのような機構によって成り立つでしょうか、遺伝子は基本的に生化学的連鎖反応プログラムソースと言えると思いますが、遺伝子上にこの行動をプログラムできるでしょうか? 遺伝子とその作用の形態から見て、人の一つ一つの行動を直接記述することは困難でありましょう。 やはりイベント駆動型のサブシステム(内外より特定の刺激等ある条件が満たされた時、それに対応する特定の動作をする)体内組織の発生が記述されており、そのサブシステム組織が遺伝子上に定められた機能を発し、その結果、全体としての個人としての存在が作られている。 認識システムもそんな一つのサブシステムの一つと考えられます。 つまり認識システムはその最初の認識用比較基礎データとして、母胎内における自分の状態を各種感覚器官の発生し始めた信号を『体感・感じ』と覚え、出生による自分の置かれた状態がそのデータと一致しないことを認識し、泣けと言う信号を作る、つまり認識システムの人生最初の仕事は、『自分がもう完全に安全な母胎内に居ない=自分の存在危機』であり、『危機意識=不安=泣く』という有意識システムの初期設定により、この産声は発せられ、同時にそれは呼吸器系サブシステムの稼動スィッチオンを意味するように成っているのだと思います。 そしてしばらく育つと、目が見え始め、「いないいないばあ」等に反応するようになります。 視覚情報に於ける認識システムの発育は当然その頃から始まるのでしょう。 皆さんの中には、赤ちゃんがハイハイを始め、何でも口に入れてみる様になった頃、スーパーのチラシのイチゴの写真に手を伸ばし、食べようとする仕草をする姿を見たことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか、赤ちゃんは数回その行動を繰り返すと諦め、以後しばらくチラシがあっても全く反応しなくなります。 しかし、3〜4歳頃からだと思いますが、女の子ではイチゴの写真のあるチラシを前に「わあ〜イチゴ!美味しそう〜」などと言いながら母親の顔を見上げて、ねだる光景を見たことはありませんか、もっとも男の子は単純で「イチゴ!イチゴ!」と飛び跳ね、母親が根負けして「今度買ってあげるわよ!」というまで騒ぐようですが、さて、この一連の赤ちゃんの成長過程から、認識システムの『写真』に対する認識の発育を考えて見ますと、最初にイチゴの写真を見て『なんか美味しそうだな』と興味を持ち、手を伸ばす、しかし掴めない・食べれない、この時点で『食べれないもの』と覚えます。 以後しばらくは、視界にイチゴの写真が入ってきても、認識システムは『食べれないもの』として認識するので、赤ちゃんは無視する訳です。 その後、実際に美味しいイチゴを食べる機会があると、食べたイチゴの色形・食感・味・香り・手触り等を覚えます。 これがやがて、母親とのやり取りし出す頃には、認識システムはスーパーのチラシの中に、イチゴの写真を検知すると、その色形から食べた記憶とリンクして『あの美味しいイチゴの食べれないヤツだ』(言葉で言えば)との認識を有意識に通知、そこで子は『あの食えるイチゴが食べたい!』と考え、おねだりと言う一連の行動に打って出るわけですね。 その頃には、母親などから「それは写真よ!」と言われ、その色形はあのイチゴなのに、『食べれないこの物』は“写真”と言うことも覚えるわけです。 やがてこの“写真”に対する認識は、その後の数々の体験により多くの情報が付け加えられて行く訳ですが、最初に覚えた『食べれない物』とのデータはおおよそ死かその直前まで、保持されるのです。 そう、赤ちゃんの事例に比べると遭遇するのはかなり稀ではありますが、老人が所謂ボケて行って、あの仕草を見せ、「お父さん!それは写真よ!」とたしなめられる場面を記憶している方も居られるでしょう。 そうそれは半年くらい前のエピソードとして。 それはさて置き、俗に『三つ子(三歳頃)の魂百歳まで』と申しますが、あながち迷信等ではなく、幼児期の記憶は死ぬまで基本的には維持されると思われます。 ただそれは言語データでも画像データでも無い、ある種の体感データであり、無意識の認識システムは、一度ある事象に対する、自分の体験から自分の体感を覚えると、以後似たような事象に遭遇したとき、そのデータとその時点で、『現在の自分が得ているデータ』とを比較して”真”であるか”偽”であるかを常に識別し、一致した記憶と現在感知したものとをリンク(関連付け)することで、有意識界にその事象に対する”認識”を上程している。 そして我々は有意識界上に現れたその”認識”を素に、「ああでもないこうでもない」若しくは「ああしたいこうしたい」などと考えているわけですな。 それにしても我が無意識界の認識システムは考えれば考えるほどよく出来てるのに、その立派な”認識”を素に僕ちゃんと言えば、車を運転中にすれ違う女性に何故か視線が行き、その上何故かそのお顔に一瞬にして目の焦点が合い、『綺麗なヒトだなあ〜』・・夕方ともなれば『今日は給料日の後だからビールの次の酒は少し奮発して○○山にしよう!』・・なんちゃって、まだまだ成仏出来そうないなあ〜、その内、神様に「もっと真面目にやれー」と怒られそうな気がする。 そうだ少しは世のため人のために役立つことを考えねば! そこで私は無い知恵を弄りだして見ました。
妄想かもしれない仮説
 さて、イチゴをおねだりしていた可愛いお子さんも段々大きくなられ、難しいお年頃を迎えた頃、よくドラマなどでは親子ゲンカのシーンとして、何か小言を言う母親に対して、お子さんが「あんたなんか母親じゃない! ほっといてよ」などと声を荒上げ、家を出ていき、残された母親は「あんなに素直ないい子だったのに?」とオロオロとすると言う場面を見かけたことがあるかと思いますが、又実際にそのようなご経験をお持ちの方もいらっしゃることでしょう。 何故? この問題をこの認識システムの問題として考えて見ますと、そのお子さんの認識システムは『お子さんが幼少期に得た”母親”なる人の自分の体感的データ(常に自分に良くしてくれた・褒めてくれた・常に自分の味方だった・自分の自由にしてくれた・等々の体験とその体感)』と『現在自分の前で自分に接している人(母親)から得る体感的データ(ああしろこうしろと言う・あれはダメこれもダメと言う・自分のやりたいことさせてくれない・褒めてくれない・・)』とを比較して、「偽(あの母親ではない)」と判別し、お子さんの有意識界上にその認識を上程するので、まだまだ客観性や一種の諦め等が充分成長されていない、お子さんの有意識は、「あんたなんか、もう、母親じゃない!」と結論付け、それに基づいて一連の行動『衝動的に家から出ていく等』を実行するわけです。 つまり「素直」でなくなったわけでなく、まだまだ素直だから、この一連の問題は世に多々出現するのだと考えられるわけです。 では私の認識システム論仮説としてはそれに対してどう対処すべきなのか、先に例を挙げた『写真に対する認識』の成立過程とその後から言って、人がその幼少期に得た『母・父等と自分』に対する体感的データは基本的に生涯変わることはないと思われますが、当然それぞれ方の折々の体験に因って関連するデータが付加されて行っているハズです。 その時、今回事例のそのお子様の認識システムが、その認識基礎データとして、「自分は『この父母なる方の元に生まれ、その愛・庇護の元に育ち、やがて自分が父母というものになる途上の者』である」との自己認識を持っていれば、この事例はどう変化したかと想像すれば、大体、お子様の無意識界の認識システムに対し、どのような認識基礎データの醸成をアプローチすべきかという事も見てくると思います。 ただひとつ言えることは、それを言葉で伝えるにしろ、他の体験にしろ、それがその子にとってその認識の原体験とならないと、そのアプローチその物が、その時そのお子さんの認識システムより『偽』とされ、「へえ〜、ふ〜ん」で終わり兼ねい、場合によっては逆効果を生む結果に陥ることもあるという事です。 
 
平成30年春 徒然に

なごや ひろし