うつせみ 
2002年 3月 30日
             Seychelles

 Seychelles(セイシェル)諸島は、綺麗な海辺で最近日本でも知られるようになった。インド洋の西側、Madagascar島北北東の南緯4-11度に広がる。Republic of Seychellesという英連邦のれっきとした独立国だが、人口はわずか8万人だ。最大のMahe島は東西6km、南北26kmの花崗岩の島で、国民の90%が住む。その3/4が住む首都Victoriaが唯一の飛行場と我々が停泊した客船埠頭を持つ。Victoria英女王を称えた時計台が町の中央にあり、それはLondonのVictoriaにあるものと同形だという。我々夫婦は積極的に動き、自然公園の山登りをし、町を巡り、海岸線を回って砂浜で遊んだ。「南海の楽園」という言葉が思い出される島だった。

 紅海にはプレートの境界があって、アフリカとアラビア半島の間を押し広げている。その境界となる海嶺が紅海の南端から南下してインド洋を二分している。Gondwana大陸にこれらの裂け目があちこちに出来てアフリカ、インド、オーストラリア、南米などに分化した時、各大陸の周辺では綺麗に裂けずに断片が生じた。Madagascar島やCeylon島のような大きな断片も出来たが、もっと小さい断片の一つがSeychelles諸島周辺の半月形の海嶺で、全体的に陥没したため山の頭だけが40余りの平野の少ない急峻な島として残った。見かけは伊豆諸島などに似ているが火山や玄武岩は全く無く、日本の中国山脈を思わせる古い地質の花崗岩だ。これら標高のある島々の他に、浅瀬に発達した珊瑚礁のほとんどは無人の平らな島が70余りあり、合計115の島がある。南の最果ての珊瑚礁Diego Garciaには英米の共同基地があり、アフガン攻撃に使用されたことは記憶に新しい。

 元々は無人島で、18cに仏人が発見して植民を始めたが、英仏戦争によって1810年に英国に割譲された。しかし住民は仏開拓者、仏流刑者、アフリカ人奴隷、少数のインド人マレイ人などの混血Creoleで、従って英語よりも仏語と仏語ベースの現地語Creoleの方が優勢である。当初は奴隷を使った綿の栽培が行われたが、英国が奴隷を禁止してからは、人手の掛からないCoconut、Cinamonなどが盛んになった。茶畑も多く見かけた。日本の茶に比べて葉も花も実も2倍くらい大きい紅茶用の木だった。1976年に晴れて英連邦内の独立国となった途端、一党独裁の社会主義国となり、人民党(Seychelles People's Progressive Front)が指名した大統領を国民が信認投票する政治体制となった。しかしソ連崩壊などの情勢をみて人民党も変わり、今では大統領候補に対立候補を競わせることもしている。ただ議会は人民党が大部分を占める。

 Mahe島の最高峰は標高905mの露出花崗岩の峰だが、天城と同じ年間3mの降雨量に支えられた深い緑が山腹を覆っている。山に分け入ってみると、岩がちな急斜面にうっそうとした森があり、雰囲気は天城山に似ている。植生は勿論違っていて、Jack Fruitの木が目立った。幹から直接フットボール状の実が幾つも生っている姿は我々には異様に見える。うろこ状の表面も中身も匂いもドリアンそっくりだから、親戚なのかも知れない。Cinamonの木がそこらじゅうにあって、特産品になっている。野生のコーヒーの木もあった。栽培種は背が高くならないように改良されているが、野生の木は直径10cmほどの幹が数本立ち上がって高さ数mに達していた。

 島の各地にある入江に広がる海浜には花崗岩の真っ白い砂があった。中国地方と同様だが、海が荒いせいか砂粒がずっと小さく粉末のようだ。泥がないから海水が透明で美しい。年間常に23-30度の気温で、ほとんどは白人の観光客が、波に戯れ、椰子の木陰でくつろぐ。そういう観光収入が外貨収入の3/4を占めるそうだ。後1/4はCoconut, Cinamon, Vanilla, 漁業で稼ぐ。生活程度も物価も欧米レベルに近い。時折モータボートが通り過ぎて沖の小島に向かう。水平線がクッキリと空との境界を描き、青い空には積乱雲が立ち上る。時々激しいスコールがやってくるが、土地の人は傘を使わない。雨に濡れることを厭わないようだし、直ぐ晴れて青い海から虹の橋が掛かることが分かっているからだろう。

 こういう島に一週間身を沈めていたい気もするが、不幸な私の性格では一週間以上は居られないような気もする。           以上