うつせみ 
1995年12月29日
             アカカキ

 瀬戸内海の海辺に育った私には伝馬船と親しんだ思い出が多い。伝馬船 という表題の小冊子も書いたことがある。私の家はよそ者のサラリーマン だったから船を持ってはいなかったが、隣のおじいさんは船大工だったし、 ご近所や友達の家の船をよく漕いだ。

 伝馬船は勿論木船で、船底は板である。荒れた海では諺通り「板子一枚 下は地獄」となる。板の継ぎ目には細い麻縄を打ち込んであり、濡れると 防水性が高まる。それでも船内にしみ出してくる水をアカと呼んだ。辞書 を引くと「淦」という字があり、JIS第2水準に含まれている。なぜ「金 ヘン」なのか不思議な字ではある。アカは手桶風の「アカカキ」で時々船 外に掻き出す。伝馬船も古くなると板が痩せてアカが増える。

 或る時上級生のガキ大将に命じられてオンボロ伝馬船に乗せられた時に は、ガレイ船を漕ぐ奴隷のようにアカカキに精を出さねば見る見るアカが 溜まる酷い船であった。懸命にアカカキをする姿はガキ大将から見ると可 愛いから、一心不乱にアカカキをしていれば覚えめでたかった。

 船底に掌をかざすと板の継ぎ目一列分から屏風のように水が噴出してい た。下の海水が薄緑色に細く見える部分さえあった。船を舫うためと漁の ために搭載されていた麻縄の一部を解いてその水漏れ部に棒切れで押し込 めばアカカキはずっと楽になるかも知れないが、縄を解いたりの作業の間 はアカカキができないから船内の水位は上昇してしまう。下手をすると折 角或る平衡状態になっているのを壊してかえって漏水が多くなってしまう かも知れない。しかもガキ大将の命令に背いて可愛いはずがない。でも平 易を嫌う私はやはりやろうとしたが、ガキ大将に一喝されてしまった。

 こういう状態に自分があると仕事の上で初めて自覚したのはメインフレ ーム事業移管の前であった。当期の損益を考えれば額に汗してメインフレ ームを1台でも多くレンタルしてもらうのが正解であった。しかし無理す ればする程レンタルバックのリスクが増し、恐らく中期的損益は悪化する。 この蟻地獄から脱出するには、事業のあり方を変えなければならないが、 どう変えても当期の損益は悪くならざるを得なかった。かなり大きな損失 を覚悟して初めて方針変更ができ、黒字化が可能となったのである。

 こんなことを思い出してしまったのは、最近当社の或るBUが似た状態に あるのではないかと思ったからである。市場動向に対応できるようにもっ と社員の教育訓練に注力し事業内容を転換しなければならないことは誰で も分かっている。しかし当期の損益を考えれば教育など不稼働時間は極小 化した方がよい。だから「今期は予算達成に専心したい。教育投資は来期 一気に実施する」といったコメントが聞こえて来る。このBUの業績は経年 的に徐々に悪化している。だからこそなお当事者は何としてでも当期の業 績を守りたい。一番の近道は慣れ親しんだ事業内容で一心に頑張ることで ある。そのためには教育や先行投資は残念ながら控えなければならない。 この気持ちは痛いほどよく分かる。しかし今期そうしなければならないと すれば、来期は別とはならず、来期もきっと同じであろう。そうしている 内に状態は段々悪くなるに違いない。

 今期は先行投資でこれだけ悪くなるが来期・来々期はこのような効果が 期待できると提案したら拒否されるだろうか。そうは思えないが、しかし こういう提案は結構難しい。思惑が外れれば状態はなお悪くなる。事業だ から100%の自信はあり得ないにしても、賭けるに足る或る確率で中期的に 効果の出る施策に自信を持てるだけの視野がリーダに要求される。国内観 光の業者には国内観光のお客さんしか来ない。海外観光が伸びていること を耳にしてはいても、自分のお客さんは海外観光を要求しないから、海外 観光進出の投資に自信が持てない。一番安心なのは、新規投資を抑えよく 分かっている国内観光で粉骨砕身頑張ることである。だがこういう経営で は必ず時代に乗り遅れる。リーダの広い視野と決断が必要な所以である。

 色々施策を試みて賭けをするよりも、額に汗して一心不乱にアカカキで 頑張って可愛がられた方が得だという環境がもしあるとしたら問題だし、 アカカキ以上の才覚に欠けるとなればなおさら深刻である。  以上