船は今Brazil北東部Ceara州都Fortalezaを出航し、3箇所のBrazil寄港を終わりBarbadosに向かう。初めてのBrazil訪問で、観光客がよく訪れる産業の都Sao PauloとAmazon奥地の中心都市Manausに行けなかったのは残念だが、観光と宝石の美港Rio de Janeiro、Brazil最初の古都Salvador、およびFortalezaに立ち寄り、また幾つかの講義を聞いて、多様なBrazilの一つの切り口が掴めたように感じている。
インドに向かうはずのポルトガル船がIndioの住むBrazilに漂着したのが1500年だそうだ。Brazilという国名の元になった樹液が赤い染料になるPau Brasilという木だけが輸出品で、あまり重要視されなかったが、1690年に金鉱、1729年にダイヤモンドが発見されるに至り、欧州からの移民が急増した。これら鉱物はRio北方のMinas-Gerais州(文字通り「鉱物産出」の意味)で出たため、一番近い港町RioにSalvadorから1763年に遷都された。南方開発の意図もあったという。Napoleonに本国を占領されたポルトガルの王室が挙げてRioに移住しRioは1808年Portugal-Brazil王国の首都となった。Napoleonが負けて王が帰国した際に残した王子が、1822年にBrazil帝国の独立を宣言して皇帝となった。以降共和制や軍政などの経緯があり、奥地開発の意図もあって1960年には人工都市Braziliaに遷都された。Brazilの重要な特徴は、欧州移民、砂糖黍とコーヒーのために導入したアフリカ系黒人奴隷、日系を含むアジア人、などの混血が進み、人種差別はほとんど無いのだそうだ。飛行機のスチュアデスは大半が白人だったが、これは人種差別というより適性なのだろう。しかし市民革命の歴史がないためと私は思うのだが、社会階層の差、貧富の差が大きい。加えて南北格差が大きい。ここ南半球では南北格差の意味まで逆で、RioやSao Pauloを含む発展した南部の平均年収(月収に非ず)がUS$5kに対して、農業から抜けきれない北部はUS$1.3kと聞いた。ただ貧富の差が大きすぎて平均が意味をなさないらしい。白人率も南北差が大きい。
1888年の奴隷廃止以降は欧州・日本からの移民が増え、日本の経済発展で日系移民が下火になった1960年代までに25万人の日本人がBrazilに渡り、今は二世三世の時代となって日系人は130万人、その半分はSao Paulo市、7割がSao Paulo州に住むという。日系人の誠実さ熱心さが評価されてBrazil人の日本人気は高いらしい。
Minas-Gerais州を中心に宝石が多く産出し、加工賃が安いため、宝石はお買い得と聞いた。世界で同州にだけ産出するPrecious Topaz (Imperial Topaz)の茶黄色の光の虜になったワイフは、小さい石を購入した。
Rio de JaneiroはRiver of Januaryの意味だ。Amerigo Vespucciが1502年の元旦にGuanabara湾に入り、てっきり河口と思って命名したという。今まで見た都市で一番美しいと感じた。海から近付けば、Gondwana大陸分裂時の切り口のほつれだという花崗岩の巨大な岩柱があちこちに立ち並び、最も高い710mのCorcovadoの丘には蝋石で白く仕上げられた30mのキリスト像がポルトガルに向かって両手を広げて十字架を成している。海に突き出た二つの岩柱はPao de Acucar = Sugar Loafと呼ばれる。残念ながらロープウェイが補修中で登れなかった。白砂のIpanema海岸Copacabana海岸は、勇敢な水着が無くてもただ美しい。一度は伐採しすぎて丸裸になったという山は今では大木の緑が蘇っている。但し一部の山は貧民窟化している。公営住宅を建設するより公有地の不法建設を黙認した方が安上がりという判断だそうだ。貧民窟といっても南阿のものとは比べ物にならない立派なもので、衛星放送のパラボラが林立していた。
Brazilの古都Salvadorでは、ポルトガル時代の町並みがUNESCO世界遺産になっている。しかし奴隷港の伝統で貧しい黒人が多い。南緯3度のFortalezaにはポルトガル人が築いた南米初の要塞がある。これら北部の町は近代的なRioとは似ても似つかず、どこかインドの町を思わせる。
長年政治不安があったし、Brazilia遷都の負担と政府の無策で1980年後半から10年間ハイパーインフレがあったりもしたが、今は政治も経済も落ち着いている。問題は尽きないが株は買いかも知れない。 以上