うつせみ
1998年 10月17日

          アイヌ語は原日本語

 アイヌ語は琉球語とともに縄文時代の日本列島の言語、つまり縄文語を色濃く残し、人種的にもアイヌ人と琉球人は類似していて、日本語と日本人が弥生人の侵入で変わってしまう前の姿を留めている、という新説を私は信じてしまった。琉球語もアイヌ語も朝鮮語も文法は日本語に極めて近い。従来から琉球語は日本語の一方言と認められて来たが、アイヌ語については学界では次のように言われていた。
1.アイヌ語は日本語とかなり異なり単語の音韻対応は証明できない。
2.類似の単語も多いが、優勢文化の日本語からの借用語と思われる。
3.従って日本語と同様に親戚の見当たらない孤立語である。
 以上の学説に敢然と反旗を翻したのが、ルポライタの片山龍峯氏で、
  すずさわ書店 日本語とアイヌ語 351頁 1993年初版 \2400
という本にその主張が明快である。言語学の専門家ではないが東京外語大のポルトガル語科出身とかで言語に土地勘があり、至極科学的に現地調査から学説を積み上げるスタイルの立派な本である。

 まずアイヌ人と琉球人は同じ縄文人だという。言われて見れば確かに典型的なアイヌ人から髭と刺青を取り去れば顔つきはそっくりだ。日本全国に住んでいた縄文人とその文化が、弥生文化と共に侵入して支配階級に収まった弥生人の影響を受けない南北端に温存された構図は、欧州のケルト人がローマ人に押されて周辺地に残る関係に似ている。

 片山氏の新規性は、単語家族(Word Family)という概念を持ち出したことである。例えば日本語の「朝(あさ)」、「朝(あした)」、「明日(あした)」、「明後日(あさって)」などは全て1つの語幹から発展したファミリーで、これを単語家族という。単独の単語同士を比較する限りアイヌ語と日本語は既に大きく隔たっていて音韻対応が付かない。しかし単語家族を援用して比較すると、はっきり対応が付くというのである。例えば「tama=玉」をアイヌ語ではnumと言って単語同士は似ても似つかない。しかしアイヌ語の単語家族として、num=球、rum=頭、rup=頭、tum=どんぐり、topa=群、toma=球根、tom=粒、tomtom=つぶつぶ、などがあり、n - r - tは舌の位置がほとんど同じでしばしば交替するという発音学の常識を適用すると、tamaはnumに対応すると言えるという訳である。

 他の例では、日本語の「開く」、「広し」、「広ぐ(ひろぐ)」という単語家族の語幹hirは古くはpirあるいはpitであったと考えると、アイヌ語の「pirasa=開く」が対応し、語源不明の日本語の「ぴたり」「ぴったり」は「全面的に広く」という意味で「広し」の一族と判るとのこと。同様に「さっぱり」は「寒し」、「寂し」の一族で、「足りなくて良くない」の原意とのこと。アイヌ語との関係で日本語も判ってくる。

 またアイヌ語から雑誌名に使われた「ノンノ」は、幼児語でアイヌ語では「花」、日本語では「神様」、で一見対応しないが、双方の方言を調査すると、「母」「兄」「日・月」「医師」「明かり」などの広がりがあり、「良いもの」「尊いもの」という原意の共通単語だそうだ。  日本語の「青」という単語は今ではブルーのことだと誰もが思っているが、信号の「青」や「青物市場」から明らかなように緑を含む。更に古代ではもっと広範囲の色を青と言ったそうで、今でも黄色を青という方言があるという。アイヌ語の「aw=あの世」の原意を調べると、「中間の範囲」「隣」であることが判り、「青」は白と黒の間の広範囲の色を指したに違いないし、「合う」、「間」、などとも単語家族を作るという。

 氏のもう一つの貢献は、アイヌ語の基本語彙の組み合わせで単語を作る構造の分析から、(借用語は構造分析出来ないから)多くのアイヌ語の単語が日本語からの借用語でなく固有単語であることを示した点である。

 面白いのは縄文土器はなぜ縄模様かという点で、縄を張り巡らせれば悪霊が入らないという信仰が縄文文化にはあり、それがしめ縄に継承され、アイヌの衣装の袖口や裾の独特の模様も元来は縄模様だったという。

 言わば門外漢の片山氏がこれだけの学説を組み立てる間、本職の言語学者は本当にアイヌ語を研究していたのだろうか?        以上