船は3月25日深夜にインド南端Cochinを出航して次の寄港地Seychellesに向かって3日間の航海を続けている。Cochinを観光して思ったのだが、先年中央インドのDelhiやTaj Mahal周辺を観光したのと雰囲気が異なる。不思議に思って調べて見ると、それなりの理由があった。
広大なインド洋Indian Oceanのうち、インド大陸の東側をベンガル湾Bay of Bengalといい、西側をアラビヤ海Arabian Seaという。アラビヤ海に接するインド大陸の南端Malabar海岸と、背後のWestern Ghats山脈に挟まれた全国土の1%ほどの細長い地域がKerala州だ。その南部にある州都に匹敵する中央部の都市がCochinだ。名古屋コーチンと何か関係があるのかと調べたが、鶏のCochin種は中国原産だそうで、関係を見つけ兼ねている。Cochinという市がある訳ではなく複数の都市の総称だ。1947年に独立インドに合流するまでは英保護領のCochin藩王国だった。CochinだけでなくKerala州全体が、山脈に遮られてインド本体との接触や侵略が限られる一方、長い海岸線と天然の良港で古くから海上交易で栄えた国際的な存在だった。インド本体とは一線を画していた訳だ。CochinはSan Franciscoに似ていると思った。狭い海峡を入ると大きな内海が広がる良港で、しかもインド南端という位置が好都合だから、我々の船もここに寄港した。
KeralaとはChera人の土地という意味だそうだ。Chera人は侵攻してきたAryan族に追い払われた先住民Dravida族の一派で、Tamil語の一種であるMalayalam語を話す。Tamil語は古日本語との間に数百の共通単語が発見されている遠い親戚だ。Chera人の王国は3cBCのAshoka王の碑文に記載があるという。紀元前後のギリシャやローマでは、胡椒などスパイスの積出地として知られていた。6-8cにはアラブ人が移住してきてIslam教を持ち込んだが、11cまでにHindu教の優位が確定した。
ポルトガル人Vasco da Gamaが初めて喜望峰を回ってインドにたどり着いたのは1498年で、Cochinの北方の町Calicutだった。Gamaが2度目の航海で1502年にCochinに商館を開いてから、ポルトガル人はアラブ人を追い払い、Cochinはポルトガルの根拠地となり要塞が築かれた。しかし17cにはオランダ人がこれに取って代わった。同じ頃イギリスは1640年に南インドのベンガル湾側Madrasに要塞を築き、1661年には英王に嫁いできたポルトガル王妹の引出物としてBombayを受け取り、更にGanges河口Calcuttaに1690年に商館を築いた。Calcuttaは1912年にNew Delhiに遷都するまで英領インドの首都となった。このようにイギリスは着々とインド経営を進めオランダ人を追い落としたが、Kerala州もCochinもイギリスの活動拠点から遠く離れ、英植民地文化とは無縁だった。そのためポルトガルやオランダの時代で時計が止まったようなCochinが今見られる。内海に入る海峡に面してポルトガル人が建てたFort Cochinという町にインド最初の教会があり、移葬されるまで14年間埋葬されていたというVasco da Gamaの墓所があった。ポルトガル人が建てて藩王に進呈し後にオランダ人が増築したという邸宅が、当時を偲ぶ博物館として残っている。
ユダヤ人がCochinに移住してきて商店街Jewish Streetをひらいたのは4cと言われる。ところが20世紀後半にイスラエル建国に参加すべく全員移住してしまった。十数世紀も民族のIdentityを失わずに来たというのがすごい。今はインド人が土産物とスパイスの店を開いている。
インドだから仕方ないが、町を歩くと物売りがしつこく迫る。しかし中央インドと異なり、いたいけない子供をそれに使ってはいない。またどうしようもないホームレスの貧困層がほとんど見当たらない。その理由は多分Cochinが盛んな都市でも外国観光客の町でもないから、物乞いをしても大した収入にならないことが主因ではないかと想像した。
3月25日夕食後にはKerala州特有の民族舞踊Kathakaliのショーを見た。歌舞伎と同様男役も女役も男性が務め、Hinduの神々の事跡を伝える踊りなのだが、所作が能のように抽象的で動きが少なく、素人にはさっぱり分からなかった。娯楽への期待を裏切られて席を立つ人が多かった。
インドは広い。中央インドだけ見て知った気になってはいけない。以上