うつせみ
2006年12月 1日             Maoriの里

 人口4M人のNZ=New Zealandでは最大の都市1.5M人のAucklandの北には、細長い半島Northland=北部が伸びている。観光客が寄り付かないMaori族の田舎だ。Maori人口は0.6M人だが、北部では人口比50%だという。

 その北部でMaoriが伝統文化を案内するバスツアに参加した。彼は典型的なMaori族の顔ではなく、黒髪色黒だが伊人とかギリシャ人とか言われれば素直に信じられる西洋的な顔立ちだった。そういえば先日見たMaoriダンスの主役は色白長身で白人みたいだった。彼に尋ねると「自分はMaoriだが、NZに来た最初の英宣教師の子孫だ」と言った。(1)Maoriの親の子で、(2)自らMaoriと自覚する人は、Maoriとして登録でき、政府のMaori支援省の保護施策が受けられると言った。純粋に近いMaoriの割合を問い10%?と尋ねたが、彼は多分もっと少ないと言った。彼は牛の牧畜と旅行業を営み、娘が上海とLas Vegasで活躍するエリートだった。

 我々はまず深い入江の奥の部落kerikeri Basinに案内された。ガイドの祖先の英宣教師が1823年と1833年に建てた木造と石造のNZ最古の建物(!!)があった。石造の3階にはMaoriの子女を教育した学校もあった。次に巨大なカヌーや建物の材料としてMaori文化を支えた巨木の森に案内された。Kaori Treeと言うので日本の女性名を連想したが、天に向かって数十mも直立する直径3m近い巨木の看板にはKauriと書いてあった。

 北島特に北部を中心にNZには28のMaori部族が居るが、我々はMangamukaの部落でガイドの妻に迎えられ、1つの部族の神聖な集会所Maraeに案内された。門で妻が「客人を案内する」と声高らかに歌うと、集会所入口の女性が歌で応え、我々は集会所入口に進んだ。靴を脱ぎ極度の静粛で大教室ほどの集会所に入った。年老いた酋長がMaori語で挨拶し祈りを捧げ、それから流暢な英語で歓迎の辞を述べた。我々の中から選ばれた臨時の酋長が感謝の言葉を述べ、客人として必要な部族の歌を歌う代わりにYou are my sunshineを全員で斉唱した。応えてガイドと妻がこれは見事な二重唱で応えた。壁面の柱には舌を長く出した顔面の彫刻があり、主要な先祖の名が彫りこまれていた。壁面にはその後の先祖の写真が所狭しと並んでいたが、1割ほどは結婚してMaoriに仲間入りした白人の写真だった。MaraeはMaoriの心の故郷で、遠くにあっても必ず戻ってくるという。MaoriはほとんどChristianだそうで、Maraeの背後には教会があった。

 Maoriと英国がTreaty=条約を締結した歴史的な地Waitangiを訪れた。条約は他の植民地では見られないことで、Maoriがそれだけ強力だったことを示す。宣教師がAlphabetを教えるまでMaoriには文字が無く伝承だけだが、Maoriは意外に新しい西暦800年乃至1300年にTahiti辺りから移住してきたPolynesianだ。Abel Tasmanが1642年に、James Cookが1769年に接触した記録によれば、Maoriは誇り高く獰猛な戦士で部族同士の戦争が絶えず、負けたら奴隷にされるか食われた。1830年には白人が2千人もNZに住むようになり、彼等を通して輸入した銃による殺し合いと、白人が持ち込んだ病気でMaoriの人口は減少し、19世紀末にはMaoriは白人に同化されて消滅すると観測されていた。白人に土地を正当または不当に取り上げられたことが退勢に輪をかけた。しかし20世紀にはMaoriは力を取り戻し、第2次大戦には志願兵としてAfricaで勇敢に戦った。今では白人を含む義務教育でMaori語が教えられ、共存路線が敷かれている。条約折衝の仲介とMaori語正本の制作にはガイドの先祖などの宣教師が当たったという。

 1840年に500名の酋長が集まって議論した場所や、主要酋長が署名した大テントの場所を見学した。3条から成る条約の英語版を読んだ。第1条:酋長は英Victoria女王に主権を移譲。第2条:Maoriの土地・財産・権利の保障。但し合意価格で買収可能。第3条:Maoriは英領民として保護。とあった。実際には不当価格で買い上げた例もあったが、1960年代にはMaori問題裁判所が設置され、Maoriの権利侵害を回復する動きがある。NZでは欧州式の土地所有と、Maori部族の共有土地とがあり、Maoriは前者で土地を所有することも、後者で部族の許可で使用権を得ることもできる。

 植民地の中では、Maoriは最も権利を認められた原住民だと思う。以上