英植民地でNapoleonの2度目の流刑地St. Helena島に船は立ち寄った。私を含めて日本人は[he'lena]と第1音節に力点を置くだろう。米人現地人は第2音節に力点を置くから[sentele'na]と聞こえる。今朝デッキに出て見ると、St. Helenaの垂直に切り立った不毛の岩壁が目の前に立ちはだかっていた。フムさすがは流刑に利用した島だけのことはある貫禄だ。太平洋には色々な島があるが、大西洋にはほとんど島がない。例外がこのSt. Helenaで、ポツンと標高818m、10km x 17kmほどの死火山の島がある。幾重にも溶岩が層をなし、非活動期と思われる砂岩の層が所々にある。それを大西洋が浸食して垂直な岩壁にしてしまったから地層の標本を見るようだ。島は南緯16度にある。Brazilのど真ん中Braziliaが丁度16度で、アフリカで言うとMadagascarの北端に近い辺りが16度だ。この南緯16度線上で、アフリカ大陸から2000km、南アメリカ大陸から4000km離れた孤島だ。当然飛行場はない。島で米国宛に航空便を出した人が待てよと首を傾げて皆で大笑いした。まず多分Cape Town辺りまで数千kmは船で運んでから飛行機に乗せるはずだ。実は島の三方は岩壁だが南側には浜がある。しかし遠浅で船は近づけない。北側の岩壁の一部に深い谷があって、そこに島唯一の町であり首都であるJamestownが細長く横たわる。島の人口5千人の1/4がこの町に住む。予算の2/3は英政府からの補助金だという。
1502年にポルトガルに雇われたスペイン人Nova Castelloがこの無人島を発見した。発見日5月21日がSt. Helenaの祭日だったのでその名が付いたそうだ。それ以来、ポルトガルが密かに果樹などを植え、喜望峰航路の秘密の水・食料の補給基地として利用していたが、1588年英人Captain Cavendishに見つかってしまってからは各国が利用するようになった。一時オランダが領有したが1659年に英国が力ずくで英東印度会社の所有にしてしまった。1815年にNapoleonが流されてきて1821年に病死するまでここに幽閉されていた。知事公邸の庭で、Napoleonと入れ替わるように1822年に連れてこられた大きな亀を見た。「亀は万年」は本当らしい。
接岸埠頭などある訳がないから、我々は艀で上陸し狭い山道を走れるマイクロバスに分乗して観光に向かった。岩壁とその上は年間降雨量200mmの不毛の地だが、内部の山地は800mmの雨が降る緑豊かな土地で牧畜と造林が盛んだった。その一角にNapoleonが幽閉されていたLongwood Houseがあった。大きな敷地には巨木と花壇があり、広い家屋には瀟洒な家具があった。こういう所に島流しになってみたい、寿命が伸びるに違いないと凡人は思う。しかしNapoleonは鬱々として楽しまず、監視つきの外出も拒否して悶々と苦しみ、遂に胃潰瘍または胃癌で命を縮めたという。一部に砒素毒殺説もあるが学界は否定する。仏議会から裏切られ、最愛の妻(当時はJosephineではなくAustria皇帝の娘Marie-Louise)も息子も1通の手紙も寄越さなかった上に妻は他人と結婚してしまった。栄光の行動の人には耐え難い精神的苦痛の日々だったらしい。1840年に仏に改葬されるまでNapoleonが19年間埋葬された墓所は、花々に囲まれた場所だった。
Jamestownの海に面し、1659年に英国が築城した五稜郭型の城がある。また近くの岩壁の上には近代戦に備えた19世紀半ばの要塞がある。この二つは標高差200m、700段の石段Jacob's Ladderで結ばれている。上も下もマイクロバスで見物した後で、愚かにもこの階段を往復してみたくなった。休まずゆっくりとんぼ返りで上下し、上り18分下り12分掛かった。
Napoleonは2度の敗戦以外は常勝将軍だったのかと思っていたが、実はあちこちで負けている。典型的には英Nelson提督に海戦で惨敗しEgypt遠征軍が帰れなくなってしまった上に、陸路Syriaでまた英軍に負けて撤退し、自分だけ仏本国に逃げ帰った。ただそれでも機を見るに敏、人心操作に長け、復帰できる幸運の野心家だった。ロシアの冬に大敗してElba島に流刑になった時も、復活したBourbon王朝の不人気に乗じて皇帝に復位した。しかしWaterlooで英軍中心の連合軍に負けて仏議会から廃位され、St. Helenaに流された。Napoleonは「予は歴史に控訴する」と言ったそうだ。控訴審が仏なら勝訴、国際法廷なら敗訴と見たが如何? 以上