Gold Rushといえば、米国California州の山奥で1848年に金が発見され、翌年Forty-Ninersが全国から殺到したことがよく知られている。これと区別してAustraliaのGold Rushは"Victorian Gold Rush"という。米国の直後1851年に金が発見され、その年のうちに一攫千金の山師が殺到した。VictoriaとはAustralia南東部の州の名で、Melbourneを州都とする。元々Australiaの東半分はNew South Wales州であったが、流刑者ではない自由人が1835年に設立したMelbourneが分離工作をし、奇しくも同じ1851年7月にVictoria州が成立した。この年の7-8月にVictoriaに金発見が相次ぎ、9月にMelbourneの新聞に報道されたため、直ちに大勢の人が押し寄せ、より多くの金が発見された。最も大規模に金が発見されたのが、Melbourneの西北西80kmのBallaratの町であった。最初は金塊を拾って歩いたという。拾えなくなると川やせせらぎで洗面器状のPanで金を分離するPanningが行われ、それも尽きるといよいよ地中に掘り込む金鉱山が発達した。しかし異常なブームは10年間で終わった。坑道での産出は続いたが、鉱脈はあるものの経済的に合わなくなって寂れた。ところが最近の金価格高騰で再び商業的な掘削が行われているという。
1858年には世界最大の69kgの金塊"Welcome Nugget"が上記Ballaratの郊外で発見されたが、1869年にはBallaratの北60kmで61cm x 31cm 72kgの金塊"Welcome Stranger"が発見された。発見者は物理を勉強していなかったらしく、72kgもの金塊を計るはかりがないと見るや、金床の上で金塊を3つに切り分けてしまい、直ちに熔解したという。
このGold Rushのおかげでこの地域の人口は急増し、Australia発展の基礎が築かれた。一時はAustraliaの人口の半分近くがVictoria州に居た。因みに最大の都市Sydneyの人口は今4,300k人だ。
1851 | 1861 | 現在 | |
Melbourne市 | 10k | 29k | 3,700k |
Victoria州 | 80k | 540k | 5,000k |
Australia国 | 440k | 1,150k | 20,000k |
私共は上記Ballaratの町に見学に出掛けた。市内のSovereign Hillという丘陵に、NPOが25 Hectareの敷地と60棟を管理して1850年代の金鉱の町を再現している。経済的に合わなくなった金鉱山の保存のために観光の力を借りている。町には銀行、郵便局から靴屋、パン屋に至るまで当時の姿を復元し、当時の服装のVolunteerが対応している。馬車が走り、馬車の車輪を修繕する車輪屋まである。また山師が暮らしたテントや掘立小屋も再現されていて、命を削って金を求めた時代が感じられた。
予約時間に行くと金鉱山の坑道を案内してくれた。確かに金鉱石の鉱脈がある。そこに巨大な金塊が幾つも露出しているように薄い金の延べ板を加工して貼り付けてあるのがご愛嬌だった。鉱脈を追って網目のように坑道が上下左右に走っている。この鉱山では経済的には合わないが観光で採算をとるために今でも細々と採掘が続いている。白い鉱石を臼で砕き、水流で布の上を流すと、金片が布に残るというデモをやっていた。
下の方のせせらぎでは皆が洗面器のようなPanで砂金を選び出していた。「採れるか?」と青年に聞いたら1片あったという。それならと、Calforniaの金鉱山でPanningをした経験がうずき、川底からスコップで掘り出してPanに入れてみた。Californiaでは泥だったので洗い流すのが容易だったが、ここでは白い鉱石を砕いた砂ないし小石だ。小石は手で取り除くとしても砂はなかなか洗い流せない。1回目のPanは結局収穫ゼロだった。諦めて帰りかけたがダメモトでもう1度と、2度目のPanに挑戦した。今度は砂を洗い流すノウハウを発見したので、砂をPanの中で揺すって金を下に沈ませて上澄みの砂を洗い流すことを何度も繰り返し、最後に広げてみたら、微小な金片だったが5個も見つかり、売店で求めた小瓶に水と一緒に入れて持ち帰った。時間がなく2回だけで止めたが10分ほどの努力は充分報いられた。小瓶の底を光にかざすと黄金色に光るものがある。
Victorian Gold Rushの一端を感じとれた一日だった。 以上